| 今回は吾妻連峰を北側からの逆縦走.南下を試みる・・吾妻連峰Top 懐かしさに浸る新高湯(白布高湯)から吾妻連峰を南下し浄土平へ.信夫高湯へ抜ける シラビソに覆われた人形石から東大嶺―烏帽子山・家形山・一切経山から浄土平 2011年10月06〜08日 L松村m見城.黒岩 新高湯温泉―人形石から明月荘・・荒れ狂う台地・コケモモとリンドウ 東大嶺から一切経山―浄土平 7月予定されていた五色温泉「宗川旅館」でのRHC.OB親睦会は台風6号の影響を受け中止へ。それも出発直前に滝嶋氏から知ることになる。 当時は浄土平から家形山越えをして賽の河原から宗川旅館に入る積りでいた。それを改めて主尾根を歩むことになる。 学生時代はクラブ創立以来.吾妻連峰東北部で春期スキーツァー合宿を五色温泉・家形ヒュッテをベースに毎年行い.連日周辺の山々を スキーでツァーをし歩き回っていた。秋には家形ヒュッテの修理を行い.又そこを起点にして一切経山.東吾妻山.東大嶺への縦走も続けている。 先輩とはペアーを組み卒業後も吾妻山に何度か挑んでいる。西吾妻山越えでは凍雪と地吹雪に遭遇し厳しさを味わさせられていた。 又春期合宿に顔をだそうと出向いた時は荒天に遭い.行きえず風雪のビバークをしたこともある。 それらの山々を繋ぐよう米沢の高湯温泉から入り.福島の高湯に抜ける。今回の相棒は見城先輩と彼の彼女.中秋の吾妻山の縦走を試みる。 今年の吾妻山は10月2日に例年より20日も早く初冠雪を迎えている。又昔宿った白布高湯の「中屋」は延焼の被害をもろに受け焼失した。 入山前日は新高湯温泉「吾妻屋旅館」に宿り.翌日は昔懐かしい「明月荘」から一切経山へ抜ける贅沢な山旅を思い立つ。 米沢猪苗代線.10月6日14:2610月06日(thu)曇後雨 jr上野つばさ.¥9.330. 10:40=大宮.黒岩嬢合流=13:20山形.山交バス¥940. :45=14:26高湯湯元bs.専用道路 =15:10新高湯「吾妻屋旅館」. 先月は朝日連峰を縦走して日本海の鶴岡から米沢に抜けている。今回はその米沢から再び福島へ抜けることになる。 車では何度か通っているが列車で直接米沢に入るのはJRになってから初めてだった。前回と云っても45年も前で当時も西吾妻山を目指している。 その当時は特急列車のスピード化に驚かされていた。それが今回は山形新幹線で2時間強とスピード化は更に進んでいる。 福島駅からの新幹線は狭軸に1本加わり.在来線の奥羽本線と重複する線路に乗り.懐かしい松川沿いを遡る。 気お付けていた筈が左岸沿いにある赤岩駅.板谷駅を過ぎてしまっていた。 野宿して漸く線路を見付けて赤岩駅まで線路を歩き.隧道手前では音もなく近づく試運転の蒸気機関車に驚かされ擦れ違っている。 板谷は拠点でもありよく通った駅。シェルターを潜った辺りが板谷だったのだろう。長いシェルターのホームを過ぎると峠駅にでる。 阿武隈川から最上川に変わり.羽黒川を下れば谷間は開かれ.広い米沢の盆地に下りている。 jr米沢駅舎前の西側広場には新たに整備された中央のロータリーに市のモニメントとなる子供達の像が建てられていた。 昔は南側に幾つものバス乗降場が縦に平行して整備させていた。そのバスターミナルはすっかりりなくなり.昔の広場の面影は微塵たりともなくなった。 それに変わるマイカーの発達は山交のバスに混じ..一回り小さな市営バスが何台も広場を駐車していた。 天気は予報通り朝方までここ米沢の地に降雨があった模様で.広場の所々にまだ水溜りが残されていた。 雨雲が切れ蒼空が望められるものの北側から押し寄せる前線からの雨堤は.途切れずに流れるよう早く迫ってきた。 白布高湯行バスは駅前通りから米沢猪苗代線を左折して.