国鉄中央東線の旅

       中央東線の旅T.幼い時代,学生時代
       中央東線の旅U.s40年代,OB鈍行の旅
       中央本線の歩み.開業120周年を迎え
       中央東線複線化と安雲3ダム
       jr2006年と20年前.40年前の国鉄中央東線
       新宿発23時55分.各駅停車長野行があったころ

   中央東線の旅T・・幼き時代より
      昔
   過って1898年の中央線は甲武鉄道と呼ばれていた時代,始発駅は飯田町で蒸気機関車が長閑に走っている。
     私が小学校下級生の頃,国電区間の終点.高尾駅を過ぎると列車は小仏トンネルを潜り汽笛の音が甲高く響いていた。
     幼い頃,車内に煙の煤入るのを防ぐのは僕の役目だと何度も窓を閉めた覚えがある。桂川沿いの渓谷沿いに鳴り響く警笛。

   戦後5年目には夏の臨時夜行松本行が運行され「アルプス」号と名づけられたがガラガラの列車であったらしい。
     やがて「準急」が登場した。この列車の寿命は比較的長く,高校時代.南アルプスに入山した折に「穂高」号として活躍していた。

   昭和37年にディーゼル急行列車が出現。勿論.高尾を過ぎると単線で,電化区間は早く着手された割に相変わらず甲府止まり。
     勾配が急でトンネルも多く,急行と云っても速度は決して誇れるものではなかった。

   大学に入り,信濃川水系犀川の上流部,梓川に建設される安雲3ダムの資材運搬も荷ない複線工事に着手し,電化工事は着実に実行されている。
     そしてスピードアップされた新宿=松本間の区間241.3kを4時間45分で走っている。
     他の本線と比べると準急列車よりも劣るスピードである。鈍行はまだ単線でスイッチバックを利用していた時代だった。

   当時.学割は半額から3割に引き下げられるも,登山ブームに乗り,山々に繰り出すハイカーで大変な賑わいを示していた時代だった。
     我々はもっぱら夜行を利用していたが週末の新宿駅を覗いてみると0番ホームができたり,中野駅始発も出現している。

   新宿発.「第一アルプス」は8両編成のうち,松本行は前部4両。次の2両は小海線経由小諸行の「八ケ岳」号。
     後部2両は河口湖行で大月で切り離されてもいる。

   その後.中央東線は電化されるも飯田線はディーゼル列車が残されている。
     山に関しては伊那北駅がまだ南アルプス.戸台への玄関口だった。そしてバスも高遠.沢淵のバス停で乗換えていた。
     母の実家が伊那北で叔父は高遠に住み,幼かった小学生時代に暫し訪れ,乗合バスの乗り換え風景が何度も見ていた覚えがある。

   中央東線鈍行の旅U・・日本国有鉄道
     安雲の山.餓鬼岳へ
   中央東線を挟み大菩薩山塊
    車窓からの山・・小糸線安雲沓掛へ


      朝モヤ
   夜明け前に家を出たのも束の間,帳を解いた朝モヤが街角をビルを浮き出させていた。
     白みが明かるみに変わる頃,都会の一隅にも,隅々まで夜明けの明るさを増させ,街は起き始めていた。

   新宿駅5時51分発,急行「第一アルプス」に遅れること,5分。仕方なく鈍行甲府行に乗り込む。
     カラっと晴れ上がった陽差しがガラガラの車内を包み,車窓から注ぎ込む陽が暖かく,身も心も大らかにさせていた。

   まだ小春日和と云えようか? これからアルプスの山に入る。正月を山で迎えようと。
     柔らかい陽差しは車窓を抜け,僕の身をも包んでいた。

      踊る陽
   高尾を過ぎ,相模川沿いに武相国境の道志のなだらかな山々が現われ始めると,陽射しとの隠れんぼが続く。トンネル.鉄橋にトンネルと。
     そして陽の妖精達が踊りだす。

   中央東線沿いの里山を縫い大月を過ぎる頃,車窓は富士の眺めに占められた。
     桂川の谷間を隔て丘稜が延び,秀麗を誇る富士が前衛の山並みの上に顔を出し,冬富士の雪被る山肌が車窓いっぱいに広がった。
     御坂山塊から眺めるような眺望が,この車窓に広がっている。

   谷間が狭ばみ初狩.笹子とスイッチバックを繰り返し,峠に近づくと笹子のトンネルを潜る。甲斐の国.国中にでた。
     大菩薩山稜の末端を横切り,勝沼のスイッチバック駅からは霞を切って,急に広い盆地が開かれた。北側には奥秩父の山々が構えている。
     澄み切った蒼空に抜け出した山々を見つつ,列車は勢いずき,轟き高らかに甲府盆地へ駆け下りた。

   正面に南アルプスの白銀煌く頂稜が現れたのは勝沼付近だった。葡萄畑を綴って列車は走る。
     幾度となく通っているこの本線から,これ程まで白く大きな山脈を望んだことは,今だ過って遇っただろうか。
     雪白く輝き突き出た銀嶺は鳳凰山.白峰三山.荒川山へと続く。それにしても鏡のような眩い輝きがある。

