甲斐.御坂山地
御坂山地の最北部は甲府盆地を隔てる芦川.及び笹子峠に至る日川の北部を分け.東側は桂川支流.笹子川の南岸に張り出す流域で.
南側は富士五湖. 西側は富士川流域に囲まれた山域になる。
中世において甲州から他州に通じる街道は9本あり.その起点は全て酒折だった。9本は東に雁坂口・萩原口.御坂路(鎌倉往還).
南に若彦路・中道往還・河内路.西に穂坂路・大門峠路・諏訪口があり.このうち御坂山塊を越えるのが御坂路.若彦路.中道往還の3本の道になる。
最北部の笹子峠との境・・笛吹川日川南側の尾根(八丁峠以北)
2012年(h24年)12月.jr甲斐大和から日陰雁ケ腹摺山と雲母山―京戸山から中尾根ノ頭中尾根・・jr笹子
2016年(h28年)07月.大幡川から境界尾根を綴り大幡山.清八山.大沢山.ボッコノ頭―女坂峠.摺針峠を越え狩屋野林道・・jr笹子
最北部の笹子峠との境・・桂川笹子川南側の尾根・・概略図
2011年(h23年)12月.r笹子から大沢山北東尾根―本社ケ丸から角研山北尾根を周回・・鉄塔尾根
2014年(h26年)06月.jr笹子から本社ケ丸東峰北尾根―鶴ケ鳥屋山北尾根を周回・・鉄塔尾根
2015年(h27年)02月.jr初狩から大幡峠西尾根.近ケ坂峠を経て高川山東尾根・・jr大月
三ッ峠山周辺
1963年(s38年)12月.国鉄笹子から豪雪の三ッ峠越え挫折・・高校時代
1964年(s39年)04月.再び溝八峠越え.水無山府戸尾根・・国鉄笹子から富士急河口湖駅
2007年(h19年)12月.還暦を迎え暮れの表参道.達磨石より三ッ峠山府戸尾根・・・幼馴染と富士山撮影山行
御坂山塊主稜(三方分山以東)・・御坂山塊主稜.芦川北側山稜と芦川源流絵図
1965年(s40年)03月.高校卒業山行・・「河口瑚号」に乗り.早春の御坂峠から御坂黒岳―湖畔.大石へ
2011年(h23年)06月.濃霧の金川.唐沢林道ゲートから黒岳北稜から南稜・・広瀬.「天水」
御坂山塊支稜
2013年(h25年)06月.大石プチペンション村から毛無山東尾根.十二ケ岳―節刀ケ岳北尾根から芦川.新井原
芦川流域
芦川北側山稜(黒岳の支稜)・・金沢源流.唐沢山周辺の概略図
2012年(h24年)11月. 金川.十郎橋から日尻山北尾根とK駒釈迦ケ岳―檜峰神社を周回
芦川南側山稜(三方分山以西)
三ッ峠山
開運山・御巣鷹山・木無山(けなし)の総称でミツドック(三つの突起)が訛って三ッ峠になったと言われている。
古来信仰は大正の終わり頃から登山の対象として注目を集め.富士山麓電鉄(現富士急行)など交通網が整備されると
東京方面から夜行日帰りの山として賑わうようなった。
昭和に入って山小屋が何軒かでき.西の山腹には国道8号線が開通。更に便利となり昭和30代から40年代に掛けて登山ブームに乗っている。
そして容易になった縦走は西へ連なる山々にも登山者を集めるようなった。又三ッ峠は富士山撮影のメッカになり.
