| 日光国立公園の山々 奥白根山(日光白根山) 1965年s40年)05月連休. 豪雪と霧氷の白根山.中退し金精峠をピストン・・高校最後の山 1985年(s61年)11月〜87年06月.日光へ家族の歩き旅.元浅草→前白根山 2004年10月. 中秋の日光周辺.日光横断と会津.赤城.距離523k.マイカー 宇都宮IC=日塩もみじライン=会津東・西街道=川俣温泉川治線=奥鬼怒林道(山王林道)=戦場ヶ原=金精峠=沼田街道=大間々線.渡良瀬川下降=伊勢崎IC. 2008年06月. 菅沼より43年振りに届いた奥白根山と玉原高原 高校最後の山.ラッセルを埋める白い雪の世界 金精峠から日光白根山・・ダイヤモンドダクトの中退. s40年(1965年)05月02〜03日.単独 湖畔はダイヤモンドダクトと輝くタンネの森 豪雪で登行断念した湯元の霧氷湯元⇔金精峠上
大雪 荒天で山は大いに荒れた。 日光白根だけでもこの日,3名の凍死遭難が起ている。私も山にうどんを食べに行っただけのようだった。 自らラッセルし湯元から金精峠まで進み断念している。トレースを雪面に切った山行は途中で断念したとは云え.それでも快い山だった。 雪に埋もれた金精峠には屋根だけが被る祠があった。雪粒は休むことなくシンシンと降り注いている。 気休めだけの雪粒を上着から落とし.その脇にザックを置き腰を下ろしていた。 ドカ雪に被われた森の峠は重い雪雲に被われ,薄暗い灰色に包まれた世界に雪の白さだけが目立っている。 休む間にも今踏みしめて来たトレースは見る見る埋まり.元の姿に戻されてる。溜息までも吐く息を白くしていた。 霧氷 白根山を諦めた峠から来たトレースを戻っている。自らトレースした雪溝は殆ど埋め戻され,探し探しの下りになった。 そして振り返れば今まで以上に深い,腰に近いのトレースが刻まれていた。 傾斜が緩く治まり.樹林の遮られた無風近い所で幾らか明るさが増す。 周りはタンネに輝く白銀の森に変わり.水晶のような結晶の粒が大地に舞い.それぞれが煌き雪被る森はお伽ぎの世界を創りだしている。 雪被る枝々に煌く光の粒.霧氷の森とは.こんなにも素晴らしいものだろうか。湯元近くに下りた銀世界は忘れられない想い出になった。 雪の重く被さる熊笹帯を抜けた。ホッとすると共に風も止み.静寂さだけが森に満ちる。 己の作りだしたトレースは埋まり.幾らか浅い窪みとして残されていた。自ら歩んだ踏み跡の残骸は再び失われるだろう。 一瞬の間を置いて吸う息が凍りだし.周りは枝木岳でなく一面に煌きだす。細かく煌く粒が宙に浮き上がりだす。 霧氷の森に散りばめたダイヤモンドダクトが広がりを見せ.僕の歩む先を導いていた。不思議な世界が創りだされていた。 想像を超えた自然の美しさ.寒さも全て忘れ立ち止まっていた。 ダイヤモンドダクトが下る先々の森に広がていた。 日光湯元でイロハ坂を下り街並みに入ると最後に雨に叩かれた。天気の良い日にもう一度訪れたい。 浅草駅で会った長塩も女峰山の頂は諦め下山している。 ・・奥白根山地形図 日光への歩き旅(御徒町〜日光白根山) 1986年11月23日〜88年.8月23日 |