大樽川沿いの谷間に入り込み登っている。 乗客は3連休とは言え我々3人と湯客か? ザックを背負う旅行者と車内は寂し過ぎる乗客を乗せている。 昔来た時は米沢駅に下車すると大きな牡丹雪に迎えられ.肩にドンドン雪を積らせる行よいだった。当時は最終バスも発ち.タクシーを拾っている。 高度を上げるにつれ日射しに恵まれた。丘稜から米沢盆地を見下ろすと陽光に浮き出された米沢の街並をキラキラ輝かしている。 ただ谷間の紅葉にはまだまだ早い。既に初冠雪を迎えるも樹葉を染める紅みはまだまだ疎らにしか見られなかった。 ロープウェイ湯元駅前にあった「白布温泉案内図」.14:32白布高湯 バス停高湯温泉は旅館「西屋」前にある。昔の「中屋」は大きな木造の旅籠で.連れの先輩と雪降る中.宿を探し宿っている。 五色温泉「宗川旅館」に似た古い増築を重ねた宿. 「中屋」には再び訪れたかったが隣家の延焼で消失してしまっていた。 又西吾妻山から滑り降りた当日はこのバス停付近に道を隔て両脇に共に小さな雑貨屋と村の共同風呂があった。 雑貨屋でオデンを買い.ビールを持ち飛び込んだ風呂。先輩と車窓のガラスに顔を押し付け.何処だったか探し続けるも判らなかった。 ロープウェイ湯元駅で駅員に尋ねたところ.確かに昔はあったがこの2軒はなくなっていると返事が返ってきた。 懐かしさに浸れると考えていたものの月日の流れは早く.残念さ気持だけが残された。今回は新高湯の一軒宿.「吾妻屋旅館」に宿る。 7日. 新高湯「吾妻屋旅館」 8:45白布高湯 奥州三高湯(蔵王高湯.信夫高湯.白布高湯)の1つとして知られ.標高900mの清涼の地。 約700年前猟師が白斑(しらふ)の鷹が湯浴みするのを見たのが発見の端緒と伝えられている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦にともない.上杉藩家老.直江兼続が近江や境の国から技師を招き. 密かに鉄砲を作らせていた場所でもある。その奥白布の秘湯.標高1126mにある新高湯温泉は明治35年に開湯した。 6日15:49泉質は無色透明の弱アルカリ性.カルシュウム硫酸塩.泉度55℃. 湯量は豊富で幾つもの露天風呂を持つ。 入館して直ぐ滝見露天.眺望露天.根っこ露天と幾つもの露天風呂を廻って見定めている。 又内湯も浸かる価値がある。渋さを滲み込ませた総桧風呂で古さが漂う香りのよさがある。豊富な湯は体を解し温かく和ませ湯. 入浴後のビールを勧めていた。外風呂は男性16:30〜18:00.女性は18:01〜.その間男性は外出禁止とのこと。 外の長湯が利いたのか? 腰辺りが痒み腫れだしている。 皮膚病に効果あると聞くが刺し歯にして金属アレルギーになったのかも知れない? 治療中で朝風呂は控え諦める。 吾妻屋旅館 宿の食事は普通の宿とは逆の発想をもたらす宴会場だった。客数が1人.2人と少ない場合は自分の部屋で食事を摂り. 3人以上になると専用の個室が宛がわれていた。狭いが坐ると落ち着ける場所だった。 山の幸がメーンで食膳には米沢牛と塩魚.岩魚の刺身が並ぶ。 酒は米沢の酒「東光」. 懐かしい銘柄の酒は昔一升ビンを並べ五色温泉の納会でよく呑んだ甘い酒だった。 ただ徳利がよくなかった。見た目はよいが上げ底過ぎ.この損徳が全てを台無しにしていた。感傷か? 秘境のよさが失われている。この考えは呑んべいの私達だけであろうか? (宿¥11.700×3+酒5¥3.150+入湯税¥450) 帰りに頂いた宿の絵ハガキ. 「満杯の紅葉の山々と遊ぶ野猿,子猿は白猿」になっている。 その下には幾つもの露天風呂に浸かる乙女達や老夫婦の顔が描かれていた。右下には新高湯温泉吾妻屋旅館とある。 