第1回春期ツァー合宿

          板谷周辺その後
高倉山での一本.       ,
      昭和35年第1回春期スキー合宿. 五色温泉宗川旅館

   立教大学ハイキングクラブ.第一回春期スキー合宿は昭和35年(1960年)2月25日より3月4日まで一週間をかけ.
     五色温泉スキー場.及びその周辺で行われた。cL小林隆志隆志sL鴨田英一.m石田勇.参加者15名.

   五色に決定した最大の理由は慶応ワンダーホーゲルの助言を受け.宿泊費が安かったからである。
     宗川旅館.素泊¥120.蒲団付き素泊¥150. 3食付き米持参¥350.(費用¥3000).
     一般宿泊料金¥500〜650.「スキー旅行案内」山渓.s34.12.発刊より.

   3月26日.雪は予想以上に多く雪質も良い。注文しておいた食糧.野菜類は慶応ワンダーホーゲルが勘違いしボッカする。
     2時間20分かけ宿に。部屋は1階の為.雪に埋まり穴倉のような感じがした。

   27日.6時起床.全員ゲレンデに集合.体操をし食当は苦心の雑煮を作る。8時よりゲレンデ.

   1日.快晴.雪は締まっていた。Kwcと前後して高倉山へ。
     賽ノ河原に出る。リーダーの協議の結果.頂は危険な為.中腹でスキーに興じた。
     帰路.ベタ雪となり弾丸滑降で捻挫2人がでる。

   2日.快晴.鉢森,アイスバーンで1時間かけ板谷へ。
     登り.雪に埋まり出しスキーを付ける。シールを付けた者と細引を巻いた者との間に多少差が出始めた。
     急斜面を下った所で昼食にした。昨日と同様ニギリ飯であったが.凍りつきボロボロになる。

   3日午後.運動会を行う。しかし吹雪治まらず形だけで中止とした。
     夜コンパが開かれ.一日中部屋に居る結果となった。

   4日,朝食後,閉会式を行い.捻挫の1名をスノーボートで降ろした。
                                                           
「峠」創刊号より

       五色温泉
   五色温泉の開湯白鳳年間のおよそ1300年前に小角が五色の湯煙を見て発見された。
     五色温泉はただ1軒の宿,宗川旅館で120年前に創業。現在は息子さんの宗川孝五郎が継承している。

   1908年(明治41年)スイス人.ハンス・コラーが日本にスキーを持ち込み紹介された。
     その後オーストラリア人.レルヒ少佐が1911年(明治44年)に新潟県高田町(上越市)でスキーを指導。スキー発祥の地とされている。

   同年にはオーストラリア人.オゴン・フォン・クラッツァが五色温泉に訪れている。
     日本最初の民間スキー場として五色温泉スキー場が開設される切っ掛けとなった。勿論当時のスタイルは長い1本杖の時代である。

   クラッツァの協力を得て五色温泉には皇族.華族専用のスキーロッジ.六華倶楽部が建築されている。
     華族の子弟であった板倉勝宣は当時の吾妻の山々を日記「五色温泉より高湯」で綴っている。

   吾妻山.鉢森山をワンデングし.高倉山新道.立教ルート口から五色温泉裏までの弾丸滑降コースも当時からの名であった。
     その後大分経ち1948年に民間用としての最初のリフトが草津国際スキー場に設けられた。

   宗川旅館が建築後.六華倶楽部を管理運営してきたが.昭和20年に返還されている。
     昭和25年の冬季国体で高松宮殿下が休憩用に使用されて以来.あまり活用はれていなかった。

   巨大な宗川旅館から比べると余りにも小さな六角館が脇にあり.古い確りしたいにしえを感じさせていた。
     私が通いだした昭和41年は.ひっそり建たずむだけの何年も使用されていない館であった。

   現在は奥羽本線に山形新幹線が走り.板谷駅からは五色温泉へ冬期も車が入るようなった。
     六華倶楽部は老朽化のため解体作業が行われ.仙台市に移築保存され,現在はない。

   賽ノ河原にある旧皇族が所有していた青木小屋は昭和37年.東海大学が譲り受け.緑樹山荘として再建された。
     宗川旅館の前主「源チャン」の支えもあったらしい。