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続.「日光への歩き旅」 ・・日光白根山Top 43年ほど前に子供達と2年数か月を経て.自宅の東京.御徒町から日光街道を歩み.戦場ヶ原.湯元から前白根山の頂にと立ち終えている。 今回新たに滝島先輩から菅沼からガス湧く奥白根山を周回するコースを歩もうと提案があり.奥白根山まで改めて登る運びになる。 山仲間と登る奥白根山と玉原高原・・新たな完結としての日光奥白根山 菅沼から奥白根山に立ち.金精峠へと周回―幡谷温泉で清水先輩と酒を交わし.翌日は癒しの玉原高原に回り込む。 2008年06月20〜22日.L滝島.m見城.鈴木.松村.(清水). 6.21.菅沼からガス湧く奥白根山を周回・・前白根山への長い足取り 6.22.ブナの森と玉原高原 滝島先輩から「6月に日光白根山に行こう!」と誘いがくる。内容は菅沼から入山して奥白根山。金精峠を周回し.幡谷温泉「ささの湯」に宿る。 又滝島先輩の同期.清水氏は登山はせぬが酒宴には出席すると連絡が入り.先月の両神山に続く.同メンバーのOB山行が始まる。 日光白根山は栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の境界上にある標高2578mの山で.北側には金精峠を挟み鬼怒沼山.黒岩山が連ね. 南側は皇海山に架娑丸山が連なる関東以北の最高峰。別名.奥白根山と呼ばれ.安山岩のみから成る溶岩円頂丘。 最後の噴火は明治22年の記録がある。 コースは上州側は高丸高原からのロープウェーと菅沼からの弥陀ケ池コース.又金精峠コースは日光湯元から外山尾根.前白根山を経由するコースがある。 1965年05月の連休.高校時代には吹雪の金精峠に出向いている。単独山行でラッセルが深くなり途中で後退している。 当時は予想以上の豪雪に見舞われ.周辺の山々では大勢の遭難者を出している。 86年には後記の如く2年間半の歳月を掛け.小学生下級の子供達と東京御徒町から前白根山まで区道.都道.国道から日光街道へと繋げ. 里道や農道の畦道まで歩き.日光へと完走し.輪王寺.東照宮.薬師堂.日光廟大獣院.二荒山神社を見学している。 本来は地震が起きることを考え.親が住む北越谷まで国道を歩いてみることにしたが.日光まで延びている。 そして日光の山の頂まで登ろうと例幣使街道から第2イロハ坂. 木道の戦場ヶ原から湯ノ湖湯元で土道に変わり.白根山の頂に立つ。 幼い小さな足でも.日帰りの歩む旅を一歩一歩.続けて歩めば一年半ほどで目指した頂に立つ。その間にも旅や他の山も登り詰めていた。 それから長い歳月が経ち今年2008年06月を迎え.単独で頂を目指してから43年振りに.初めて日光奥白根山の頂に立つ。 前白根山と奥白根山の間も結ばれた。世代を越え妻と子供達と目指した白根山.子供達と共に我が家族にとって貴重な経験をしたことになる。 この1ケ月後.社会人になった娘も友達と奥白根山の頂に立っている。 地震避難のたに越谷の実家まで歩き.更に日光から白根の頂まで子供達と歩いた旅路も娘と共に結ばれたことになった。 入山前日.K先輩の幼馴染.八木原に住むK邸にお世話になっている。 畑の中にポツンとある「渋川スカイテルメ」で汗を流し.お邪魔するや宴会になった。甘えに甘え贅沢な酒宴を味わっている。 6月20日曇.jr上野14:16=伊勢崎=高崎=八木原.渋川温泉「渋川スカイテルメ」大展望風呂=八木原K邸泊. 6月21日霧雨 K邸=渋川IC(T.S氏と合流)6:30=8:00菅沼登山口:15一8:45小:55一9:25小:35:55弥蛇ヶ池一10:05分岐 一10:20小:30一11:00奥白根山. 笹の原を抜け 菅沼登山口Pより.8:25天候 入山前までは梅雨の中休みが続き.山でも日差しは顔をだす筈だった。ただ新らに北上した前線の影響で雨を覚悟しなければならなくいなる。 東京を出るなり雲行きは可笑しくなり.蒸し暑さだけが周りを包んでいた。 