   韮崎付近,車窓より甲斐駒ヶ岳

      甲府を抜け
   甲府で再び鈍行に乗り換える。ホームの時刻表を見るも,都合のよい急行列車の接続はなかった。
     暮れだと云うのに更にガランとした列車,僕には贅沢だ。
     空いたボックスが多く足を伸ばし弛んだ姿勢で,見るでもなく車窓の流れを見詰めている。

   甲府駅を過ぎると右手前方に「ニセ八ッ」と異名をもつ茅ヶ岳の山並みが現われだす。金峰山から南に延びる尾根にあたる山域。
     八ヶ岳が最初に見える方位と同じで山容が八ヶ岳に似ている偽八の山々だった。
     甲府盆地を抜け谷間が狭まりだすも,天上はまだ雲1つない蒼空に染められていた。

   コトコト走る列車の左窓からは鳳凰の山々が大きく顔を出し,列車はその麓の一番近い所を横切っている。
     規則正しく列ぶ鳳凰三山.そして地蔵のオペリスクが頂を突き出し,大きな山容を列車にいる僕の所まで運んできた。

   韮崎から茅野の間には奥秩父.八ヶ岳.南アルプスが沿線の左右に展開され,私の目を楽しまさせた。
     右手に八ヶ岳本峰が現れ,丘稜を走りだした列車は左手に釜無川の田園を見る。

   刈り終え裸土になった田圃で占められた大地は次第に高度を上げ,裾野は丘稜から森に変わり,一気に駒ヶ岳本峰へと向う。
     目の前の黒戸山も日向山も,ここでは頂稜への前衛でしかなかった。

      スイッチバック
   列車は車輪の音を轟かせ唸るわりに,のんびりスイッチバックして進んで行く。丘を谷を越え広い裾野が広がってきた。
     そこを韮崎,穴山,長坂とスイッチバックを繰り返し越える列車。

      逆想の眺め
   穴山.日野春と西へ進路を取るにつれ,八ヶ岳の裾野が広がりだす。
     長坂.鈍行はここでもスイッチバックする。左車窓から冬の八ヶ岳連峰が望まれ,意外な眺望が左前方に広がる。

   親子連れの坊やが,右後方に富士が見えると飛び跳ねた。
     ここに以外な所から眺められる二面の富士が反対側の車窓から眺められる場所だった。

   再び広い高原状の丘が開けだしている。大きな裾野を持つ八ヶ岳本峰は大きさを益々増し近ずいている。
     その懐へ列車はデイ-ゼルを利かせゆっくり喘ぎ登る。

      斑雪
   土手が車窓の景色を妨げ始めると八ヶ岳の山容も明らかになってきた。権現岳.編笠山は煌く白い雪帽子を被せている。   
     線路脇.畔.雑木林の陰に真新しい雪残りが見られるようなった。韮崎付近より幾らか多いようだ。畑にも雪斑が目立つようなる。

   小海線を引き込んだ小渕沢から見える山は広い裾野を越えた八ヶ岳の台地に限られる。中央に主.,赤岳を構えている。
     柔らかい陽差しは,澄んだ空, 抜けるよう白稜の御殿を煌かし,車窓はその広い裾を走る。

   西岳の長い尾根が望まれると雑木林に遮られ残り雪が増してきた。今度は反対の車窓から南アルプスの峰々が再び現れだしてきた。
     日野春からの甲斐駒がよい。丘を越え前衛の先にアルプスの巨峰が現われる。

      諏訪湖
   師走に全面凍結した諏訪糊は23年振りだそうだ。
     上諏訪.下諏訪の町並, 湖畔とそこから流れる天竜川が逆流しているような錯覚をもたらし車窓に映しださせている。
     昼下の鈍行は座席が埋まることなく,疎らな乗客を乗せて進んでいた。

   辰野で飯田線を分け,善知鳥峠(うとう)のトンネルを出ると松本平の先に,これから挑む北アルプスの峰々が現れる。
     終わりに近ずいた列車の旅,その奥に新たな雪山が顔を現わしだしている。もう直ぐ山へ入る。

   ガラス窓を少し開けると冷たい風が頬を撫ぜた。
     ウィスキーで少し頬を赤らめているせいか心地よい。それにしてもよい日和である。

   御徒町の自宅から半日近くを掛けた中央東線の昼間の旅,もう松本終着駅は近い。
     明日は雪多い餓鬼岳の山に入る。友が松本で待っている。そしてラッセルが待っている。

   小糸線の小さな駅から歩む餓鬼の山
     今日は山麓.安雲沓掛で幕営し,岳に挑む積りで早朝に家をでた。買出しを済ませ,待つ後輩の顔が1人ずつ浮びだす。

     安雲沓掛駅より正月の餓鬼岳へ1968年(s44年)12月30日

      旧線区間
   本来は急勾配の対策だったスイッチバックだが今は殆どがループトンネルに変わり,現在では坂の途中にある駅の引込み線のことを言うようになる。
     標高266mの甲府から956mの富士見まで登りが続く,この区間は明治36年〜39年に相次いで開業している。

