日光白根山Top                             .
日光への街道歩き旅

御徒町.三筋より日光街道から白根山へ

家族で綴る.ふた冬越しての踏破
                 初日.元浅草マンション前で
            元浅草からの野次喜多珍道中.自宅からまず越谷に住む祖父に会い.日光白根山へと家族の歩き旅が始まる
                 昭和60年(1985年)11月23日〜62年06月23日.家族全員の旅・・目指すは前白根山・奥白根山.


     震災に備え避難訓練をと日光街道を一直線に越谷市北越谷まで.歩む。
       祖父母の家まで体験として行いく積もりが街道を歩み日光へ.そしてイロハ坂を越える。

     元浅草から国道4号線を北上し.小山から公家の地名が響く.古墳が多い壬生の里を抜け.杉並木街道から日光へ。
       次はイロハ坂を越え裸土を踏みしめ白根の峰々へ。中秋の戦場ケ原を抜けると湯ノ湖.その先は日光に聳える白根の頂がある。

     一日の行程が終わると東京へ戻り.次回は前回の最終地点から先へと歩き続けていた。
       幼い戦士がふた冬越して踏破した記録。
                                           日光への歩き旅1.元浅草→東武楡木
                                           日光への歩き旅2.楡木→中禅寺湖
                                           日光への歩き旅3.中禅寺湖→白根山
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s60年11月23日
s61年01月04日
1月15日
3月31日
5月05日
6月22日
7月13日
8月16日
17日
 11月23日
s62年06月23日

2008年06月21日
/12日.三筋―北越谷泊. /13日.―東武大袋・・区道.昭和通り.旧,日光街道(R4号).草加バイパス. 元荒川左岸歩道
/3日.北越谷泊. 大袋―東武幸手・・・旧.日光街道
幸手―利根川―国鉄野木・・日光街道
野木―国鉄小山―小山遊園地・・日光街道
小山遊園地―麻利支天塚古墳―壬生町−鹿沼―東武楡木・・日光街道.任生道.日光西街道
楡木―杉並木―東武下今市・・例幣使街道.日光西街道.任生道.杉並木街道.板橋バイパス.日光本街道
下今市―杉並木―輪王寺.東照宮,薬師堂.日光廟大獣院.二荒山神社―細尾入口・・例幣使街道.日本ロマンチック街道,バイパス
細尾入口―馬返―第2イロハ坂―明智平―華厳ノ滝―中禅寺瑚・・・日本ロマンチック街道.第2イロハ坂

    神橋前.泊 中禅寺瑚遊覧船.立木観音.華厳ノ滝,(合流)・・・第1イロハ坂
中禅寺湖―龍頭ノ滝―戦場ヶ原―湯ノ瑚・・・中禅寺湖北岸遊歩道裸土.木道
湯ノ瑚⇔前白根山―五色沼―五色山―湯元.周回・・登山道

菅沼奥白根山―五色沼―五色山―金精峠―菅沼.日本ロマンチック街道.登山道. .山仲間達と

  日光歩き旅1.日光街道から壬生道へ

     
第一回.日光歩き旅
        s60年11月23〜24日.元浅草―北越谷―東武大袋
  朝日を浴び隅田川千住大橋右岸    
     千住宿から水戸街道が分岐               .
      11月23日晴, 三筋6:25一15:30北越谷 
                 私.真佐子9歳.隆史.博史8歳

   元浅草のマンションを夜明けと同時6時25分歩きだす。歩くに連れ路面は明るさを増し,周りは明け方の白みを増させていた。
     震災に備え一度.マンション前の区道から入谷にでて.昭和通りに入り.草加バイパスを抜け.祖父の家.北越谷まで親子で歩いて観ようと思い付く。
     妻と末っ子俊雄にサムの見送りを受け.第一歩を踏みださす。

      昭和通り
   元浅草マンション前の区道(孫三通り)を左に折れ真っ直ぐ北上し.すると浅草通り.言門通りを横切り.交差点「入谷二」で左折し.昭和通り(日光街道)に入る。
     昭和通りは港区新橋交差点から台東区大関横丁交差点に至る幹線道路。東京都の通称道路名,
     関東大震災の復興事業として.当時の東京市長.後藤新平の原案で道幅105mとあるが1928年(s3年)に24間.約44mで完成させている。

     日光街道・・国道4号線
   日光街道は徳川家康の廟所が久能山(静岡)から日光東照宮に移され.将軍の日光参詣が制度化されたことによって整備された街道。
     日本橋から日光鉢石(はついし)まで36里.約143km.21宿の宿場がある街道。

   昭和通りを左折すれば直ぐ首都高速道1号線の終点口にでる。右折し道幅広い昭和通りに入り更に北上した。
     国道の下には営団日比谷線が潜り.「明治通り」と交差する大関横丁交差点に至ると昭和通りは終り.先は日光街道国道4号線に接続されている。
     R4号線は東京中央区から蒼森青森市に至る一般国道. 宇都宮までは日光街道.更に先は奥州街道になる。

   jr常磐線のガードを潜ると片側4車線の幅広い国道は一度狭まり.南千住の街並に入る。
     暫くして浅草からの吉野通りが右後方からY字に交差した。この道が旧日光街道で. 隅田川を渡る手前になる。

   日本橋から国道6号線伝いに浅草を抜けて.この旧道と交わっている。駒形橋脇には駒形堂が建ち.街道沿いによく見る馬頭観音の本尊が祀られている。
     橋詰めにあったので.その橋は「駒形橋」と名付けられていた。