又先日.14日には栗駒山南部で「宮城岩手内陸地震」が発生.地震規模はM7.2.震源地は浅く8kで大きな被害を起こさせ世の中を驚かさせた。 1965年(s40年)夏.集中地禿岳へと細倉から花山ダムに入り.暑くて泳いでは.上流を遡った記憶のある地域だった。 今,その流域は土石流に埋まり.幾つもの地震ダムを創り.膨大な被害と多くの方の死者.行方不明者をだしていた。 弥蛇ヶ池.10:02入山 確り朝食を頂き.黒岩嬢に見送られ伊香保IC出口で滝島氏.鈴木と合流.沼田街道を遡る。早朝.鶴ヶ島を発って来た2人と笑い顔で合流している。 鎌田から沼田街道(尾瀬戸倉方面)へと分かれると通う車もグッと減り.街並とも離れ緑深きロマンチック街道を遡る。 路線バスの場合はjr沼田駅から関越交通バスで鎌田下車1時間15分.鎌田から丸山高原スキー場には30分で至る。 菅沼周辺はこの時期.マス釣りの釣人が以外に多い。ただキャンプ場は閑散とし閉鎖されていた。人影の見られぬキャンプ場だが.何処にも太公望はいる。 私も再び登り始めるまで10年間は河川があれば竿を出し.浅場のタナゴから大陸棚の沖釣りまで.船頭にからかれては竿を出していた。 往来も街道沿いはまだ無いに等しかった。向かいの丸沼は日本のマス釣りの発祥の地。明治時代はゴルフと並ぶ貴族,上級社会の社交の場だった。 英国人による中禅寺湖の鱒放流に習い.丸沼鱒釣倶楽部を組織し.フライ.ルァーフイシングの盛んな流域になっている。 この処丸沼高原のロープウェイの運行で.菅沼からの入山者は少なくなっている。登山口の駐車場は我々だけだった。 侘しさが感じられ.朝方の人寂しい漂いを示している。我々にはそれが又よく.このコースを選んでもいた。 菅沼登山口は重い雲に被われ,今にも雨雫が落ちてきそうだった。カッパの行動を考え.蒸さぬよう短パンに半袖シャツに着替え出向いている。 笹原を横切り二俣を右手に取ると勾配を増し.初っ端から汗は留まらず.息切れと重い足取りになった。 昨日のアルコールが利いているのだろうか? 結構呑んでいる。汗さえ出れば体も軽くなる筈だ。 雲が切れると背後に温泉ヶ岳が望まれた。それも一時の展望で.視界は閉ざされ.弥蛇ヶ池にでる。 珍しくなった高校生の集団登山.黄色い声が白霧の池畔から聞こえてきた。ゴンドラに乗っても時間的にはまだ早い。 昨夜は近くに泊ったのだろう。山で若者の声を聞くのも清々しい。 山道は近年丸沼ゴンドラ経由の登山道が整備され,比較的楽に登れるようなっている。 江戸期から明治にかけて奥白根山は信仰登山の対象となり.当時の地名も多く残されていた。 10:34T氏とツーショット イワカガミの群生 弥蛇ヶ池周辺はイワカガミが群生し,点々と競うよう花を咲かしていた。 その間にアヤメが咲き.分岐に登ると鹿の食害からシラネアオイのお花畑を守る為.電気柵が設けられている。 今年はシラネアオイの開花が何時もより大分遅いようだ。まだ一輪の花をも見ず。 シラネアオイ シラネアオイは北海道と本州中部地方以北の山地や亜高山帯の林内など少し湿った所に生える多年草。 花は大きく淡いアカムラサキ色をし.中々艶やかな花である。白根山に多く分布していることから,この名が付いたと言われている。 白根山中腹の弥蛇ヶ池や五色沼周辺に大群生を見ている。最盛期は梅雨期で昔は盗掘が多く.悪質な業者が現われ公園管理事務所では, 1980年代前半には監視を強化し.テントを張り見張りを立てたこともある。それでも夜半に掘り返す者が続出していた。 分岐を過ぎると急登になる。ジグザク径が続き.