叔父は白旗志朗氏と共に写真家.岡田紅陽氏の一番弟子として.ツ峠山荘主人.中村璋(たまみ)氏親子とも懇親の中だったと後に知る。
笹子駅から風雪の溝八峠越え―三ツ峠山断念
s38年(1963年)12月.雪の三ッ峠. 国鉄新宿.中央線最終列車=笹子⇔雪多く敗退する。L松村.m田村.中川(同級生)
笹子川北面概念図
国鉄笹子駅〜三ッ峠山間概念図
・・達磨石から三ッ峠府戸尾根
― 大沢山北東尾根から本社ケ丸―角研山北尾根ルート
中川と豪雪の止まぬ裏山で
田村と
清八峠付近にて
下山の1本.「や〜めた!」
笹子駅
新宿駅23時55分発.最終列車で雪舞う笹子駅で下車。浅く潜る積雪が駅前より続いていた。
闇が明けぬ間々.三ッ峠を裏山から抜けようと甲州街道を峠に向かい歩みだす。傾斜が増しラッセルは深まってきた。
おぼろな明るさが朝を伝えるも,峠にすら届かなかった。登山道は膝を越し.先も定まらぬ雪面が続く。
漸く視界が広がる明るみに出るも.乳白色の霞に包まれ,距離は捗っていなかった。
最初のコブにでる。何も見えず雪積もる塊だけが被い舞っている。
止めたと雪面を背に大の字になると.雪片は顔まで飛んできた。
メザシ
街道に出てチェンを巻いたトラックと行き違い.雪煙を巻き上げている。戻るもラッセル.大雪になっていた。飛び込むよう駅に戻った。
笹子駅の待合室は中央に.朝方のダルマストーブが赤々と燃えていた。
着替えると僕はストーブ前に陣取り石炭を汲む。これから列車が来るまで僕が当番だった。
ヤカンをどかしタッシュからメザシを取り出していた。1房5匹のメザシ.その2匹をストーブの鉄板に乗せる。
小さなメザシが焦げるよう.もうもうと煙を吐き.香ばしい香りを漂わした。
充満した待合室. 僕は再び石炭を放り込み.そのメザシを仲間と口に運ぶ。
その後.メザシは山へ持参する絶対条件となった。
再び笹子駅から溝八峠越え―水無山府戸尾根U
s39年(1964年)04月. 再び国鉄笹子駅から登り.富士急河口湖へ下る.
新宿.最終列車23:55=笹子駅―清八峠―三ッ峠山―霜山―富士急行河口湖=大月=新宿.
1/5万地図「都留」使用. 三ツ峠山ウォッ地図
幼馴染の長塩と2人.還暦に登る師走の三ツ峠山 ・・三ッ峠山Top
富士山撮影山行V・・三ツ峠山表参道から三ツ峠山荘へ。肩書は多くなるも.静かな2人だけの還暦登山.
富士急三ッ峠駅から達磨石を経て三ツ峠山―府戸尾根からカチカチ山を経て富士急河口湖駅. 2007年12月29〜30日.L長塩.m松村
2007暮れの三ツ峠山表参道
2008.12.暮れの御正体山と三国山・・山岳写真家と叔父
三ツ峠山で富嶽の写真を撮りたいと云う幼馴染長塩の希望を聞き入れ.暮れの最後の山に出向く。
彼とは高校最後の夏休み.大学卒業式の日,そして社会人となりアルプスに出向き.今回は互い還暦の節目を迎え.再び登ることにした。
45年近い月日が経ち.再び歩む三ツ峠山。高校時代の昔を想いは.どの様に感じるだろうか?
天気予報は暮れの大荒れを予想していた。28日夜半は日本海に前線を伴った低気圧と太平洋沿岸を低気圧が東進し.2つ玉低気圧から冬型になる。
そして東京では西高東低の気圧配置になり.最高気温が前日の半分以下の6℃まで落ちる。荒れた後の富士を望むべき出向いてみた。
表登山道.達磨石から三ツ峠山―水無山附戸尾根
29日曇. jr新宿.ホリデー快速「河口湖第一号」¥2.140. 8:14=9:55富士急三ツ峠10:15一11:20達磨石.二俣:50
一12:15股のぞき一12:30小:40一12:55馬返し一13:40不二石一13:45八十八大師14:05一14:30屏風岩下:45
一15:20三ツ峠山:40一15:55三ツ峠山荘h.\7.900+炬燵¥400.