10月07日(fri)ガス濃く霧雨 吾妻屋旅館=天元台高原ローフウェイ9:00=吾妻国際スキー場リフト3本=9:45北展台:55一10:40人形石:50 一11:45藤十郎手前:55一13:05小:15一13:20弥兵衛平小屋. 夕食後再び降りだした雨は本降りとなり.未明に布団の中でガラスを叩く激しい雨足を聞いている。 波が打ち返すような間隔の強雨に屋根も叩かれた。予報では晴天を期待していたが不安定な前線の動きが天候を狂わしている。 天気は昨日.一昨日と転々と裏表のように変わっている。そして山形気象台の予報では今日は一日中雨を指していた。 山上は湿原の頂.当然ガス濃く強風に煽られるだろう。 西吾妻山までは距離的には短いがピストンして.明月荘に辿り着くには彼女を連れては至難の技と思われた。 彼女は初めて大きな山行を今経験している。寝袋も貸し.初めての炊事の無人の小屋泊り.見城さんは何を考えているのか? 2人で朝風呂に入っている。待つ身.蛾が張り過ぎている。外は肌寒い雨が降り出している。 少しでも彼女の体力を保持させようと天元台駅からの登行を諦め.高湯湯元まで戻り.ロープウェイとリフトを乗り継げば標高1810mに立つ。 実働2時間半だが厳しい登行になろう。昼食は避難小屋に着いてから摂ることにし.ビス.飴を多めに用意した。 人形石 岩陰も虚しく煽られる稜線.10:42湯元9時発の天元台ローフウェイは私達を待ち動きだす。作業員に替わりガイド嬢が乗り込むも.望む頭上はガスに包まれている。 叩くガラス窓.その風下前方の谷間に先程まで居た吾妻屋旅館が見下ろされた。そこはまだ紅葉は薄く.緑深い樹海の谷間の中に見下ろされていた。 続く天元台リフトはワゴンの中と異なり.体は冷気に直接襲われた。霧が舞い気温を下げ,小雨は途切れなく降り落ちている。 3人乗りリストに1人ずつ乗るよう指定された。リフトを掴み支える手が1本.2本と乗り継ぐにつれ.かじかみだしていた。 又リフトが高度を上げるにつれガス濃く雨足も強くなる。(昔のリストは全て建て替えられる・・ローフウェイ.リフトs64.06. h03.10.s62.10.)¥1500割引 リフト終点.北望台に2人が降り.最後に私が降りると作業員はすかさずストーブのある小屋に引っ込んでしまっていた。 「かもしか展望台」回りを中止して短い中大嶺北側を回り込む山径から直接人形石にでることにした。 雨粒が川となり.石コロと根曲りの流れある歩み難い窪んだ登山道を歩む。窪んだ道が更に流れを強くし.足場を悪くしている。 1にも2にも我慢。オオシラビソの樹海を抜けた所で広い河原状の台地.人形石にでた。 遮るものがなくなり横殴りに雨粒が飛び.ガスが途切れなく流れてゆく。人形石の大岩の裏で風を避け1本取った。 東大嶺への木道 濡れ滑り易い木道を歩む.11:34やや石多きゴーロ状の歩き難い凸凹径から開放されると木道が始まる。灰色のガスが濃く視界は望めぬが後は頂稜の1本道を歩むのみ。 本来なら西吾妻の連なる山々が後方に望め.進むべき先には吾妻山東北部の山々が雄大に重なり合い見える筈だった。 今吾妻山の真中にいる。彼女に取っては初めての大きな山. シュラフで寝るのも初めてだと云い,我が家のものを貸している。 天下の山上満歩を望むのの吾妻の秋の大展望は得られず。殴り付ける風で頬は痛くなり,黙々と歩くしかなかった。 晴れていれば素晴らしい展望が開けた筈でだった。視界は精々20mほど.ガスが彷徊している。 今回も私と彼等は西吾妻山の山々から見放されていた。1972年02月の山越え山行でも地吹雪で挫折して更に遠いい山になていた。 彼女の足取りは軽やかで昼食を抜けば1時頃に弥兵衛平小屋(明月荘)に着く。木道となり距離が稼げて助かっていた。 