   又板倉勝宣の親友.槙有恒は慶応山荘の新築に甚大な協力を尽くしていた。
     五色温泉スキー場は1998年(平成10年)にリフトの老朽化などにより閉鎖される。

       大正五年,五色温泉スキー日記 「五色温泉より高湯へ」

      十一月二十四日 
   宿の前一町ほどは何も障害もない広場で.傾斜も自由に選べる。
     ことに雪にはだれの跡方もない。三人の庭であるかのようにむやみと滑った。
   雪の上に立って眺めると.遥か前面に鉢森山がその柔らかい雪の線を見せて.
     その後の雪は夕日にはえて種々の色を見せる。
   寒さなぞは考えのうちにはない。暗きなってから家に入って温泉に入る。
     トンネルのような岩の下から湯が出ている。馬鹿にぬるいから長く入っつてでたらめに声を出す。

      十一月二十二日
   この二日で土の色を忘れてしまって,どこへ倒れても決してよごれない。
     雪が親しい友達のように思える。夜中のような静かさの中に人間の浮薄をいましめる.雪の壮厳がひしひしと迫る。
     机の上の空論と庇理庇とを木端微塵にうちくだく大きな力が.この雪をもって謙虚を悟れと叫んでいる。

   謙虚を洗えと教えている。
     小池が雪の中に倒れ.壮厳ば雪の臭いがあると盛んに主張した。ほんとうの真面目を教える臭いである。
                                                     板倉勝宣
   「五色から沼尻まで」
 昭和14年1月6日
     五色温泉→青木小屋→慶応吾妻山荘→家形ヒュッテ→五色沼→一切経山の肩→ 浄土平→吾妻小舎へ。

                                                     深田久弥
       「忘れえぬ山U」の「後記2」から
   私の山登りは中学一年の冬に始まったということにしている。というのは,それ以前にも山というものの姿はさまざま知っていた。
     …然し.そのような山を自分で歩くこと.もっと別の言葉で言えば.自分の激しい鼓動と共に山を呼吸しているような,
     あの感じを経験したのは中学一年の冬であった。

   板谷の駅で奥羽本線を下車し.雪深い道を五色温泉へと登り.スキーを覚え.裏の吾妻の山の中腹を歩いたり滑ったり転んだりした。
     吹き付ける風と.どこまで深々と積もるつもりなのか見当もつかない雪の中で.山の匂いを嗅いだ。

   それは.その後幾度となく嗅いで.嗅ぎなれてしまったために却って感じられなくなったようにも思えるが.
     今でも突如としてそのときの匂いが甦って来ることがある。

   …もし私に.この最初に嗅いだ山の匂いというものが.うまく表現出来たら,
     それに惹かれて山歩きを続けて来たのだとはっきり言ったかもしれない。

                                                      串田孫一


    宗川旅館
    今も変らぬ宗川旅館.玄関

   白凰年間.約1300年前に発見された。
     「子宝の湯」として広まった五色温泉は明治38年.宗川旅館として創業。

   そして明治44年12月には民間初めてのスキー場としてオープンする。
     ここはオーストリア人により絶好のスキー場として紹介され,上越長岡につぐスキー場として華やかさを増していた。
     勿論.一本スキーの時代である。

   皇族,華族,徳川家や細川家の人々が訪れていたと云われ.華族のスキーロッジがあった。
     昭和40年代には私もその奇抜な西洋風建物を見ている。
     当クラブ.RHCが利用し始めたのは昭和35年〜56年までになる。

     宗川旅館全景

    参加メンバー全員・・s44年03月撮影
     中央の建物が西洋風の六華倶楽部
     右上の最上の館2階6部屋を間借していた。


    Eパーティ女子部隊全員

      板谷周辺その後

       板谷街道
   近世まで米沢と福島.両県を板谷峠が結んび.奥羽本線に辿ってほぼ沿ったルートが取られていた。
     明治に入り.板谷より7k先にある栗子峠に,栗子遂道が掘削され.明治13年完成した。
     そして翌年.明治天皇により「万世大路」と命名されている。後の旧国道13号.

   昭和41年,幹線道路として東栗子遂道と西栗子隋道の完成により.栗子峠を結ぶ旧道は廃道へ。
     トンネルの落盤が激しく.今は車の往来すらできない。自然に帰りつつある。

   新道は板谷峠近く北東.約2kにある栗子山の中腹を綴り.新栗子峠を潜る。
     国道13.昇格と共に観光開発にも拍車が掛けられ.42年には鉢森山腹に栗子国際スキー場をオープンさせている。

   現在.板谷街道は廃道化が更に進み.以外と立派な道も「峠」で行き止まる。先は道の跡すら分からないでいる。
     我々が合宿の折何時も通る.車の通れぬ雪径化した駅前を通る街道である。
     雪降ればラッセルし.一本の筋を綴った径だった。