   一本目で墨田川の土手縁に立ち.千住大橋を渡った。温もりがある朝の陽差しを体いっぱいに浴び.陽を恋しむ季節になってきた。
     子供達は元気.息陽々と余裕があるが先は長い。


   隅田川を渡り.右の旧街道に入るとやっちゃ場の喧噪があり.その先が江戸四宿(千住・品川・内藤新宿・板橋)の一つである「千住宿」がある。
     千住は江戸時代に街道が造られ.一番栄えた宿場町と云われている。早朝の日曜日.まだ千住の街並は閉ざした店が多い。
     千住はまた松尾芭蕉が「奥の細道」に旅立った所でもあった。


   荒川.足立区境.荒川放水路
   R4号線.荒川千往新橋を越え

   雲1つない晴天の荒川土手.渡って左岸の足立区側で休む

   日光街道は北千住に入り.京成電鉄本線のガードを潜り.再び幅広くなった6車線の街道を歩む。
     今日は長い一日になりそうだ。祖父母の家までは日光街道の一本道. 越谷を越え明神町十字交差点を右折すれば元荒川にでる。
     突き当りが東武北越谷駅.子供でも分かり易いルートだが一度歩いてみないことには。

      荒川土手
   墨堤通りを横切り.荒川左岸へ千住新橋を渡ると区境を越え足立区に入り.土手の芝生で2本目の休みを取った。
     土手からは秋晴れの雲1つない紺碧の天空が開かれている。
     小高い土手に腰を降ろすと更に視界が広がり.枯れた芝生を背に.天空を仰ぐと透き通った空が何処までも続いていた。

   穏やかに流れる荒川と.その上を横切る鉄橋. 左岸の頭上を走る首都高中央環状線が目に留まる。
     目を転じ土手下を見下ろすと小さな工場や民家が密集していた。

   ここは時たま.子供達と段ボールを持って.土手滑りに来たお気に入りの場所だった。子供達も覚えていた。
     皆すこぶる元気。深く深呼吸し.再び祖父母の家へと目指す。

   旧街道は日光街道梅島の交差点を左折し.日光街道と別れ旧街道を並行するが如く北上する。
     旧道を歩むと直ぐ東武伊勢崎線.梅田駅脇のガードを潜り,又環七通りを横断した。この辺から周りの建物は低く.その差が目立つようなった。
     そして竹の塚駅前通りから再び日光街道に戻っている。

      元渕江公園
   竹の塚の街道沿いのスーパーで昼食用弁当を購入。地元の人から親切にもよい場所があると聞き.竹の塚元渕江公園に寄ることにした。
     暖かい日差しの下.広い芝生に寝転び食事を摂る。草の香りと揺れ動く陽炎.子供達は食べては芝を走り回っている。

   公園内の釣り池では大勢の地元の釣師が竿をだしていた。
     ヘラに始まり鮒.鯉.クチボソまで.太公望達が各々の自慢の仕掛けでウキを見詰めていた。


   草加バイパスと伊勢崎線の軌道
   初めて横切る東武伊勢崎線の踏切.埼玉県草加市側

      草加バイパス口
   綾瀬川の支流.毛長川がちょうど東京都.埼玉県の境界線で西保木間に至る。
     左へ大きくカーブする草加バイバス(国道4号)を分け.直進してそのまま日光街道(県道49号)に入り.毛長川水神橋を渡ると草加市に入る。
     目指す草加バイパス口は毛長掘橋から高架になり.東武伊勢崎線を越え大地に下りている。歩道はない。

   狭い日光街道に迂回し.直進すれば東武谷塚駅. 橋先から左折して.高架下を潜ると東武伊勢崎線の踏切を横切る。
     東京にいると中々踏切には巡り合わなかった。警報が鳴り.電車がけたたましい轟音を撒き散らし,子供達の目の前を走り過ぎる。
     バイパスの北側を巻き込み.高架橋を終えたカーブの大間野.その途中からからバイパスの歩道に入り込めた。
草加バイパス.草加.越谷市境点   
      草加バイパス
   都境を越え日光街道とも暫くの別れになる。草加バイパス(国道4号)に入り.左から大きく右側へカーブすると一直線に道路が綴られていた。
     国道沿い家並みから見る緑も多くなってきた。又点々と現れただした田畑からの視野は更に天空を大きく広げさせている。

   気温が上がり草加市の半ばを過ぎ.急に子供達のペースが落ちる。暑さ負けで惰性の如く足だけを前にだしている。
     バイパスの風景に変化が乏しくなり.歩くのに飽きだしてもいた。浦和草加線を横切る辺りでバイパスは緩やかに左へカーブし更に北上する。

   東武伊勢崎線は草加バイパス高架で交差した後.バイパス.伊勢崎線.旧日光街道と3本が並行して北上している。
     東洋一と云われていた松原団地の左縁を抜けて.筒形の防音壁を持つ東京外環自動車道のガードを潜れば越谷市も真近になった。
     綾瀬川橋を渡り越谷市.草加市の市境を越えた。次の小橋は綾瀬川に入り込む水路.タナゴ類の小魚の多い末田用水も越える。

   JR武蔵野線(東川口駅=南越谷駅間)のガードを潜れば祖父母の家.北越谷はもう直ぐだった。
     初めての長距離徒歩. 越谷市に入り.子供達にも疲れの顔が現われだしていた。気力が落ちだれだしている。
     トップを歩む姉の真佐子は.9歳になり.後を振り変えては庇うよう歩調を変え.弟達を導いていた。