中津川からの小径と合わさり.這松に体を隠し1本取った。尾根沿いの木道は長閑に籐十郎から弥兵衛平へと湿原帯を綴っている。 霧雨に時折煽られ風に体を取られ.木道からよろけそうになった。 秋霖前線下 湿原は何処も麦草色の草黄葉に一面染められている。まだ少し淡い色 一度新雪に被われたとは云え.まだ冬山の装いを味わうには少し早かった。灰色に広がる草黄葉は秋霖の冷雨に叩かれている。 冷却が過ぎれば間違いなく.柔らかい秋の日差しを受け黄金煌めく錦絵の世界が開かれるだろう。 鮮やかに彩る紅葉を堪能できる。そして再び新雪と競い,湿原は埋め尽くされ,染め尽くされ樹葉も落ち立木は裸木とし残される。 そして豪雪と共に周りは樹氷に覆われるだろう。 風の流れに任せ重く棚引く草黄葉.疎らに散る小さな池塘に霧雨がゆっくり舞い上がっていた。 白霧の粒子の塊りが悠ずし合い.池塘を包み.周りの大気を動かしていた。 その間を綴る頂稜の木道は緩やかな曲線を描き.再び見えぬ先へ。霧の塊が現れては歩むほどに消えて行く。 晴れる見込みはなかった。その上逃げる霧が垂れさがり.湿原を幻想的な風景に変えさせている。その木道を更に歩む。 広い湿原の一直線の木道を歩む.11:59定期航路 見えぬ重い雲の先から遠く飛行機の轟音が風に乗り耳に聞こえ抜けて行く。先輩はここ吾妻連峰の上空は旅客機の通り道. 東北への航路が造られていると云う。如何にか届く騒音は間を開け2度ほど聞き取れた。かなり高度が低いのか? 雲の直ぐ上か.上空を横切る風上を横切っているのだろう。判らなぬまま間隔は短くなる。かなりの便が私達の頭上を越えていた。 弥兵衛平 藤十郎の湿原を過ぎ弥兵衛平への木道へ。キャンパスに包まれているようなガスだけが舞っていた。 一時小雨が治まり,白霧が舞い.やや視界が開かれる。この湿原は自然保護にも手入れが進められているようだ。 木道脇には土砂の流水を防ぐ網が敷かれ.又水流の広がりを防ぐために護岸のように大蛇のような長い蛇籠が備えられている。 ガスが妙に明るくなると南面のガスの切れ目から左肩に中吾妻山の裾が現れた。 中央遠くに磐梯山の山形がおぼろに望まれ.その手前の裾野にある桧原湖.秋元湖と大きな湖は低い層積雲の下に隠されていた。 又磐梯山の左裾野にも大きな湖が望まれる。大きさから見ると猪苗代湖のようだった。 霧が流れ淡く途切れた霧の切れ目から谷間に浮かぶ幻想的な風景がここでも描かれている。 先輩と互いに確認する間もなく.再びガスに包まれた。 14:55弥兵衛平 東大嶺との分岐にでる。彼女は後20分と聞き.休まず歩く積りでいる。湿原から深いオオシラビソの森に入る。 覆い被さる樹林に時折笹藪が足元を隠し.以外と蛇行する木道が明月荘まで続いていた。 この東大嶺から栂森山に続く北尾根は冬期に通っている。 ツンドラのような平原を旧明月荘に向かい.一直線にスキーを滑らした覚えがある。当時はまだ森らしくなかった。 東大嶺から直接小屋が望.小屋からは東大嶺の肩.弥兵衛平へ続く頂稜が延々と望まれている。 シラビソは太く丈も高い。40年間の流れが樹林を育てている。そこを潜り抜ける立派な木道にも驚かされている。 小屋が近い安緒感か,彼女が転びだし1本取る。そして直ぐ避難小屋.弥兵衛平小屋に着く。 小屋の外壁には「弥兵衛平小屋」に並んで「明月荘」の名も示されていた。明月荘と云う言葉は私には懐かしい響きを持っている。 この荒天では今日の宿は我々だけになろう。大きな鉄製の重いL字鍵を回し小屋に入る。 翌朝方.明月湖畔に建て替えられた明月荘.8日7:24弥兵衛平小屋 東大嶺山頂の約1q北方に位置し.南北に細長くある2階建ての立派過ぎる避難小屋。 北側東面角が玄関口,土間の向かいがトイレ2.