荒天と猛暑の越後三山 残雪の祓川.快晴での停滞 女子部員と行く越後駒.中岳.五龍岳 ![]() 枝折峠.道行山より越後駒ヶ岳 |
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| 残雪を失った荒天と猛暑の越後三山 s43年(1968年)07月15〜20日. L松村進(4).m桧垣いく子.沼津久美子(2) 越後の山に惹かれて久しく今だ魚沼地域には踏み込んだことがなく.後輩と猛暑の岳に出向く。 越後駒ヶ岳―中ノ岳―五龍岳
新潟県魚沼郡付近から東へ越後三山(八海山.中ノ岳.越後駒ヶ岳.)を望む。 s38年(1963年)のこの山域で全日本登山大会が開催され.その折各団体と協議して「越後三山」と改名されるまでは, 魚沼三山(八海.銀山.魚沼駒ヶ岳.)と呼ばれていた。越後駒ヶ岳は山容が馬の形をしていることから付けられたと云われている。 越後三山は魚野川の支流.水無川流域を囲むよう山群を連ね.深い谷間は幾つもの滝やスラブを形成し. 頂稜は信仰霊山の長い歴史を持つている。八海山は修験道として山伏達の「三山駆け」の苦行する姿も見受けられている。 7月16日高曇. 枝折峠―百草ノ池―1550m地点c1. 4:27小出6:40.越後交通\290=7:45枝折峠8:10一8:45旧枝折峠一9:00小:10一10:00小:15一11:04水場:40 一11:50小倉山12:13一13:03百草ノ池:32一14:20小:30一14:45(1550m地点)c1 昨年秋.平ヶ岳入山の為に枝折峠越えを行ったばかりの国道352に再び通う。小出の町並みを抜けると凸凹道が続いていた。 大湯を過ぎ.つずらのうねり道が越後駒からの東山稜まで続き.バスは新枝折の峠にでる。 朝もやに霞む銀山湖を背に.峠に降り立った。延々と続く脊稜を背に.駒ヶ岳は雄大な山容を構え聳えている。 小出=銀山湖間アプローチ 今回は如何しても好天の祓川か.中岳山頂付近でのんびり憩いたい気持を持ってたい。その為入山はスピーディに。 所々.水場もあることだし空ポリで精神力の増強を図っての行動。 しかし何と蒸し暑いことか.早くも弱気が出てしまっていた。 登る一歩々に汗が吹きだし.楽園であるはずの百草ノ池は汚れているだけの涸池でしかなかった。 先に進むしかなく再び樹林帯に入り込む。 枝折峠直ぐ傍の旧枝折峠(明神峠)は「銀の道」として江戸時代.1700年代に奥只見銀山への物質路として開かれた古い峠。 銀山平から駒の湯を経て小出に繋ぐ古道。 |
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c1より中岳.右上が駒の肩 |
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| c1 北又川の枝沢.源頭1550m地点に幕営する。雪渓の水で喉を潤し檜廊下を仰ぐ。 ここは越後駒ヶ岳の南面直下の山稜にあたり.大きなテントを張る場所が見当たらず.設営に苦労させられた。 3人では大き過ぎるテント。私が背負うので気にもしていない後輩達。祓川では大の字に寝られると持参した。 寝床は平坦地を確保できなかった。シート床は斜めで.横になると自然とずれる場所だった。それ故.意識して体を支え寝なければならなかった。 ただこの時期.誰も居ず.独り占めした眺望は抜群だった。重い層雲に包まれた山波が幾重にも重なっては望まれ.幻想的な岳を生み出している。 残雪も目の前に横たわっている。水の心配はなくなった。ただ後輩の彼女達には「明日はいいぞ!」と我慢を強いていた。 7月17日.雨 1550m地点c―駒ヶ岳―祓川c2.3 |
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越後駒ヶ岳より八海山 , |
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, 中岳.右添えは御月山 |