    「板谷駅」のスノージェット
    五色温泉より下り.s44年03月
    鉢森山へのツァー登り口.シールを付ける風景

      スイッチバック
   信越本線.碓氷峠と並び奥羽本線.板谷峠は急勾配の難所として4つの駅にスイッチバックが採用されている。
     峠駅.標高624m.その前後の大沢駅は470m.板谷駅548mで標高差が大きい。
     この3駅と福島側赤岩駅にスイッチバック.即ちスノージェットがあった。

   東北に来て初めてスノージェット.即ちレールに掛かる雪屋根を見る。素朴に深い雪国を思い.闘士を湧き立てた時期だった。
     幼い時.何度となく通った中央東線はスイッチバックの所は幾つもあるが.雪の庇はなかった。

   笹子峠までの桂川渓谷に汽笛多いトンネルを想っていた。トンネルに谷を越え高山へと。
     そして甲府を過ぎるとスイッチバックが再び幾つも続いた。

      想い出
   今想えば当時.見知らぬ山.盆地を過ぎ.八ヶ岳の裾を巻いていた。
     私の知る山は富士と高尾山.後は漠然としたアルプスだった。
     松本で見るアルプスも.伊那で見る南.中央アルプスも私には.分からないながアルプスだった。

   今は違う。全てが違っている。初めて見た東北の雪に何故か惹かれた。素朴な気が惹き付けるのか。
     「もう板谷に着くぞ!」と先輩に怒られた。
     怒鳴られ初めて知った事がある。東京生まれの私。昔.10歳頃.親に連れられ通った自分を想い出していた。・・1966年春期ツァー合宿

      板谷
   板谷は米沢とを結ぶ街道沿いにあり,鉱山もあって賑やかな宿場町。
     福島の市内に雪がなくとも.列車が庭坂を過ぎると常に沿線には雪が見られるようなり.高度を稼ぐと益々増し覆われた。
     雪を掻き分けるよう赤岩の崖淵からトンネルを潜れば.この周辺で一番立派な駅舎をもつ板谷駅に着く。

   駅舎前には広場があり板谷街道が板谷峠へ続いている。駅舎駅前には五色温泉の集荷所,詰所があった。
     入山.下山だけでなく.食材.燃料が無くなれば詰所に寄り.ツァーにも出向く事も多く.誰かが寄る場所になっている。
     叔母さんにお茶をご馳走になり.限りなく愚痴を言い.宥められてもいた。

   五色温泉へは雪のトレースに従い米沢側に進むとスノージェットがあり.前川を渡る吊橋がある。
     橋を渡るにはスノージェットを回り込まなねればならず.ボッカにツァーに五色温泉から下る時.常に見詰めていた雪屋根だった。

   スイッチバックのポイントあたりは掘建て小屋のような巨大なドームが被い.筒の先に線路が延びている。
     その横を通り.線路と防風林に挟まれた小高い小徑に入いる。急斜面が足場を悪くさせ.不安定で今にも線路へ落ちそうだった。

   西.東栗子トンネル「万世大路」の開通に伴い板谷街道も寂びれ.板谷峠の道も次第に藪で遮られ.線路を見守るだけになってをり。
     その後の新国道の開通は更に旧道を忘れさせられるようなり.山形新幹線の開業で致命的なものになった。

     旧板谷駅
  

    旧線は旧板谷駅へ保線車両の留置場へ.新線は米沢へ
左旧線と広軌の奥羽本線



   昭和42年にはJRの近代化も進み.スイッチバックから直通の工事が始まっている。
     そして現在は板谷駅は日に6本の列車が停まるのみ。そして同じ軌道に山形新幹線が走っている。

   昭和30年代の木造の立派な駅舎はプレハブ型の小さな新駅舎に改築され.今では旧駅舎として地区の集会所として使われている。
     現在の新々駅舎は米沢側.旧スノージェットの先に造られ.相対式2面ホームでスノージェットに全体が覆われている。

   スイッチバック時代の旧線,旧ホームは全く使用されていず.雑草に埋まる状態だが米沢側の末端は保線車両の留置場に使用。
     米沢管理の無人駅.