左中央の戸を押し開けると土間から続く内通路になり.コの字に板床がある。 小屋は大きさの割に柱が多い。場所がら常に烈風が吹き抜ける為だろう。 旧明月荘は新たな小屋を見るとオモチャのような小さな平屋の木造小屋だった。 1/3程が2段ベットのような板床があり.土間が大分部分を占めていたと思う。 簡単な造りで轟音を撒き散らす地吹雪は小屋自体を軋ませ.壁どころか常に大地からの烈風に揺らされていた。 1階通路の西側中程に2階に通じる垂直な梯子が2つ並んで備えられていた。 登ると2階の方がよさそうだがザックの積み降ろしと夜間のトイレが大変と考え下段を選んでいる。 1階にトイレの匂いがないことで奥の南西角に寝床を設け.南側の板床を炊事場兼居間にした。頭の中の図面で境はない。 又2階の北西側角には冬期用の出入口がある。樹林に被われている現在は積雪も多く吹き溜りになるのだろう? 以前は地吹雪に吹きさらわれ.厳冬期でも1階玄関は氷付いた地肌を現わし.全ての雪粒を吹き飛ばすような感じだった。 早速遅い昼食を摂る。今朝宿でお茶漬け用に一膳のご飯をお願いするとオヒツにご飯を多く盛ってくれていた。 又明日のラーメンの具に.卵は食膳にでた朝食分を振り分けている。そしてお茶漬け用に梅干も。 汁粉 最近常用している昼食のお茶漬けは益々気に入り美味かった。その後善哉を作る。 彼女が参加することで急に用意した一品だが明月荘に入り.昔の失敗談を想いだしていた。 家形山の深いラッセルから東大嶺へ縦走し.地吹雪の中.掘っ建て小屋のような旧明月荘に漸く辿り着いた。 凍る手で針金を解くと室内は雪が舞い.凍る土間の三角には雪の吹き溜まりが積もっていた。 その真中で振るえる体を温める為にコンロを点け.暖かい汁粉を食べようとしていた。食器を持ったその途端コッヘルを床に倒す。 無残にも土間に汁粉の全部を零した。アッと云う間の出来事だった。謝り続ける私。楽しみにしていた汁粉. 口欲しい筈だが何もなかったように振り回ってくれた仲間達。そんな話を語りながら餅を加えて甘い汁粉を食べる。 シラビソの幹に掛かる分岐標識 小屋前の湿原で.6日13:15金明水へ 明星湖.立岩への木道を左に分け.大滝川沿いに滑川温泉への木道を下ると.途中の渋川源流に金明水と呼ばれる水場がある。 高倉山と家形山から福島市内に延びる尾根 15:05右上は吾妻北東部の核心部.中央奥が福島盆地。 手前左,帽子のような久蔵森と右の緩やかに丸い薬師森. 間の大滝沢沿いに滑川鉱山がある。 その上奥が高倉山.右懐下に板谷鉱山があり.高倉山の山陰裏には五色温泉がある。シラビソの樹海を綴り視界の望めぬ中. 途中の小さな湿原にでて家形山から続く尾根の遥か先に福島の盆地が広く開け望まれた。 東大嶺から連なる吾妻北東部の山々 水場へ下る.15:10コケモモのお花畑 滑川温泉への木道で.15:22コケモモ 水場周辺にはコケモモの大群生があっちこっちに見られる。足元に広がる濃い藍色の塊で.目立つコケモモが溢れるよう実を付けていた。 小さな小さな丸い褐色の粒。それが意外に甘く.熟した実は濃厚な味を持っていた。 摘むのが実が小さ過ぎ大変だが食べてみる価値はある。 彼女に土産をと摘むがビニール袋がなく.潰れるばかりで諦めた。 地元では傷みが早くこの時期だけの果実酒があると聞く。労力を考えると高価な果樹酒のようだ。 リンドウ 又傍で点々とリンドウの大きな蕾を見る。ただ開花する直前に新雪に襲われたせいか,房の何輪かは既に枯れ折れている。 膨らみ開花する直前の鮮やかな色合いのリンドウは開花せず終える運命にも思えた。一房の中には枯れ落ちた花が多い。 意気よいよく持ちこたえたものだけが茎の背を真っ直ぐ伸ばしていた。