岩肌混じりの草付帯になった。視界は足元のみで.径が細かく別れている。 少しコースから外れ東側から巻き込む形となっていた。 ツメのガレ場.10:51日光奥白根山 ガスが切れた頂.T氏のカメラワーク.11:05トレイルランナー ガス湧く中.バテて這い付くトレイルランナーに出偶わす。山を走る爽快と自然と一体になり.山を走る筈のランナーがいた。 手足が突っ張り腰は砕け動けぬ状態で,恐怖心が更に動きをぎこちなくさせていた。頂へは幾つも小径があり.ここで仲間と逸れたらしい。 T氏が傍に寄り彼を庇う。急なガラ場に足が取られがちになり.足場を教え,パーティの真ん中に挟み.斜面のツメを越えた。 「はい! はい!」と返事はするものの下半身が崩れている。傾斜が落ち緩やかになりホッとした彼。 「ありがとうございます!」.「ありがとうございます!」を繰り返し.頂では仲間に笑い顔で迎えられていた。 雨は降りそうで降らず。一瞬の青空が臨めるも又暗い雲の流れの中に入る。 岩稜らしくなりガレ場を抜けると突然真向かいに.溶岩が盛り上がりできた奥白根の頂が望まれた。一度窪地に降り岩を攀じれば頂にでる。 奥白根山は関東以北の最高峰.2585mの頂.最後に汗を掻かせられた。 ガスの中突然現われた岩峰の頂から日光連山を始め,尾瀬の山々から武尊山.錫ヶ岳から皇海.赤城山と一望し眺められる筈だった。 360度の展望は何処も望めず。幾らか明るくなった白霧は灰色のガスに変わり.再び暗い雲の流れに埋もられた。 三度目にして立った奥白根山の頂 11:12「日光への歩き旅1〜10」+11回目での ピリオド 昔.子供達が小学生3.4年の頃.家族リレーで東京御徒町から日光街道を歩み.日光東照宮を参拝. イロハ坂から戦場ヶ原を横断して前白根山まで歩んだことがある。 最終目的地は奥白根山だったが.後一歩が届かず.前白根山で終了した間々になっていた。 それから25年の月日が経ち.今梅雨真っただかの霧粒がさ迷う奥白根山にまず私が立ち.翌月には娘が立っている。 1985年11月より始めた「日光への歩き旅」。東京から父の住む東武北越谷へ。地震の時の避難路として歩き.そのまま日光へ。 山のてんぺんへと目標を伸ばしてきた。小学生の子供達はよく歩いたものである。そしてよく脇道へ脱線をもした。 万歩計を持ち記録を付けたのは子供達。又会計も子供に任せ.それ故缶ビール1本を買うも交渉し私には大変だった。 子供達を励まし歩み繋いだ街道は自宅近いくになるとその都度元気を取り戻し.逆に励まされる旅にもなっていた。 もう子供達は全員社会人になっている。私も還暦を迎え.最後の頂.奥白根山に立つことができた。 又長女も友達と富士登山のトレーニングとして.今年7月に奥白根山に立っている。 私の高校時代.豪雪のため白根山を挫折してから綴ると43年にもなっていた。どちらにしろ長い年月が経ち今日に至っている。
その後は続くか? 金精峠から根名草山を越え日光澤温泉まで一日の行程を歩めば平面図.1/5万ノ地形図の赤線は東京から越後平ヶ岳まで延びている。 その野望はまだ残されていた。 奥白根山〜五色沼〜金精峠 11:00奥白根山一11:45避難小屋12:10一五色沼一13:20五色山:30一13:55国境平 一14:05金精山:30一14:55金精峠15:05一15:50菅沼登山口=16:30幡谷温泉「ささの湯」@9.400 五色沼へ ![]() 黒いガスの塊は途切れることがなかった。ガスは切れそうで薄い白味を帯びた雲の塊に変わるも,陽光が差し込むまでの力はない。 