      末田用水・・回想
   末田用水の上流では10年も後の先の話だが.タナゴ釣りに末田用水や潮来に何度となく通っている。
     安田.成田.池田氏の良き師匠の指導を受け.幾つもの水槽を設け.タナゴの飼育まで行っていた。

   又日光まで完歩した暁には翌年から子供達と昔を想い.ハゼ釣りを始め.子供達と精をだすようなる。
     ハゼも又同業種の篠沢氏から指導を受け.今でも続いている。その後彼に誘われて.若波釣友会に入会した。

   陸釣りはフナから始まりタナゴへ.又船釣りは湾内から沖釣りに。そして漁船に乗り.鵜原沖の大陸棚での釣りを楽もしむようなる。
     ふと読み返した折.その想いを綴っている。今は定年を迎え.再び東京近郊の山々に呑めり込み始めていた。懲りしょうか.飽きが多いのか?

      昔.草加バイパス
   起点は足立区西保木間交差点から越谷市下間久里交差点が終点。
     草加市.越谷市の旧国号線道のバイパス道路としてに1967年(s42年)に開通。現在の足立越谷線

   私が父母の家へ通っていた時はまだバイパスは無尽にもなかった。
     田圃の真中に造成工事が始まり.工事と共に中断する凸凹道が開通し.何年も経ちS状にジグザグに切る道路が繋がり.漸く全線が開通した。

   今は直線の立派な国道になり.草加.春日部バイパスと繋がり.後に新4号国道の起点になり.埼玉県越谷市から栃木県宇都宮市まで接続された。
   総延長805km.5つのバイパスの総称.1992年に全区間開通した。

   元荒川神明橋.左岸の桜並木より

   日差しが強い中.黙々歩くも.歩き疲れたのか,だるさが加わりだれだしていた。
     何度も車で祖父母の家へは来ている。ファミリーレストランが点々と続くと右手にボーリングのピンが立つロジャースを過ぎる。

   子供達も祖父母の家が近いと分かったらしい。
     ペースは見る々戻り.子供達も分かる十字路.「明神町」の交差点を右折する。

   この道は東武北越谷駅と国鉄浦和駅とがぶつかるよう結まれた浦和北越谷線。元荒川神明橋側はヤナギの並木道が駅舎前まで続いている。
     昔の北越谷停車場線で.子供達は意気揚々と小走になった。
     春になれば川畔の桜並木は満開となり.出店がでて賑わい.毎年神明橋下で花見をするのが慣例になっていた。

   北越谷の祖父母宅
   急に元気になった子供達。先を争うよう走り元荒川を越え.祖父母の家の門を潜る。どうにか北越谷へ辿り着く。
     私は腿痛し。子供はもう現金なもので家中を走り回っている。最後に私だけが疲労に満ちていた。

                                国道4. 25k.57.900歩(隆史).9時間05分


   2日目.北越谷―大袋
   元荒川左岸沿い.越谷御猟場へ
雨の東武大袋駅舎前    
      11月24日.雨 北越谷.祖父の家10:55一12:17東武伊勢崎線.大袋=浅草一三筋

   祖父母の家で一泊, 雨の中.大きく迂回して.元荒川左岸沿いの土手の裸土を北上した。
     対岸にある祖父母の畑で柿を採り.齧りながら元荒川左岸沿いの小径を小雨降る中遡る。
     宮内庁埼玉御猟場へと裸土と雑草被る土手径を雨傘にカッパの姿で子供達が先を歩んでいる。

   先の元荒川橋で再び右岸に移り.国道4号線.草加バイパスにでた。大型トラックの雨しぶきが歩道を跨いで激しく体に被った。
     もう歩くどころではない。雨足より.気を抜くと車のタイヤ.シャワーが頭から襲ってくる。地元の人は分かっている。雨の中.歩く人はいなかった。
     短いが武里までの目標を断念.大袋に入り東武大袋駅を目指した。

   この先は越谷春日部バイパスになる。
     ・・その以降は下間久里からR4.日光街道の東を平行してバイパスが宇都宮まで開通した。新4号バイパスに接続
                                        国道2k. 4.500歩(博史).1時間22分.全行程62.400歩

      日光街道
   日光街道は江戸日本橋から五街道に分かれ.日光街道は宇都宮で更に北上する奥州街道とを分けている。
     日光参詣のための脇往還には日光街道のほか御成道.壬生通り.例幣使街道の脇街道がある。

   日光街道は江戸日本橋から千住.栗橋.小山.宇都宮.今市を経て日光まで21宿.36里12町余り。
     御成道は将軍が日光参詣する際の往路として.川口.岩槻を経て幸手で本街道と合流している。

   日本橋.千住宿(1番).千住宿一東京都. 草加宿.越谷宿(3番).粕壁宿.杉戸宿.幸手宿.栗橋宿一埼玉県. 中田宿.古川宿一茨城県.
     野木宿.間々田宿.小山宿(12番).
喜沢の追分から壬生道へ。起点の日本橋は省くがこの街道をピストンで歩むことにした。

   また壬生道は小山から本街道と分れ.壬生.楡木.鹿沼を通って今市で再び本街道と合流する西日光街道。これから先も.歩むルートになる。
     例幣使街道は朝廷からの勅使が通った道で中山道の倉賀野から佐野.栃木.楡木で西日光街道と合流し.鹿沼を経て日光に通ずる準官道。

   子供と「日光への歩き旅」は元浅草から入谷に入り.本街道である日光街道を北上して始まった。北越谷祖父の家に至る。
     震災に備えた1つの目的は終え.更に日光へ進むべき本街道を歩み続けることにした。