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| 1550m地点c1. 6:05一6:38駒ノ小屋7:07一7:30駒ヶ岳:40一8:32天狗平:45一9:30(P2):45一10:30(P3)11:10 一12:05(P1):10一13:00中ノ岳避難小屋16:40一17:45祓川c2.3 重い雨雲 崩れ気味の天気の中.越後駒ヶ岳へでる。 雲塊が覆い被さる山々の高みに顔を突き出した山々の頭に.は遠く八海山の頂稜に刻まれる鋸状の歯が印象敵に望まれていた。 そして雲海の切れ落ちた足元には水無川の源流を囲むよう深い谷を隔てられている。 檜廊下も.痩せ落ちた背稜が連なり.空模様が濃い灰色に変わると視界は全く閉ざされる。 時々乳白色霧粒の固まりが谷間から新たに湧き上がり.尾根越しに流れ込むも.斑になったガスの塊は強風に押し戻されていた。 そして元の灰色の世界に戻されたている。 雲天の重い空は暗い雨雲は見る見る膨張し.その姿から雨粒が落ちてきた。そして雨雲の雫が落ちてきたと思う間もなく. 激しい風雨に叩き付けられる。今度は蒸す暑さから急に体温を奪われた。体は暖かみを失った。 雷鳴は聞こえぬが激しい大粒の雨が風雨を伴ない叩きつけ落ちてくた。 先を見定めることができないほど打つ雨粒に.体の痛さは増し. 激しくなってきた。 駒ヶ岳より中岳![]() 雨宿 陰気になり勝ちな気を押さえ.頂上の中ノ岳避難小屋に雨宿りする。 崩壊寸前の倒れ掛かった小屋の雨漏りは激しく.床もなく.風は隙間を見付けては吹き込む4。 激しく屋根を叩くこと1時間.更に1時間と続く。小屋とは気休めの言葉で.遮るものがなにもない。戸.処ではなかった。 盛夏なのに肌寒く我慢を強いられることが続いていた。食事を済まし憂鬱な時間を待つ。天気は回復するだろうか。 4時,天気予報の吉報と共に山々は静けさを取り戻す。雨上がりの湧き立つモヤも次第に切れだした。 僕等は「ヤーホー!」とばかり避難小屋を飛び出し.雫の多い.祓川へと下り幕営した。 祓川全景 |
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祓川と八海山 , |
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| 7月18日晴.夜半雨強し・・祓川.停滞 百草ノ池では空しく力を失った私達は祓川に出てからは充分.気持も癒され憩いの場を創りだしている。 今までと丸っきり異なる草原の台地が頂稜を覆っている。水場と寝床を考えると昨日とはドンデンの別天地。差居心地は申し分ない。 ここは草地にはび込む残雪が窪地を埋め.清い水が雪解けとなって生まれ.集まり流れている。 そして再び雪塊に潜り込み.深く切れ落ちた水無川の御月山沢へ怒涛となり流れ落ちていた。 雨上がりの草原は明るい陽射しを取り戻し.頂稜に煌めく残雪だけでなく.草木に乗る雨雫も粒となり輝きだしている。 眺望も素晴らしく.予想どうりのよいテントサイドを.ここ祓川に見出した。 御月山沢.源頭の丘にも暑さが戻ってきた。裸になる陽射しの強さをも強調していた。僕はマットを持ちトカゲに精をだす。 草地の香りが漂い.裸の体が心地よい。 脇に積る残雪から雪解け水がチョロチロ流れ.その低い音色の贅沢さが耳に伝わってきた。 静かだ。本当に静かだ。彼女達の明るい会話も風に乗り漏れてきた。 ![]() でかいテントと乙女達 |
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祓川で天気図を描く桧垣.沼津嬢 , |
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| 晴上がりの停滞 私はこの山気を胸一杯に吸った。遠くの眺望を楽しみ.昼寝をしながら.グリーンエメラルドに酔いもいる。 又この大気を彼女らが作る質素だが贅沢に思える食事と一諸に吸いもした。 又それでも飽きたらず天気回復をよいことに.予定通りの停滞日と決めいた。 更に強まった陽差しに.日傘を差しながら山のオゾンを。この時ばかりはゆっくり頂いている。 私の頭には「荒天は行動中止.回復はコースを縮める。」と云う規まりは今はない。合宿ではない。個人山行の特権でもある。 鉄則は「余禄を幾分蓄えておけ.それがある以上.十二分に山を楽しめ。」と云うことだった。 それにしても今度は贅沢に.暑いオアシスになった。 7月19日晴後霧.祓川c―オカメノゾキ―五龍岳―1500m地点c 消え逝く残雪祓川c3. 7:35一8:20小:35一9:25小:35一9:52月老ノ頭一10:25小:40一10:45オカメノゾキ一11:35大12:15 一13:05小:20一13:37荒山一13:55小14:10一14:50五龍岳15:00一15:20(1500m地点)c4. 昨夜.激しい通り雨が降り.7人天の馬鹿でかいテントに傘を差して眠っている。 その為か起きた時.体は固まり重かった。 甲南大WCはこの雨の中.ビバークしたそうだ。早朝祓川へやって来た。 僕等は彼等に擦れ違うように御月山へ登って行く。 ![]() オカメノゾキより御月山.中岳 |