少し下ると火口縁に建立されている二荒山神社奥宮でる。風を伴った重たいガスが渦巻き舞い上がり.下る足を早くさせていた。 肌寒く休む間なく前白根山鞍部へと下る。共に次第に明るさを増し.窪み状の山陰に入り 風も治まっている。 左下方に火山で堰き止められたエメラルグリーンの五色沼を見下ろされた。そしてダケカンバの枯木群を抜け窪地底の草原にでた。11:48 白根山と前白根山との鞍部 鞍部南側の岳樺帯.11:47酸性雨や台風.鹿の食害によるもので樹皮を剥がされた樹木がやたら目立つ。 雪解けの草原鞍部で昼食.11:52大休止 雪解けのまだ草木の寝転ぶ小平地に腰を降ろすと.乾いた草地が心地よい。蒸す暑さが体を暖めてもいる。 昨夜,お世話になったK嬢から昼食の差し入れをして頂き4人で弁当を漁っている。 稲荷鮨に明太子の結飯。ジャガイモサラダに胡麻合い.フキとお新香,豚肉の角煮もある。 贅沢なご馳走はそのまま摘みにも。ビールがあればと.つい誰からともなく言葉がでる。 赤い屋根の避難小屋.12:20五色沼避難小屋 谷沿いに五色沼へ下る途中の残雪の切れ目に避難小屋があった。前白根山へ登る分岐点にもなっていた。 汚れていると云われていた木造の避難小屋の扉を開けると綺麗に整頓されていた。20名収容. 扉から漏れる微光が奥まで射し. 黒光する床板が小屋の歴史を物語っていた。2段に造られた寝床.左奥には毛布が綺麗に畳まれ積まれている。 タタキの戸口の脇にはクワが置かれ.紙切れに便はクワを使うよう記してある。又ネズミがでますの張り紙も。 小さな確りした古い山小屋だった。テントを担ぐ気力はもうないが.これからは無人小屋の活用もよいだろう。 残雪を踏み五色沼へ.12:27雪白さもあり周りは明るさを増すも薄雲の中.前白根へ直登すれば足元の湯ノ湖が広がり.戦場ヶ原や日光表連山は望めるだろう。 T氏の提案で直接前白根山へでず.残雪を踏み五色沼を巻くことにした。 沢沿いの窪みで意外と多くの残雪を踏んでいる。午後の陽気で緩んだ残雪と踏み込む体重との兼ね合いが合い.上手いステップを切って行く。 緩い傾斜に程好く潜る残雪とズリ滑る感触が懐かしく心地よい。 五色沼 池畔からガスの切れた奥白根山.12:34五色沼では対岸に向かいコダマが響きハッスルするT氏。連呼するS氏。子供のようにはしゃぐ姿が微笑ましい。 昔ここで昼食を摂り.ラーメンをすすりながら子供達が飽きることなく大声を上げ.コダマを呼んでいたことを想いだしていた。 視界は全く利かぬものの.それぞれのポイントで雲は切れ始めている。点々とその場の情景を映し脳裏に焼き付けさせていた。 雨雲の密度は濃いものの面的には浅い層のようだ。暗くなり今にも落ちそうな雨粒は時として雲を割り視野を覗かしていた。 山頂で,ここ五色沼で.そして五色山手前でも。それでいて霧雨は時折舞い続けている。 12:55・・21年振りの同じ場所のスナップ地点カメラを向けると何故か昔の画像が頭に浮びひらめいた。子供達と東京からの最後の徒歩旅行で同じ場所でをカメラに納めていた。 前白根山に登り五色沼で昼食し,再び同じコースで五色山へ登った時のスナップ写真。 殆ど忘れてしまっている山中で.この登り風景が記憶として鮮やかによみ返り驚かされていた。 分岐より五色沼を回り込むよう五色山に立つ。 ここでも鹿の食害を避けるため鹿柵が設けられていた。ただ全ての柵は倒され.その役目は担っていなかった。 今年登った奥多摩や雲取山でも鹿害は甚だしく.木の幹を保護する柵が数多く設けられている。 外輪山と前白根山 12:18数秒の切れ目から前白根と奥白根の稜.