赤松林
「いこいの森」を抜け1:11
入山
車内は疎らな乗客.車窓からは畦に微かに5日前の残り雪が見らる.富士急三ツ峠駅に降りている。
三ツ峠山への登山口のうち.最も古くから登られているのがこの西桂町からの表登山道。
三ツ峠駅舎前の道標に従い.小路を大月方面に戻り西気味に桂町役場裏を通りのT字路を左折した。
正面に山が見えだすと富士急行線のガードを潜っている。道沿いに下暮地地区を抜けている。
柄杓流川(ひしゃくながれ)沿いに行くと三ツ峠グリーンセンターがあり.その先で柄杓流川を渡ると.山祗神社(やまつみ)が祭られていた。
大山祗命を祀る三ツ峠の守護神だという。先の川沿いには園地が広がっていた。この時期は何処もが人恋しむほど閑散としていた。
開運山
腕を組み歩くこと1時間.「いこいの森」を抜け.達磨石への尾根末端の二又にでる。10月上旬を思わす暖かい薄日が額に汗を湧き出させている。
赤松の多い裾野道を登るにつれ.桂川対岸に聳え立つ道志山系の山並が望められるようなった。
御正体山や杓子岳の雄峰と肩を並べ.高さも越すようになる。ただ股のぞきからは期待すべき富士の雄姿は望めなかった。
重く垂れ込んだ灰色のガスに包まれる。歩む道筋にもガスが流れ込み.日は陰り始めていた。
紅茶と結飯で大休止
右上の八十八大師(81体残存)
その中.馬返しからは町並が見下ろされたものの.ちらほら残り雪が見え始め..東面の谷沿に入ると残雪が多く目立つようなった。
ゲートを抜け.尾根沿いの右肩高みにでると顔形の異なる小さな仏像さまと群が寄りそうう集る八十八大師にでた。
彼が黙って出したコンロから温かい紅茶を薦められ.参道脇に腰を下ろす。紫煙が樹冠に緩やかに弧を描き昇ってゆく。
静かだ! 彼も一言.二言しか喋らない。抑えているのではなく.この休み1本は風もなく本当に静かな間を持っていた。
残雪が現れた谷間をトラバース
ガスが谷間から湧き上がり.気温が下がり始めている。登山道は腐り掛けた残雪が中途半端に凍り.長い霜柱と混ざり合せ歩き難し。
漸くは日暮れの詫び寂れた雰囲気を漂わしている。この薄暗さは時間より早く日没を迎えるかも?
旧白雲荘の荒廃した山小屋は無残な姿に変っている。土台は崩れ.屋根は如何にか見定められるだけの姿で残されていた。
開運山南面に広がる屏風岩.その基部を抜ければ頂は直ぐだった。
三ツ峠の岩場.14:37
屏風岩のルートを説明するN.クロワールと4段ハング
懐かしく屏風岩を見詰める彼。彼の経験から幾つものルートを難易を含め説明してくれた。
攀じり易しいルートは私にも直ぐ分かるものの.ハングもあり.ルートを綴ると打ち込んだ残置ハーケンは思いのほか多い。
丸いリンクの打ち込みはフリークライム用だそうだ。
屏風岩は昔から登られているルートに加え.1960年代に人工登攀ルートが数多く開拓された。
その後は1970年代にはクラックルートから更にフリールートが加えられ現在に至っている。高さ100m.横幅200mの岩場
怒号の雲行きと開運山
頂に立つ. 背は雪雲に沈む御坂黒岳.15:26
テレビアンテナの建つ三ッ峠山の山頂に2等三角点があり.標高は1785.23m.基準点は「水峠」.