   約1年掛け小山から壬生通りを抜け.楡木で例幣使街道と合わさり.待望の杉並木街道を歩み.日光山二社一寺を拝観する。
     ここまで来ると目標は更に伸び.山の頂へと白根の頂へ向かうようなった。

   神橋からは大谷川を遡り.イロハ坂から中禅寺湖へ。
     それからは裸道の小径を選び.戦場ヶ原の湿原を抜け.木道を湯ノ湖へ。また山径は山岳夜行列車を利用し.白根の頂に至る。
     この日の歩んだ行程から「日光への歩き旅」が始まった。


    第二回.日光歩き旅
    1月03日北越谷.新年会後.夕飯のカレーで明日に備える

 新方川戸井橋からの日の出   
    s61年(1986年)01月03日.三筋一仲御徒町=北越谷
        
   4日.晴後雨.東武伊勢崎線.北越谷=大袋6:35一12:55幸手=浅草一三筋. 私.真佐子.隆史.博史
      決まりこと
   記録.会計.万歩計はその都度.子供に任すこととする。
     会計は交通費を除き.酒を含め途中で購入する飲食費は1人平均¥1000と決めた。それ故.酒を呑む私が一番使うことになる。
     この日から子供との交渉が始まった。


      日光街道
   前日,北越谷「祖父の家」に宿り.夜明け前に発つ。
     東武北越谷駅から次の大袋駅で下車.「日光への歩き旅」が始まる。この先国道4号は二手に分かれている。

   Y字路の下間久里から右手に草加バイパスに接続する新バイパス(越谷春日部バイパス)が開通した。後に宇都宮まで。
     左手の伊勢崎線に並行する日光街道(旧R4号)を選び.折れて北上する。
     朝方の白みに仄かな赤味を増し.千間台の国道で新方川(→中川)を渡ると.戸井橋上の右手より正月の陽が雲を切り昇った。


   旧々街道沿え.春日部東八幡神社.初詣
     旧日光街道
   手足が冷えるが陽が昇るにつれ.体に温もりを感じ.まだ早朝のせいか閑散とした街並の街道を歩む。
     大落古利根川の川筋が一度.一ノ割駅付近で街道に寄り添い離れると.東武野田線(春日部駅=藤の牛島駅間)のガードを潜る。

   そして街並の左手に見付けた春日部東八幡神社で初詣をする。
     昔から「下の八幡様」の愛称で親しまれているらしい。境内には大杉神社.弁財天.雷電神社.浅間神社などの小社があり.本殿の彫刻は見事。
     境内に柔らかい陽差しが溜まりだすも.早朝のせいか.まだ人影は疎ら以上に見受けられなかった。

   街道から春日部の街並に入る。今日は正月3日,まだ静かさが旧道2車線の道路を包み.車の往来は全くなかった。
     ただ最近開店した外資系ロビンソン百貨店前だけは大福袋が店先に並び.買う人で賑やかさを増している。


   次第に重い雨雲が垂れ込む

   落古利根川埼葛橋を渡り.春日部野田線のバイパスを横切ると細くなった古利根川左岸沿いを遡る。
     人家が途ざえだし田園が多くなり.街道は車の往来が目立つようなってきた。
     朝方の薄日も閉ざし.重く垂れ込む層雲が周り全て埋め尽くしていた。灰色の世界が広がりだす。

                       雨の降る直前.東武幸手駅舎前広場
        幸手宿から日光御成街道.筑波道が分岐する     .
   「東武動物公園」の看板を見る。まだ開園されたばかりの頃.子供達と訪れている。木蔭が少なく暑い一日だった。
     年数から見て.木陰で休むのはまだまだ先に話。幼い子供達を休ますには場所を探すのに苦労するだろう。

   草加市に入ってからズッと東武伊勢崎線沿いに北上してきたが.ここ東武動物公園駅を過ぎると沿線の系列は日光線に変っている。
     伊勢崎線は羽生.館林へと離れ.幸手.栗橋へと。そして利根川の板東太郎を渡る。
     「板東」とは関東平野を指し.「関八州」とも呼ばれ.相模.武蔵.安房.上総.下総.常陸.上野.下野をさしている。

   日光街道.R4号沿いでは時には田圃に降り.変化を与えながら前回より好調に.先へと距離を進めてゆく。
     ただ朝方明るかった東空は幾らか雲が切れているものの.厚く覆い被さる西空は雨雲の流れに早さを増していた。
     12時40分.次第に薄暗く垂れ込んだ雨雲は.とうとう降り始めた。栗橋まで歩く目標は断念せざるえなかった。

   正月早々.雨も中.更に歩くのも不憫に思われた。寒さも増し.「日光への旅」も始まったばかり。
     急ぎ東武幸手駅に向かうも.雨足は早く駅に着いた時は本降りに襲われた。

                              21k. 32.600歩(博史).全行程95.000歩.6時間20分


    第三回.日光歩き旅
   幸手市から栗橋町へ

利根川橋右岸から                          .
              , 埼玉.茨城県境界へ
     s61年01月15日.快晴 幸手―野木 妻,真佐子.隆史.博史
       三筋6:08.タ=東武日光線.浅草6:21=幸手7:34一10:00利根川一10:19県境(埼玉.茨城)
       一14:10国鉄東北本線.野木=御徒町.バ=16:56三筋

      日光御成道
   御成道は将軍が日光参詣する際の往路で川口.岩槻を経て幸手で日光本街道と合流する。中世の鎌倉街道中道を前進として江戸時代の名残。
     又岩槻藩のの参勤交代に使われたことから「岩槻街道」とも呼ばれている。起点本郷追分(飛鳥山).1岩淵宿.2川口宿.3鳩ケ谷宿.4岩槻宿.5幸手宿.