ただ紅葉期前だが終局を迎えようとしている。 今年は紅葉の真っ盛りを迎えず.残るリンドウも枯れる? そのまま再び新雪に被われるだろう。 金明水 水場は小屋から歩いて10分程で着いた。この所荒天が続き水の流れは多い。 ただ金明水の名水の名に負ける水場こそ.不味い水はない。期待して飲むせいか味がなく不味かった。 湿原の水を少し濾過されているだけのような気を起させている。それに比べ「吾妻屋旅館」の天然水の方が断然に美味かった。 今晩から明日下山までの飲水.700cc×3+500cc×2+1800ccを汲む。 新明月荘.夕暮れの炊事 明るいコンロの火とローソクの炎.頭はエレキ.16:40米炊き 夕飯.朝食のご飯に芯が残る。水を足し中華丼.混ぜご飯で何とか誤魔化して食べた。 今までは常に吹く量が多く硬めのご飯になっていた。火加減を調整し.初めから弱火で炊いたのが裏目にでる。 妻に云われるとやはり溢れるほど過熱し.弱火にせねば芯は残るらしい。 久し振りの米炊きで工夫したのが返って失敗を招いていた。 小屋に着いても一日中雨が降り注いている。時折風のうねりに乗り.シラビソの大枝が大きく揺れ.樹葉がザワザワざわめいた。 6時40分消燈.シュラフに入る頃グランデコから単独行の青年が避難小屋に現れる。 夜半雨は止むがガス濃し.空に向けるとエレキの光が白柱の如く闇の大空に照らしだされていた。 2つの鉱山 小屋でK氏持参の地図を見ているうち,五色温泉から賽ノ河原.その入口付近に板谷鉱山と記されている地名を見付ける。 板谷鉱山の名は知っていたものの.改めて何も知らないことに気づき下山後調べている。 第二次世界大戦中.戦後に滑川と五色の2つのの鉱山の隆盛は大きく変化し.それに併せて鉄道に続く道も大きく影響を受け続けていた。 滑川鉱山は純度の高い鉄鉱石を産出して戦中.戦後の日本を下支えし.高度期の礎を築いている。 一方板谷鉱山はジングタイトを露天掘りで産出.トラックによる陸上輸送を経て.日本の情報(紙)化社会を支えていた。 鉄の道 滑川鉱山は吾妻連峰.東大嶺の北東側,標高1300mに所在。久蔵森と薬師森との東西に挟まれた大滝沢の谷間にある。 1941年に本格採堀し以降.70年の閉山まで褐鉄鉱を採堀し.専用線で国鉄峠駅から米沢.坂町経由で 東新潟港から八幡製鉄所へと「鉄の道」を築いていた。 1968年(昭和43年)の最盛期は1日に100トンの鉄鉱石を出荷していた。丁度私の現役時代に当たっている。 峠の人口は戸数35.人口164人(国鉄宿舎20. 100人)ほどだった。私は当時4年間.板谷=峠間を冬に最低1度は通っていた。 ただ改札から直接栂森側にでているせいか人影は殆んど見ず.間には雪除けのシェルターがあり.人家も見受けられなかった。 鉱山の廃坑と国鉄の近代化で昭和50年の国勢調査では全戸数6戸.人口26人と減少している。これは板谷でも云えることになる。 また峠駅創立88年記念報告書によると産業技術遺産となる滑川鉱山へのアプローチは沢沿いの激しい登りで綴るより. 天元台リフトから私達が歩んできたコースを取り.明月荘から金明水を通るコースを推奨していた。 板谷鉱山 1940年に開拓されたゼオライトの鉱山.現在は機械類は排除され旧鉱山の露天掘りは掘削跡地は産業廃棄物の処分場になっている。 この地の現在稼働中の鉱山はカオリン鉱床で.本の製紙用クレーの4割を担う重要な鉱山。五色温泉からの弾丸滑降コースを登り. 賽ノ河原には入った1077mコブの東麓付近。板谷駅からの道を右手に五色温泉を分けると至る。 吾妻連峰東北部地形図.山行表 新高湯温泉―人形石から弥兵衛平小屋(明月荘)・・荒れ狂う台地・コケモモとリンドウ 東大嶺から一切経山―浄土平 |