200m近くある岩場の基部を横切る山道をトラバースすれば,後ひと登りで頂への分岐.富士見小屋(季期開業)にでる。
毛無山の一画で幅広い尾根沿いの直ぐ下には三ッ峠山で一番大きな四季楽園(富士見山荘管理)が建てられている。
腐った雪が凍り,その下の赤土はぬかるみ潜る。汚れる登山靴と滑り易い足元.その先の一番南側に三ツ峠山荘があった。
今日お世話になる山荘だ。その前に雪滑る斜面に足を取られながら開運山に立っ。
おぼろな富士の裾野と山荘
木無山より三ツ峠山荘
三ツ峠山荘
山荘玄関で主人に出会う。彼は明大山岳部として三ッ峠の岩場トレーイングの折は利用させて頂いているようだった。
彼が予約していると伝えると天候が崩ずる予報が出てて.全てがキャンセルになったと語る。
10月の奥鬼怒山は広い宿で私独りだったが.その時は好天に恵まれていたが.同じように今日は2人だけの宿になる。
2階南東側の明るい角部屋は窓から直接.富士が望められ.ベランダのある6人部屋が用意されていた。
2人の発想はよく似ていた。部屋の真中にあった炬燵を東側角に置き換え.背に寄り掛かれる形に変え.炬燵には酒と摘みが並ぶ。
私は敷布の毛布を敷く。相変わらず酒宴の用意は早い。
缶ビールの後,酒5合を呑み干し.ウィスキー角ビン1本を空けている。主人から薦められた最初の茶を拒む.彼の呑みプリは私ながら惚れ惚れする。
今日は2人と云うことで.宿より御膳には特性の豆腐ナベと大きなマイワシ1匹に.おせちらしきものもが並ぶ。そこでウィスキーを空にした。
飲料水
飲水は不足気味とのことだが敷居を渡って湯沸かし器から湯で顔を洗う贅沢さ。以外にも飲めぬ水は豊富だった。
トイレは簡易水洗.洗い水は溜水で杓子で流すのも面白い。
飲水容器は酒を造る大樽のような大きなプラタンクが玄関脇にあり.ジャグチから出る水はチョロチロに出るよう調整されていた。
何度も使用させて頂いたが.下山の時は酒パック5合分と500ccポリ.2本分を頂いている。
山岳写真家叔父
三ツ峠山荘は木無山々頂1730mにあり.聞くところに寄ると写真や花見当ての常連客が多い。
主人中村光吉氏は油彩と富士の写真を趣味として撮っている。写真は父.中村璋(たまみ)氏譲り。
璋氏は30代の頃より富士の写真家.岡田紅陽氏と懇親の間柄にあったらしい。
紅陽氏の一番弟子の話となる。白旗史郎氏と叔父の名前があがる。私が松村と名乗ると叔父は芳雄さんですかと尋ねられ驚かされた。
幼かった光吉氏は何度もお会いしていると。初めの弟子は2人.目立った表の白旗氏と体を壊し陰的になってしまった叔父だった。
叔父は立体的な特殊写真の先駆者であった。映画用のアナモフィックスを初めて使用していた。代表作は「松竹映画のタイトル画像」.
体を壊してからは自然そのままを愛し.山麓で生活する人々を題材として.富士の山麓を風情を撮る優しい人だった。
叔父がノート屋と職業まで知っていた。私も紙関係の仕事でコンピューター用伝票を作っていたと語ると又驚く主人。
偶然からの話は山荘に居る間.MさんMさんを繰り返す。それが叔父を交えてのMさん。
Mさんと呼ばれMさん(叔父)はこの撮影場所が好きだったとか。他の人が聞けば不可思議な会話に聞こえるに違いない。
光吉氏は東京の美術学校で油絵を学び,21才でフランスをはじめスェーデンなどヨーロッパ諸国を放浪している。
娘も似ている。同じような環境にいたのは油絵特有の惹かれる何かがあるのだろう。
その後28才で山荘を継ぎ二代目になった。油絵で抽象的な富士を描き.個展を開く画家でもある。
山荘奥に画室があり.写真から油絵と作品を前に語ると話は尽きなかった。
そして明大の山岳部も岩場のトレーニングでよく通っていた。彼も先輩達との楽しい会話が夜更けまで続いていた。
叔父
叔父は長兄が東京市山岳会員であった関係で本人も「山が命」と気負うほど山に惹かれていた。
アルプスや上越国境を愛し.殆どが単独行だったとのこと。
私は次男の子。私が山へ歩みだしたのが中学の初め.山へ出向くのを応援してくれたのが叔父だった。
