s35年08月22〜25日, 海上自衛隊体験入隊,
261,護衛艦「わかば」
竹芝桟橋
海上自衛隊横須賀基地
東京→大島→横須賀
海上自衛隊に体験入隊をする。
東京,竹芝桟橋より東京湾を抜け,大島に寄港。ヘリコプターで千葉館山まで渡り,護衛艦で東京に戻る予定でいた。
当日は天候が悪化し護衛艦「わかば」が東京湾を抜けると波浪高く,大島に寄港できなかった。沖合いに停泊,ヘリは中止となる。
大島から館山に向かわず横須賀,母港に帰港した。そして護衛艦「ゆうぐれ」に乗り換え東京竹芝に戻る。
体験者は人数を忘れたが若干名で大学生,社会人が殆どを占めている。私は一人,最小年者であった。
その為,入隊に対しては我が家に関係者が集まり,膨大な書類に父が署名していたのを覚えている。
事故と保障,ヘリ搭乗に関する書類,親が承諾するの為の数々の書類である。
回想
艦上からの東京湾奥は意外と見慣れていた。横須賀まで個人的に何度か搭乗させて頂き,観閲式も参加させて頂いていた。
護衛艦「わかば」が出航するにあたり,最初は拘束なく甲板を自由に歩き回っていた。
大型商船,タンカーが途切れなく擦れ違うも,東京湾を抜けると航路から外れ.一艦の大海原となる。
ベタ凪で高曇の明るい空が水平線を円く描いていた。その時,班長から私に艦橋に出向くよう呼ばれた。
舵
私一人が舵を握る。艦長がトモ舵冥一杯と指図すると伝言が伝わり,私が力一杯舵を取る。舵の回転は軽いが早く回さねばならない。
凪の海原と空,艦首はそこを切る。艦が傾く感覚を覚え,今自分で大きな艦を動かす実感に沸いていた。
次にオモ舵の指示がでた。冥一杯,反対右に舵を回した。それを繰り返す事3回。
上手いと艦長は誉め,上段に登るよう指示を受けた。班長に案内されたマスト下,ここからは甲板がよく見える。
その先,海原は艦から出来た波が大きな弧を海面に描き出していた。蛇行する波が見事に描かれた。私が造った航跡が遥か先まで続いている。
酔う
大島が近ずくと波が立ち,海面は暗くウネリが強くなる。横須賀に戻るも海は大荒れとなった。
私は直ぐダウン。食堂兼居間の場所は,弱い乗組員で溢れていた。座っていると体が左右に振られる。腰は浮いたと思うも急激に落とされた。
私には常に世話係が付いてくださるが,「大丈夫か?」,頑張れと云うも駄目である。横たわり目をつぶる以外方法はなかった。
作業
横須賀沖に停泊,これからは乗務員と同じ作業を繰り返す。まず甲板の掃除から始まり,じっくり腰を落とし錆び落しもする。
カッター訓練も行った。号令に合わせ共同体を作るが私の手にオールは大きく,体で漕げと云うもタイミングがずれた。
スポーツ用とは違い,確りしたオール,浅く漕ぐよう薦められた。小舟の櫓は小学校の頃,教わり少しはできるも,コツでできるものではない。
食事
食事は美味い。私も一番の楽しみになった。毎日,朝,昼,夕に夜食がある。本職の料理人が作るのだから美味い筈である。
夜はパン食だがこれも,なかなかのものである。艦内だけでなく,甲板でも食べられる。仲間,隊員と共に食べた。
竹芝に戻る最後の日,作文を書かさせられた。その時,代わる代わる隊員が寄り添い,飯が不味いと必ず書くよう助言を受けた。
美味いと言うと「嘘だ!」,「もっと美味いものを食べたいだろう!」,「感謝するから!」と切がない。
仲間意識が出てきたのか,少し分かる気も現れた。
自由時間に港内で釣りもした。何も釣れなかった。釣目も覚えていないが。
翌日,タックボートで別の護衛艦「ゆうぐれ」に乗り換え,竹芝に向かい体験入隊を終えた。
護衛艦「ゆうぐれ」
竹芝桟橋
横須賀,184,「ゆうぐれ」→東京,
護衛艦「わかば」,「ゆうぐれ」共に米軍より給与された軍艦
登山を始める前は10年程,櫓漕ぎを覚え海上自衛艦に惹かれていた。よく東京と横須賀を往復した。先輩の誘いに乗り艦を渡り歩いていた。
従兄弟の紹介で「海の若人」に入会。会でも基地でも何処でも最小年者でマスコット的存在だった。
当時海洋少年団と云う組織があったが,もっと小陣まりした先鋭的な組織である。講習,講演に参加し造船所も随分見学した。
自衛隊横須賀基地はフリーパスで停泊の艦には,普段でも随分乗船させて頂き,昼食をご馳走になるのが常だった。
今記憶に強く残っているのが小学校5年の頃,米軍空母「レンジャー」と戦後初の潜水艦「くろしお」である。
若い訪問者に付き切りで案内され,何処でも可愛がれた。
私が小学生から中学生の時代である。仲間は今,その関係の仕事なり余暇にヨットを乗り回している。
私は海から山に目変えた。高校,大学と日本の山を駆け回り,今は釣りに嵌っている。
十数年毎に変わる趣味,この後はどうなるであろうか?
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