     1899年(明治32年)05月.奥羽南線,福島=米沢間開業,
     1960年(昭和35年)02月.RHC第一回春期スキー合宿.五色温泉宗川旅館.
     1966年(昭和41年)03月.第六回春期スキー合宿. 1回生.家形山から東大嶺縦走.
                      国鉄の学割は入山の2月は5割.下山3月は3割に引き下げられる。
     1966年(昭和41年)10月.RHCの家形ヒュッテ修理・管理が始まる。福島信夫高湯と板谷を通うようなる。
     1966年(昭和41年)00月.
新栗子峠に新国道13が開通。
     1967年(昭和42年)02月.第七回春期スキー合宿, 2回生,2回目縦走,
     1967年暮れ.        栗子国際スキー場オープン.
     1968年(昭和43年)02月.第八回春期スキー合宿. 3回生,東吾妻山.女子全員一切経山へ.
     1968年(昭和44年)02月.第九回春期スキー合宿. 4回生,単独女子パーティ編成,
     1971年(昭和46年)02月.風雪に遭い合宿に合流できず雪を掘り野宿,下山は赤岩駅へ.
     1972年(昭和47年)02月.白布高湯から西吾妻へ.地吹雪で挫折する。 国鉄特急列車のスピード化.
     1981年(昭和56年)02月.第二十一回春期スキー合宿をもって.技術不足から21年間続いた五色での合宿は途切れる。
     1984年(昭和59年)12月.板谷駅無人化,但し余剰人員対策で1988年頃まで福島駅から派遣,
     1987年(昭和62年)04月.国鉄分割民営化によりJR東日本旅客鉄道に分割,
     1989年頃,         貨物営業廃止.
     1990年(平成02年)09月,スイッチバックを廃止.新ホームは現在の米沢寄りに.家並みから離れスノージェート内に板谷駅を移転,
     1992年(平成04年)07月,山形新幹線開業.東京=山形間, ミニ新幹線方式は奥羽本線の一部で福島も在来線と同一軌道。
                      奥羽本線としての在来線機能は失われ.直通列車はなくローカル線に転落する。
     2011年(平成23年)10月.新高湯〜一切経山.荒天で西吾妻断念. 山形新幹線で米沢まで2時間強,スピード化,
     2014年(平成26年)09月.OB親睦会五色温泉「宗川旅館」・・信夫高湯「ひげの家」.JR板谷,「宗川旅館」.下郷山内宿,初めてのマイカー,

      旧赤岩駅
   福島から過ってはスイッチバックの最初の駅だった。列車は頻繁に通過するが現在は島式ホームに小さな日除けがあるのみ。
     旧ホームは閉鎖され,建物や錆び付いて,読むことができなくなった駅名標が残されている。

   ホーム先の板谷よりのトンネルはレールがあるものの,新トンネルの完成で今は雑草に埋もられている。
     福島管轄の無人駅.「日本の廃線」HP参照.2002年.

   昭和46年03月.惣八郎原をさ迷い赤岩に出た折,トンネルを駅へ歩き潜っている。豪雪の為本線が不通になった時だった。
     惣八郎原で迷い.線路を見つけ前川を渡渉して,赤岩駅のスノノージェットを見い出し安堵した。
     大勢の人夫が除雪する中.辿った駅。小さい駅の割りに人夫は多い。スノージェットだけでは治まらぬ豪雪になっていた。

    「峠駅」の旧スノージェット
  
レールは外されたジェット手前が旧峠駅

    旧ジェットの左側に今の奥羽本線.山形新幹線が通っている。福島方面を向く.

      旧峠駅
   板谷と同じく駅構内はスノージェットにホーム全体が覆われ,踏切もスノージェットの中。旧線のスノージェットが出口になっている。
     旧線は途中で線路が途切れ.駐車場となり.山形新幹線工事中のバスによる代行運転の回転場として利用されている。
     ここもスイッチバック時代に使用されていた旧ホームと駅舎は現存している。「大阪からの鉄道旅行」HP参照.2004年07月,

   昭和41年02月より栂森山.東大嶺へ。五色温泉から板谷駅へ滑り.一駅乗ってツァーに出掛けた峠駅。
     駅前がスキー場と云うもリフトもなく.一度も他のスキヤーに会ったことはなかった。乗るのも降りるのも私達だけだった。

   「峠の茶屋」力餅は残念ながら一度も食べていなかった。当時から知ってはいたが,始発列車と午後の便で車内販売のチャンスがなかった。
     その代わり板谷駅前の集荷所ではお茶をご馳走になり通う都度寄っている。米沢管理の無人駅,

     峠の茶屋.力餅とスノーシュッド・・2017.02 中央東線の旅.スイチバック

     五色温泉,宗川旅館 
     再建された緑樹山荘
     RHCと家形ヒュッテ

                春期ツァー合宿,吾妻東北部W.Top