   変わる東武鬼怒川線

    2004年10月04日.JR東日本と東武が栗橋で接続線を発表.東武鬼怒川線沿線の再開発を望み。
    2006年03月18日.新宿=日光.鬼怒川間.JR特急直通乗り入れ

   栗橋を過ぎると東武日光線とも別れ.替えて日光街道.R4号線は国鉄東北本線と並行するようなる。利根川を渡る。


    質素な国鉄野木駅ホームにて
     足の裏にまめが2つでき.腰がとても痛い妻.
                23k. 41.500歩(博史).全行程136.500歩.6時間44分.


    第四回.日光歩き旅
        s61年03月30日.曇. 野木―小山遊園地  私.真佐子.隆史.博史

       竹町(気温7℃)5:28一国鉄上野.東北本線6:09=7:12野木:20一8:00小山市(東京70k.古河9k)一8:31間々田一9:27安房神社
       一11:20小山遊園地13:07バ=国鉄小山13:27.¥1150=御徒町一15:30竹町 ・・8時間10分

     日光街道.R4号線
   殆ど庇もない国鉄野木駅は田んぼの中に.ぽつんとあった。駅舎から国道までは宅地化されたばかりの道を歩む。
     駄々広く街道までの間.殆どと云ってよいほど家屋は見当たらなかった。視界には区画だけの裸土が続いていた。

   又
日光街道沿いも.この辺は閑散とし高い建物がなく.野木.間間田と遠くまで見渡せる街並が続いている。歩くのみ。

   右側から東北本線に東北新幹線が迫り.並行して走ると栗宮にでる。
     街道の直ぐ左沿いは.今は街並に潰された旧街道が10mほど離れた所にも綴られている。
     栗宮のY字路は右前方を直線すると旧日光街道R265.号線. 左前方に取るとR4号線で宇都宮.下野方面になる。角に安房神社の鳥居があった。

                    安房神社の参道口          
   安房神社の祭神は天太玉命(あまのふとだまのみこと)。
     藤原秀郷が平将門の乱の際に戦勝を祈って参拝し.将門を討ちとった後に多くの資材を寄進しいる。
     境内にはモミの大木が群生し.神社に裏手には思川が流れている。

   暫らくすると歩くペースも変ってきた。トップを歩む真佐子は後を見つつ,周りを見て楽しんでいる。
     それに離れまいと博史が付く。隆史は自分のペースを崩さず.常に遅れがちに付いてくる。それでいて休むと判ると走りだす勢いを持っている。

   子供の視力は素晴らしい。
     直線上.遥か彼方に道路標識を見止めると.三人が三人とも.目を据え付け真剣に先を読み取っている。

   「小山まで10k」.否や「13kだ!」と。そして三人の結論は常に正しかった。特に隆史は凄い.彼の意見は常に絶対的に正しかった。

      私は遠視1.5で.よく見える筈だが子供達には適わない。改めて子供達の視力の素晴らしさを知る。

   思ったより長く感じられた小山までの距離も捗り.小山岩舟バイパスを横切ると街並に入る。右手の国鉄小山駅を過ぎる。
     賑やかな繁華街を横切り.両毛線の陸橋を渡り.思川の川畔沿いを下りだすと.その先に小山遊園地がある。園内に入り込み昼食を摂った。

   小山遊園地
   ゴンドラに乗り帰宅が・・?

   遊園地の柵を越え.ここは広い防博博覧会の展示会場

      小山遊園地
   13時.壬生に向かう積もりが真佐子が風邪気味でダウン。
     一時.悪寒が激しく.全員でゴンドラに乗り帰京することにした。

   ただ寒い寒いと云っていた真佐子がコンドラから戦闘機を見付けた途端,真近で見たいと我侭を言いだす。
     好奇心にその真剣さが風をも飛ばしたようだ。皆の声が大きくなる。
     そして隆史.博史も本物が展示されているのを見て.目の色が変わり黙ってはいなかった。

      自衛隊博覧会前の見学
   広い自衛隊の展示場に民間人は私達以外誰も居なかった。明後日からは自衛隊の博覧会がここ小山遊園地で開催される。
     子供たちの願望は戦車. それを自衛隊員の1人がうなずきが.子供の風邪を吹き飛ばすほど喜びを与えた。
     それは「戦車に乗ってよいですか?」だった。

   展示用に真新しく磨かれた戦車や大型装甲車に乗り.奇声を上げる子供達。
     子供の居る戦車や装甲車の上は地上より眺めると以外と高さを持っている。落ちるか心配をよそに飛び跳ねる子供達。

   子供達3人の靴跡が博覧会用に清掃された車体を激しく.踏み付け.足跡の土砂で汚してゆく。
     砂埃の靴型が真新しい車体にドンドン描かれ.子供たちの足跡が広い鉄板を埋めていく。

   一人占めしたような気で戦車に乗り.奇声を上げ.大の字に手を上げバンザイさせている。
     自衛隊員が洗車したばかりと閉屈している中.我が子は屈することなく,乗り回っていた。

   本物を見るのが初めてで,鋼鉄の車両に乗り,走り回っている。そして鋼鉄の感触を味わっている。
     橋渡車はやはり馬鹿デカい。扇のよう広がる車体にタイヤも大きく.子供の背丈もあるタイヤは数も数十個と多かった。