長男の子.従兄弟は高校時代から山岳部に所属し.私が小学校年少の時代に高尾山にへ連れて頂いた想い出がある。
伊那高遠で南アルプスに挑む大学生の姿を幼い時から何度か見て.私自身が穂のかに山に憧れを持ち始めた時代だったと思う。
叔父は上越.清水トンネルが開通.土合山の家が開設されると.直ぐさまスキーで七ッ小屋尾根より蓬沢を下降.土樽に降りている。
その時初めて作画用にセミパールを購入.写真の世界へ歩みだしていた。
若き日々の師匠は母方の叔父.佐藤菊太郎氏だった。
そして戦時中の無理が高じ.長期の休養がブランクとなった。その後は低山での自然を肌で感じる富士山麓を歩みだしている。
そこで岡田先生と出会い指導を受けたらしい。
今は先生も叔父も父も亡くなった。Nと還暦を迎えての入山で.光吉氏とお会いできた。
光吉氏から改めて山の事々を聞き.その言葉の長い繋がりが山の言葉として.私の耳に響いている。
岡田紅陽.写真美術館は山梨県忍野村おしの公園内
白旗志朗.2007年10月4つの個人写真館となる「南アルプス写真館」が静岡県椹島に開館。山岳写真の会「白に峰」会長
松村芳雄.写真集「富士」.発行石楠花社・フジアート.印刷製本凸版.B4版1981年11月02日.¥17.000.写真集「Arska」
フジテレビ開局放映時の「富士山」は叔父の映像写真である。
12月30日曇後晴. 富士と山荘周辺
三ッ峠山
開運山の直下に連なる屏風岩.6:46

桂川柄杓流川源流の朝霧と谷合い.7:12
富士山と三っ峠山府戸尾根
・・2013.09.20/10:00
その後.九鬼山北尾根の千匹休場手前から対峙とは言えぬものの撮影している。今回は真向いの富嶽を三ツ峠山荘のベランダから撮影。
朝焼けに包まれる
湧き上がる霧を切り.7:32
府戸尾根から霧が立つ
Nの撮影風景.7:42
山荘前より河口湖へ伸びる府戸尾根と富士.9:05
奥多摩三頭山より富士と三ッ峠山.2008.03
撮影
日の出は濃い朝霧の中だった。予想は見事に外れる。日没には望めると期待を持たせた小屋の主人は.早朝にこそ大丈夫と念を押していた。
ガスの流れは強い。間を空け.その一瞬を撮る。積雪は4合5尺程まで埋め尽くされている。
昨日夜半に訪れたカメラマニヤとN。小屋の主人と3人がカメラに何本も三脚を備え,私は監督ではないが.それを見詰める立場になった。
諦め小屋に入っては戻ってくるカメラマン達。凍える手を擦り撮る姿は大したものである。私はポケットからデジカメラを取り出し仲間に加わった。
長閑な日向の尾根径を南下.9:44
12月30日.下山
三ツ峠山荘9:35一10:25小:35一11:15雪一11:40林道横断一12:00天上山:40一13:20富士急河口湖.
ゆっくり山荘をでる。夕飯も朝食も主人の都合に負かせ.翌日9時半に幅広いなだらかな府戸尾根を下る。
ここは御坂山塊の南末端にもあたり.向かいに富嶽は裾野を長く広げているものの.頂は今日も大きな雪雲に包まれていた。
薄日の日向の尾根は意外に雪径を造り.枯れ落ちた雑木林を縫うよう下山した。
樹間から河口湖々畔は望めるものの.激しく変わる天候に.黒岳は厚い雲に覆われ始めていた。
霞に包まれた富士吉田の街並み
府戸尾根106号鉄塔基部より.9:27
隔てる桂川対岸は杓子山西尾根末端
高圧送電線の天竜南線106号鉄塔基部からは霞みに包めれた吉田の町並みが見下ろされた。又幾つもの屋根が反射させ鏡のよう煌き望まれる。
歩む尾根が境をなし西側湖畔寄りは黒いガスに包まれる。風が増してきた。
Nが「崩れる!」と云う間もなくあられが舞い雪粒となる。細かい塵があられとなり.地表に転がり雪表となる。
30分程の短い時間だったがウインドヤッケに毛糸の手袋。身に着けただけでやや寒いが冬山の懐かしい想いが湧き上がる。
昔はこの冷たさが街で出遭い始めると冬の到来を迎える喜びだった。
天竜南線
送電線天竜南線は山梨県白根変電所〜静岡県新富士変電所を約180基.鉄塔約30mでs08年に建設された。