   その当時は急勾配やR300〜400mの急カーブの連続で韮崎.穴山.長坂などでは停車の度にスイッチバックが連続していた。
     これらをを改良して茅野まで電化され複線化.直線化されて完成させたのが昭和45年9月。
     中央線名物のスイッチバックは消え,所々でルートの変更を行い新線に変更させられている。

   笹子峠への登り,谷間が狭ばみ勾配の増す初狩駅.笹子駅のスイッチバックは現在も本線駅に並行して北側に残されている。

   中央線穴山〜日野春.信濃境〜富士見間にも旧線の跡は今でも残されている。
     穴山〜日野春間は旧線より一段と低い場所を走り,JR穴山駅から未舗装路の線路跡地が続く。「管理地国鉄精算事業団」の看板あり,
     そして先に引き込み線が現行線と合流していた。反対側の線路にも引き込み線があり。2002.06

   信濃境〜富士見間では乙事(おっこと)トンネルは埋め立ての為消滅。姥沢(うばざわ)トンネルを抜けて立場川の鉄橋(レールなし)が架かり,
     瀬沢トンネルを抜けると富士見駅にでる。今は立場川鉄橋周辺は散歩路として整備されていた。2005年05月

   勝沼の旧大日影トンネル

      JR中央線の歩み
   河川の少ない多摩地域は江戸時代は馬或いは人力によるものが一般的だった。
     明治維新後一時期,玉川上水に舟運の許可が下るも僅か2年で廃止されていた。

   堤沿いに当時,新宿〜羽村間に馬車鉄道を走らせる動きがあったらしい。
     その後変更され蒸気機関車による牽引と目的地を八王子にすることで明治21年03月.敷設の免許が下りる。

   甲武鉄道会社線として明治22年(1898年)04月に新宿=立川間の5駅で開業。午前2本.午後2本の4往復で1時間掛かり走っている。
     08月には立川=八王子間が開業し,中央線はその歴史の一歩を踏みだした。
     明治34年には八王子=上野原間が,36年には甲府まで開通する。

   その後明治39年03月に鉄道国有法が公布され,鉄道作業局が甲武鉄道を買収し国鉄となり,名称も中央東線へと変えられた。
     明治44年05月には宮ノ越=木曽福島間の延伸開業に伴い,塩尻=篠ノ井間を篠ノ井線として分離
     中央西線に編入し,昌平橋=塩尻=名古屋間が中央本線となる。

   大正06年(1919年)には新宿=東京間の線路が延長され山手線と線路が接続した。
     昭和04年(1928年).中央線の複線化,電化区間が立川まで達し,翌年には浅川(現高尾駅)まで電化区間が伸ばされている。

   昭和06年04月.浅川=甲府間電化。電気機関車での運行が始まる。
     営業距離の表示をマイル表記からメートル表記に変更される。(東京=名古屋間 255.0M→412.9km)0.1M≒0.16km

   昭和24年に日本国有鉄道が発足,32年には「きんぎょ」と愛称の付けられた新性能電車.モハ90形運行

   昭和35年新宿=松本間を急行列車「アルプス」号が運転を開始。デーゼル機関車
   昭和40年05月に辰野=塩尻(=松本)間電化
   昭和41年04月には営団地下鉄東西線(当時)と相互直接運転を開始し.12月には新宿=松本間を特急列車「あずさ」号の運転を開始する。

   昭和62年(1987年)04月,国鉄が分割.民営化され東日本旅客鉄道が発足
     「鉄道要覧」とよると中央本線は東京駅から新宿駅.塩尻駅を経由して名古屋駅まで結ぶ鉄道路線(幹線)である。

   このうち東京駅=塩尻駅間はJR東日本.塩尻駅=名古屋駅間はJR東海の管轄となっていた。
     重複する東京駅=神田駅間は東北本線,代々木駅=新宿間は山手線となっている。

   また東京近郊を走る通勤型電車(国電)も中央線と呼ばれていた。しかし国鉄分割民営化の際に本路線の名称が中央線と改めたため
     従来は中央本線と呼ばれていた本路線に対しても、公文書を中心に中央線という名称が使われるようになる。

   昭和63年には新宿=松本間を特急列車「かいじ」号が運転を開始
     平成に入り1993年04月.東京圏ダイヤ改正。「通勤特快」の運転を開始

   2001年には東京=大月間で新出改札システム,ICカード「suika」のサービス開始。04年には新たに大月=韮崎間で運用開始する。
     08年01月,相模湖=大月間でE233系電車に限り乗客用ドアを半自動化が再開され,郊外通勤用に拡がりつつある。
     今年2009年04月で中央線は開業120周年の歴史を持つようなった。