   さすが戦闘機は乗れなかったが.我が子だけで会場を独占していた。誤り続ける私と諦め顔で苦笑いする自衛隊員達。
     最後は幼い子供達を列べ..お礼を述べさせている。写真も随分撮った。自慢し学校へ持って行くが全て紛失している。

   (防衛博.4/1〜8/31).戦車2台.装甲車.ブル.ロケット砲車.橋渡車.ヘリ.練習機.戦闘機と数多し.
     遊園地.大人\1.000.子供.20周年記念で無料

      倒産
   小山遊園地は倒産により1985年まで営業していた園内遊戯施設は解体される。
     2007年7月に大型商業施設「おやまゆうえんハーヴェストウォーク」として全面開業。

   小バス停.山遊園地
   小山宿からは壬生道.結城道.佐野道.栃木道分岐

   くずづく天候に漸く陽差しが現れた頃,帰宅のバスに乗り込む。歩行距離は伸びなかったが,満足げな子供達。
     真佐子は好奇心で走り回っている内,風邪を忘れしまったようだ。次回は御徒町より国鉄に乗ることになる。

    国鉄小山駅.東北本線の車内にて

    第五回.日光歩き旅. 日光西街道(壬生道)
            歩き始めて直ぐ.初めて「日光」への標識に出会う。
      s61年05月05日.晴. 古代の地を歩む
                    小山遊園地―楡木. 私.真佐子.隆史.博史

     三筋5:15一国鉄御徒町.大\1150=東北本線小山..\710=小山遊園地7:20.県道一8:09姿川一摩利支天塚古墳一飯塚一里塚9:30
     一壬生町(みぶ)一10:45国道352一12:17七ッ石バス停前.昼食13:03一13:10鹿沼市(日光37k)一国道293一14:49東武日光線.楡木
     =新栃木.臨時快速=17:07浅草一17:43三筋
.

     壬生道
   壬生道は日光街道.喜沢追分(小山宿1つ先)から壬生宿,鹿沼宿と城下町を抜け,日光本街道今市追分に至る街道。
     地元では日光本街道(宇都宮経由)を奥州街道と呼び.壬生道の日光西街道を日光街道と呼んでいた。

   日光西街道は日光街道の脇街道であるが宇都宮を回るより距離が5kmほど短く.日光街道を右に分け.喜沢で壬生道に入る。
     そして楡木で例幣使街道が合わさり.(楡木宿〜今市宿間は共通)で更に北上した。


   江戸時代.将軍の日光社参には,往路は日光街道.宇都宮を経由し帰路は壬生道を通っている。
     
又庶民の日光参詣はこちらの街道が多く使われ.よく整備された街道だった。

    壬生
   壬生道へ・・喜沢の追分
    日光本街道を左折した分岐地点


       壬生
   小山宿を過ぎ.国道4号線喜沢十字路を左折した。東京入谷から長かった日光街道を左に分け.壬生道に入り込む。

      日光街道と日光西街道
   直進は日光街道21宿の街道. このうち宇都宮までの17宿は奥州街道の宿場と合わさっている。
     小山宿(12番)から新田宿(13番)・・宇都宮(17番×2)・・大沢宿.今市宿,鉢石宿(21番)の間は日光街道と離れ.日光西街道へ。

   喜沢追分から壬生道の宿場は飯塚宿(1番).壬生宿(みぶ.2番).楡木宿(3番).奈佐原宿(4番).鹿沼宿(5番).文挟宿(ふばさみ.6番).
     板橋宿(87番).今市宿までで喜沢追分から約50kmの街道。
今市宿で再び日光本街道に入り.最後の目的地.日光東照宮に向かう。

      国鉄小山駅より
   小山駅発小山遊園地行の始発の路線バスは7時55分と遅い為タクシーを拾う。
     今日は利根川支流思川の左岸沿いを一日中.歩くことになろう。

   壬生道(県道18線.小山壬生線)に入り.姿川付近から霞に掛かつたような山波が.視野に広がり始めていた。
     田園の道から山が望めるようになった。急に街並が切れ.田畑が多くなる。

   連休を泊り掛けで計画していたが雨の日が続き.とうとう連休最終日だけの日帰りの旅になった。
     今日は子供の日.汗ばむような陽差しに恵まれる。久し振り陽差しは高い。

  左が小山カントリー・クラブ.アスファルトの割れ目から竹の子が
     竹の子
   壬生道に入ると小山カントリー・クラブの中央を道は横切り北上する。姿川手前の道路脇歩道で.アスファルトを破り竹の子が頭を覗かしていた。
     硬いアスフャルトの割れ目から何故と思うが顔を出している。

   その先.姿川の竹藪で隆史が竹の子をゲット。この竹藪の地主から掘れるなら持って行けの言葉にハッスルする。
     それを博史が大事そうにザックに詰め.家へのお土産にした。
     翌日の夕飯は当然.竹の子の炊き込みご飯になった。皮は昔懐かしい梅漬けを挟み子供達にしゃぶらせている。

    姿川半田橋の左岸を撮る
 
 
姿川→思川→渡良瀬川→利根川
黒川→思川
巴波川(うずま)→渡良瀬川


   筍狩りを終え.東西に走る小山環状線.県道33号の扶桑T字路に突き当たる。左折し支流の姿川半田橋下の河原で1本取り.左岸に渡る。
     渡った直ぐ先にもう1つ架かるのが新黒本橋. 思川の本流で.その本流と支流の挟まれた上流に任生道が延びている。右折し北上した。
     右折せず西進すれば栃木への道。思川の土手を歩き.それに沿った古の里.飯塚宿を尋ねている。