近年天竜東線から分離改名し.甲府市内の29号鉄塔からは北へ送電線山梨線を分けている。
本線は富士の裾野へ。御坂から三つ峠山府戸尾根.杓子山東尾根を越え.石割山の頂では14号鉄塔が立ち.平野変電所を経由している。
そこからは高指山の北側の世附川上流を抜け.新富士変電所に至る154KVの送電線。
又天竜南線は1ケ所.西群馬幹線の鉄塔に兼用されている鉄塔を持ち.佐久間東線とは同261号鉄塔で合流している。
冬木になった雑木の枯葉径
林道を横断し再び日差しを浴びる.10:02
西川新倉林道
巨大鉄塔を過ぎると尾根の西側沿いに林道が近ずき.尾根筋と並行して下るようなる。
林道は1161mコブと1151mコブとの広い窪地の鞍部にでて横断し.1139mコブを巻き込むよう新倉へ抜ける。
河口湖の登山道は右後方にゲートをみて.再び山径を右前方に入り込んでいた。
県営西川新倉林道(延長9.845m.幅員3.6〜4.0m)は御坂旧道.県道708号から入った三ッ峠登山口先に林道のゲートがある。
起点の河口字八丁金ケ窪から終点河口字霜山までが山梨県分の林道。
その先100mも離れていない所には清八林道(三ッ峠登山口から大橋八丁峠へと抜ける林道)のゲートがある。
又西川新倉林道の支線白滝林道.約4.2kmは途中で右に分け.河口湖町の浅間神社裏に抜けていた。
本線は更に府戸尾根を南下し.鞍部で富士吉田市営分(延長4.395m.幅員4.0m)に接続し下吉田新倉を結ぶ。下吉田と結ばれている。
足元は河口湖富士急ハイランド
天上山を越えカチカチ山展望台より.12:22
再び明るさを取り戻した。知らずして霜山は通り過ぎ.湖畔への径とも別れ冬期閉鎖の林道.西川・新倉線を横切る。
尾根末端までの落葉の径。冬枯のカサカサした枯れた落葉を踏み長閑な尾根径を楽しむ。駅に出て蒼空と白雲が湧きだした。
展望台の足元を見下ろす
中央の薄い溝は富士スバルライン.その左手の富士急ハイランドを回り込むのは山名湖方面に至る東富士五湖道路。右手先が富士急河口湖駅
府戸尾根は2度目の下山となるが全く昔歩んだ記憶を想い出せなかった。
40年以上前の高校初めの暮れに初めて国鉄笹子駅より入山。深い新雪に閉ざされ.翌年春に改めて縦断した想い出がある。
2度目は無積雪期で楽だった山行が.記憶を薄めてしまったかも知れない。全く記憶なし.スナップ写真は数枚残されていたが.
下りのコースさえおぼろだった。道中は忘れ.下山してロープウェイを見て知ることになる。ここは観光を含め3度通っていた。
湖畔に降りる山道から河口湖大橋を臨む
対岸は大石と右手が戸沢地区
13:20富士急河口湖.京王高速路線バス¥1.700. 14:05=15:50jr新宿.
河口湖駅にでて新宿西口行直通バスを知る。改めて日帰り風呂に向かうのが面倒だった。駅前広場は更に蒼空が広がりだしている。
名物か? 評価し難い「日本一富士山うどん」を試食.初めての路線高速バスに乗り込ぬ。明日は大晦日になる。
年賀状
翌31日.山荘の主人に頼まれた年賀状を駅前のポストに投稿したと連絡した。
好天で富士の裾は更に広がるも.頂は今日も薄い雲に覆われていた。強い北の寒気団が南下.山を越え太平洋岸にも押し寄せたている。
今日は富士を求め宿泊者は60人を超えると言う。頂は夜行登山を含め.更に満杯となると息子さんが伝えてくれた。
登山コースは道標が確りし迷う心配はない。ただ地点名が示されていず。又今回は軽アイゼンを持参するも必要はなかった。
長塩より北見スプレーハッカを譲り受ける。足が吊った場合に驚く程の効果あり。
南面. 河口湖.用水用トンネル→富士吉田.宮川→桂川上流→桂川→相模湖→津久井湖→相模川
東面. 大幡川.柄杓流川→桂川上流
高層天気図28日9時.29日9時.30日9時
山用ズボン.ラックフィット純毛ミズノ.¥13600初. ピッケル.夏用カニアイゼン6爪
山の経歴.経過Top
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