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| オカメノゾキより残雪多い水無川 |
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| 幾つも鎖場があり.下りに閉口する。 それにしてもナイフエッジの尾根に径が築かれ,よく踏み固められていた。 少し遠くから眺めたら径なぞないと確信するだろう。先へと確りした径に導かれている。 オカメノゾキを過ぎ尾根巾を増して五龍岳にでる。面白い山だと思う。 水無川源流の側稜には白粉を頬に取り残すよう.小さな残り雪をこびり付け.谷底を埋め尽くしている。 荒山.五龍岳 中岳7月20日晴 1955m地点c―山口 1500m地点c4. 7:25一8:20尾根下降:30一9:05小:15一10:15沢:20一11:20小:30一12:10大13:40 一14:30広瀬一14:43山口分校前15:15=15:45六日町:52=16:21六日町.「佐渡3」18:29=21:57上野. |
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昨年藪を漕いだ山波に浮かぶ平ヶ岳.燧ヶ岳 |
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| 再び猛暑の中 昨夜は星多く.幾つも流れ星が仰がれた。今日の好天を告げると云うより.うだる暑さになる。 暑さに弱い僕は木陰に休むもうと思うも.風までが止まっていた。下る森の中はもっと酷かった。 蒸す猛暑に木の根の草の蒸す臭いがきつく。汗は停まることを知らず.剥き出すよう垂れ出している。 雨傘は日傘として助かっている。黙々と下るのみ。 里道 里道は楽しい。椎茸栽培の林道を抜けると高台から広瀬の田園が扇状に広がってきた。 宇田沢川に沿いに開かれる田園風景は.山上とは別の.麓に下りてから裾野の里と触れる楽しみがある。 扇状地形の急斜面に耕された畑坂を下れば丘陵に開かれた棚田にでる。更に下ると水田が広がり里への道が示されていた。 勾配のある農道は段々に敷き開かれた水田を大きくさせ.畦横に注ぐ小川も音高々に走り下っている。 小川は時には真直ぐ谷間を走り.森を抜け.水の音色を轟かせ.瀬々らぎながら共に里へ降りる。。 小川や農家の庭先が額に収まった絵のようアクセントを描く。 強い陽射しと山から湧き上がった清水が田圃を一杯に埋め.稲穂を勢いずけている。流れる水面をも煌を放していた。 照り返しが強く.足は更に重くなるも.居心地は軽かった。 田園の丘を楽しみながら山を降りた。広瀬の静かな集落を過ぎれば.やがて山口のバス停にでる。 村人も乗合バスの運転手も.その動きは僕にとって.のどかな風景に見えた。やがてバスはでる。
駒ヶ岳と呼ばれる山名は殆どが東日本に集中している。 由来にしては春になって雪が溶け.山肌の残雪が馬の形に見えるからと云うものが定説だった。 又雪の少ない箱根の駒ヶ岳は高麗人の影響との声もあったが.今は当てはまらなくなっている。 実は駒ヶ岳神社が基本となり.各地に分散したため東日本に偏ってしまったようである。 原点となる駒形権現は歴史書「日本三代実録」によると貞観4年(862年)に陸奥の国.従四位下.駒形神と記載されている。 岩手県和賀郡と胆沢郡の境に聳え立つ駒ヶ岳.1130m.山頂駒形神社奥宮がそれにあたる。 時は流れ明治36年「1903年)に多くの参拝者に便宜を図るため.山頂にあった奥宮を.現在の奥州市に遷座して.そこを本宮に定めた。 旧盛岡藩領にある。 駒形神社が東日本に偏って分布しているのは駒形神社の原点が東国,つまり陸奥の国に存在したからになる。 「日本山名総覧」によると駒ヶ岳の南限は福井県小浜市上中町と滋賀県朽木村境にある標高780mの駒ヶ岳とある。 2008.8月号「山と渓谷」.駒ヶ岳の分布.谷有二著 山の経歴.経過Top |