   思川の支流黒川沿いに綴る任生道は街道の途中で例幣使街道と合わさり.黒川沿いを遡り.再び日光本街道にでる。

     又本流は日光市南部と夕日岳1526mと鹿沼市.足尾町の境の山々を源流にしている。


   杉林に被われた奥が摩利支天塚古墳
   前方後円墳で全長123mという巨大な墳墓


   右に折れ200mほど歩むと摩利支天塚古墳がある。江戸時代より遥か昔の古墳時代.天平時代の遺跡古墳。
     古墳を見に行こうと告げると子供達は大きな墓はいやだ.悪魔がいると拒む。
     初めて目の前で見る墓. お墓とは云えぬ丘は.子供達には大き過ぎピンとこないようだった。

   この先左にある琵琶塚古墳とともに栃木県では最大規模を誇る前方後円墳で.後円部の墳上には後年になって摩利支天社が祠られている。
     見れば判ると事前に説明していなかったのが悪かった。子供達には我々の想像以上に墓地は大きく未知のものだった。


   「飯塚一里塚」は江戸が基点.23里.90.327k
    壬生
道に入り最初の宿場・・飯塚宿


   黒川を渡ると街道の両側に小さな小山が現れる。右手に史跡の標柱「飯塚一里塚」とある。
     
如何にか見学を済ますも.撮る写真には各々の笑い顔は見られなかった。それにしても広々した田園と古墳が多い。
     飯塚一里塚の先奥に琵琶塚古墳があり.


    壬生道に乗る複雑な境界線
   「国分寺町」最初の標識・・左.小山町と街道上の境界線が続く

   「栃木市」に入り1kにも満ずに壬生町へ.右へ400mほど栃木市が割り込んでいる。

  壬生町」・・550mほど「栃木市」と「壬生町」の境界線が街道上に乗る。
   10時.爽やかな陽差しだが歩くに従い暑さを増す

      行政境界線
   飯塚一里塚を過ぎ.小山市を綴る街道を北上すると小山市と国分寺町.栃木市.壬生町と4つの行政区域の複雑な境界線が現れ.道路標識から読む。
     小山市を南北に縦断し境界が近くなり.街道を北上するとまず「国分寺町」の境界標識を道脇に見ている。


   ここからは
小山市と国分寺町の境界線が街道の上に乗っていた。距離にして800mほど。
     小山市最北端の境界線で.ひょうたんのように突き出した境界線の右縁沿いにあたる。

   その先は1200mほど国分寺町が街道の左に割り込み.膨らみをもたらし.花見ケ岡十字路では栃木二宮線.県道44号が横切っている。
     直進する街道は膨らみの北側境界線にでると.今度は「栃木市」の標識が現れる。

   
400mほどの幅で.今度は
栃木市が街道の右に割り込んでいた。その境界の終わりに「壬生町」の標識がある。
     今度は550mほど「栃木市」と「壬生町」の境界が街道上に引かれていた。そして晴れて「壬生町」地区に歩みを進めた。

   3.000m程の距離であるが左右から境界線が細くびれ込み.小山市から壬生町まで街道沿いを進むも.「あっ!」と言う間に三境を越えた。
     昔からの街道は.ほぼ直線的な道.新たに造られた道でもない。これほど短い間隔の街道で左右を異にし.南北の異なる行政地区。

   この地区に住む人々にとっては不便で.不公平感が募る状況に置かれているのではなかろうか?
     又壬生の地. この辺は公家に関する地名が多く.古墳,遺跡も多い。武士だけでなくその係りも含め.関係があるのかも知れない。

   道脇の変わった形の稲架(はさ)

   街道は短い栃木市を抜け思川支流黒川.御成橋を渡ると乾瓢畑が多く見受けられるようなる。
     一つ一つ.サッカーボール大にする為ビニールハウスに藁が掛けられていた。

   又稲穂の干し方も地方毎に大分違っている。
     棒を組み長く干す所や.二階に届く程高く干している地方もある。気候.地形により変るものだろうが?
     ここでは大きな麦わら帽子を重ねたように組まれていた。

   稲架とは挟(はさ)む.の意。「はざ」とも竹や木を組んだ,刈った稲を掛けて乾かす設備。稲掛け。
     
大別して地干し.立干し.架干し(かぼし)および棒掛けの4種類がある。

標識から見る近くなる今市.鹿沼   
      壬生を縦断
   壬生町に入り直ぐ.思川支流の黒川を右岸に渡ると東武宇都宮線(野州大塚駅=壬生駅間)の踏切にでる。
     「日光への歩き旅」で.2度目の踏切になった。渡って壬生駅前の交差点にでた。

   アイスを齧りながら右上の写真の道路標識を見て.大師町南十字路(日光西街道.R352号)に至る。右手から巾広い国道がここまで入っていた。
     左折して次の十字路,壬生バイパス北では宇都宮栃木線.県道2号が横切り.直進して再び日光西街道(壬生道)を北上する。

   連休の日曜日で車の往来が多いと思われたが擦れ違う人もいず.車の数も数える程だった。
     連休最後の日.広い空にただ暑さだけが増していた。

     直ぐ先に杉並木を従えているが.街道はのどかさで満ちている。この日は日光への抜け道にもなっていないようだった。

     国道352.昼食
   全く車も人も往来ない。国道352.壬生通り(日光西街道)
    雑貨屋前での昼食.鯉のぼりが揚がる

      七ッ石.バス停前
   11時,昼食を求め食堂を探すが1時間歩いても.日光西街道沿いは商店もスーパーも全く見られなかった。
     店らしい店もなく.陽の照り返しのみが強くなっている。