中央鞍部に赤い避難小屋が見える。 五色山への登り.ここで幸運にも一瞬のガスの切れ目から先程の赤い屋根の避難小屋とその稜が望められた。 初めての大きな眺望に足を停めるも再び雲の中となる。もう五色山も近い。 s62年6月に子供達と東京から歩き最後の頂に立った前白根山。以外と記憶は薄いがこの全体造の眺望は記憶に留めていた。 最後に白根山と五色沼を一望し.シャクナゲの茂る尾根径を下ると平坦な国境平にでる。 国境平,ここより荒れた径となる.14:00国境平,右手に分ける中ッ曽根尾根を下れば湯元に抜けられる。昔下った山径である。 分岐に金精山への径は「亀裂があり危険」と記した立派な道標があった。2001年03月.金精山付近に地層の変化を生じ.亀裂が入る。 地割れ調査報告 南側から見た金精山は第三紀の変質した火山岩の上を柱状節理をもつ第四紀の溶岩が覆っている。 栃木県側は岩盤が露出した自由落下斜面をなし.一方群馬県側は急傾斜だが表土に乗っていて森林で形成されている。 地割れの殆どはこの森林土壌の上で起きている。 2001年03月31日06:09にこの地域の下.5kmで発生したM5.0の発震はこれらの地割れが形成されたと思われれる。 地割れ発見が遅れたのは積雪がなくなって初めて地表に露出したからで.地割れは金精山頂を含む200m位の領域にしか確認できなかった。 北西-南東方向に圧縮軸をもつ横ずれ型とのこと。 地割れの成因は次の三つが考えられる。@地震によって不安定になった土塊が重力によって引かれた開口割れ目。 A震源断層の末端が地表に達した地表地震断層。B地下からの押しつけによる開口割れ目。2001年6月23日.防災科学研究所 このコースは改修されず荒れるに任されている。余ほどのことがない限り.手を付けることはないと思われる。 岩場には木製の家庭でよく見る普通の梯子が幾つも砕け.成すままに放置されていた。 登山道は殆ど尾根上を通っているが金精山から峠への下りは上州側を少し巻くようなる。ここは残雪に埋まりルートファンテングを強いられた。 急坂の窪地にある登山道は残雪に被われ.雪面を避けると腰近い藪の絡みに先は閉ざされる。 以外に多い残雪にトレースは途中で消えている。最近歩んだ登山者の踏み跡は残されていなかった。 尾根上をルートファイテングする。尾根の西側の方が笹藪で楽だが.東側は倒木と深い藪に被われ.踏み跡は見付けられなかった。 以外と長い残雪にルートを取る。バランスを崩すと膝まで潜り苦労させられた。 ヤマトシャクナゲ ![]() 淡いピンクのヤマトシャクナゲと温泉ヶ岳からの稜.14:10 金精山から峠までの尾根径はヤマトシャクナゲが群生し.開花の時期と合い.素晴らしいシャクナゲ街道を作っている。 渋川出身のK氏.奥武蔵の丘陵育ちのT氏.S氏が歓喜を上げ.歩んでは停まることを繰り返す。 シャクナゲの花が溢れる径 ![]() 皆がカメラを構える.14:54 金精峠 金精神社より古びた道標と霞む温泉ヶ岳.15:06 霞の切れた一瞬の湯ノ湖と男体山.裾は戦場ヶ原.14:56コンクリート造りの金精神社の脇を抜けると金精峠にでる。菅沼の深々とした森はガスに包まれ1寸先も望めなかった。 対照的に切れた日光側は眺望が開かれる。遠く雄大な男体山と裾の戦場ヶ原.そこ先には中禅寺湖が霞み如何にか望まれた。 ただ梅雨前線の真下にいる我々は最後まで厚い雨雲に覆われていた。 下山 再び菅沼へ.6月20日15:32入山,下山の河原は共に沢沿いは涸れていた。水はけがよい土壌のせいか? 下りの径では常に1杯の清水を求めるK氏も.