   雑貨屋を見付け.インスタント食品を購入。お湯をお願いし食事を摂る。
     何時も1人\700前後の食事が.4人で\600だった。

   店前は国道.店先のベンチに座り.この時だけは美味しくインスタント・ラーメンを食べる。何年ぶりかのインスタント.前回食べた記憶は薄い。
     薬缶に湯を沸かし持って来きて頂いた店主.のんびりした風景だ。通う車も疎ら過ぎ.人影も全く見られない。
     真夏なみの強い陽差しに.空は高く広がっていた。蒸す暑さにビニールの庇が快い。


    静かな町.鹿沼市境で

   七ッ石を過ぎると町境の北赤塚十字路(宇都宮亀和田栃木線,県道3号)を横切る。
     壬生通りの北端にあたり鹿沼市の市境に変わった。追分.例幣使街道の合流までは西街道としての名称になっていた。

     午後の暑い陽差しの下.なお更往来はなくなっていた。

    国道沿いに現れた鹿沼土の山
      好奇心の魔力
   後半.疲れてきても子供達に遊びは別のようだった。
     午後の疲れで.気の引き締まらぬ歩みも.休みは別のようだった。

   大人には判らぬ底力を子供は持っている。肥料土の山を見付けると鹿沼土の山を走り回っている。
     走ってである。

    節句と子供

   壬生から楡木(にれぎ)へは北西へほぼ一本道。東北自動車道を潜る手前の人家で水を分けて貰う。
     庭のホースからラッパ飲みをした。陰りだした陽に潤う喉こち。猛暑の歩き旅も終わりが近ずいていた。

   鹿沼の町だ。道路標識に「日光37k.宇都宮17k.佐野30k」と距離を示すようなった。
     R352号を真っ直ぐ進み.東北高速道を潜ると直ぐ楡木の追分.Y字交差点にでて.左手から栃木からの例幣使街道.R293号が合流した。
     ここからは例幣使街道と(楡木宿〜今市宿間は共通)で北上した。

      例幣使街道
   例幣使とは朝廷がつかわした伊勢神宮の神前に捧げもの(金幣)を徳川家康の法要に持ってゆく使者のこと。
     朝廷は正保3年(1646年)から日光東照宮に勅使 (例幣使) を派遣するようになった。このために整備された道が日光例幣使街道。

   京から中山道を草津宿(68番)から木曽路,信濃路を経て碓氷峠を越え上州へ。中山道.倉賀野宿(12番)から例幣使街道に入り,
     日光西街道(壬生道)楡木の追分
まで14宿。その先は.今市の追分で五街道の一つである日光街道に合流し東照宮に至っている。
     帰路は日光街道.東海道を通って帰京していた。楡木宿はこの2つの街道の合流した宿場として発展した小さな宿場だった。

   例幣使街道,国道293号を更に北上する。静かな町だ。街並に入り食堂で中食を摂り.もうひと頑張りと思ったが私の一言が悪かった。
     先に行かねば帰ると言葉を掛けると疲れたせいか隆史が帰ると言いだした。

   ここは右から道路が入る楡木T字路.信号の右先に中華店を見かけた。
     直ぐ左に折れるT字路もあり.折れれば500mほどで東武楡木駅舎に突き当たる。言い出すと妥協せぬ隆史.子供は食堂より駅を選んでいだ。


    東武日光線.楡木駅
      楡木駅
   この所.東武.国鉄と交互に乗るようなる。東武楡木は無人駅.木造の可愛らしい駅にでる。
     駅より500m以内に雑貨屋と云うより.自動販売機すら一台もなかった。

   場所がらか信じられない事が起きている。駅近くに食堂もなく.ラーメンでも食べようと思うも全てが違っていた。
     子供達も全て諦めている。見て無いものは無いと。

   車内で切符を買う。電車は2両.駅のわり大きな時刻表にも駅名は載って入なかった。
     私には考えられぬ事である。駅があり駅名は「楡木」とある。鈍行は止まる。だが時刻表では飛んでいた。

   時刻表にない駅がここにあった。
     その後.新栃木で乗り換え浅草に出ることとなる。交通の便は極く悪い。距離の割.時間ばかり費やした。

      三筋への道
   浅草駅より闇の道. はしゃぐ子供を横でみ,私は足を敷きずるよう帰る。
     腰の付け根の皿が油が抜けたよう.カサカサでピノキオのようだ。乾き軋む違和感が股に擦る。
     それに比べ子供のファイトは凄い.持久力はないが,1つの切っ掛けで驚く程の回復力を生み出していた。

   動こうとしない隆史.くたくたで楡木駅に辿り着いた。
     もう発想を変えている。無人の駅を歩き回り.列車が入ると走るよに席を取り私に譲る。

   荒川を渡り雨が降りだすも.運よく終点浅草駅では治まった。
     浅草からの濡れた歩道.今日の凱歌を喜び子供達はよくしゃべる。元浅草への暗い道並でも.はしゃいでいた。

   反対に私のみ疲労が増してきた。家が見えそれはピークに達す。昔は幾らでも歩けたのに。
     最後は何時も子供達に負ける事になる。負ける?
                       23k.44.300歩(隆史).今日トータル49.200歩

     日光への歩き旅1.元浅草→東武楡木
     日光への歩き旅2.楡木→中禅寺湖
     日光への歩き旅3.中禅寺湖→白根山