今日は諦め顔になる。 幡谷温泉 「ささの湯」 山行後往路を戻る。戸倉からの道と合わせ鎌田から少し片品川沿いに下ると幡谷温泉を右下に見下ろした。 信号.平川でUターンする形で右折し.片品川を渡れば宿前にでる。深谷に住む清水先輩と合流.夜遅くまで酒を組み交じわす。 S氏はRHC45週年で会って以来の1つ上の先輩。T氏と同期生で無理に誘ったのか? 朝食前には帰宅し.忙しい中参加してく下さった。 酒に強い彼の呑む姿.会話にも仕草にも昔の面影が滲み出て懐かしさが募りだす。掛け流しの湯に入っては酒を酌み交わした。 明け方帰ると起こされた時は驚かされたが,人のよい人である。声を掛け.直ぐ来てくれたS先輩.誘ってくれたT氏にも頭は上がらなかった。 全農連に勤め一日100kの通勤と忙しい先輩でもある。 「ささの湯」は1997年にオープンした新しい小さな温泉施設。豊富な掛け流しの風呂が人気。 K氏が選んだ今回の山行。場所も道路もよく知っている。地元K氏も縄張りが侵される勢いをもっていた。 少し温い単純温泉で露天風呂は毎日湯殿洗いしていた。¥7.000〜.¥500. 日光白根山Top 沼田吉祥寺と玉原高原を周回, 湿原からブナの原生林を探索 ・・上州武尊山周辺Top 6.21.菅沼よりガス湧く奥白根山を周游 6.22.ブナの森と玉原高原 6月22日.霧後小雨 幡谷温泉9:00=沼田吉祥寺=玉原高原.センターハウス10:55一玉原湿原一水源コース一ブナ平一11:50ハウス =リゾートセンター=R17=関越渋川IC=鶴ヶ島IC=東武東上線.若葉¥500. 15:38=16:27池袋 前日の深酒が祟ったのか武尊山の登山は中止になる。 否やその前から天候も悪く.その兆候はあった。ここで登場したのが地元のK氏。玉原高原に素晴らしいブナの森があると。 ブナと聞けば拒む仲間はいなかった。麓に東急が経営する玉原高原スキー場がある。隅々まで知っている先輩に先を任すことにする。 参道前の湧水.6月21日9:48沼田吉祥寺 昨夜語ったS氏の推薦する吉祥寺に立ち寄る。塗川出合よりゆけむり街道を進み.花咲温泉から川場川沿いに下っている。 そして川場村役場先の二俣を右手へ望卿ラインに入ると「水芭蕉」の酒造元である永井酒造にでる。その奥が吉祥寺になる。 この辺の裾野の地形も下山の折.暫し通うようなり.大分分かってきた。1974年04月12月.武尊山川場谷遡行 吉祥寺は谷間に位置しふんだんに自然の地形を組み入れ建立され.境内には吉祥寺百花園,春から秋にかけて百種類以上の花が咲き誇る。 山門と石仏群.水引きの寺でもある。豊富な水は溝又川から引かれ.一度訪れる価値はある。水芭蕉は終わり花菖蒲.5〜6月上旬が適期 有料で¥500.脇から入ればただ。 玉原高原(たんばら) 玉原湿原から水源コース.玉原高原ウォッ地図アプローチ 吉祥寺からそのまま望卿ラインで武尊山の広い裾野を横断し.サクランボ団地を抜けるとアップルロードと合流する発知川沿いにでる。 迦葉山弥勅寺の参道口があり.迦葉山の東裾を回り込むよう発知川を遡ると霧雨舞う玉原高原へでた。 途中,沼田市民の森付近で「しぐらし」のような鳴き方の春蝉の声を聞く。小さな蝉のようだ。一昨年那須板室の先で聞いた鳴き声だった。 玉原高原センター前に駐車する。玉原湿原の木道を歩み水源コースを選んでいる。 湿り気をたっぷり含んだ沢沿いは若ブナ林の薫りに溢れ.T氏が推薦するだけの新緑深いブナの大きな森が.その奥にあった。11:24. ブナ平.11:39ブナ平 水気を充分に含んだブナの森に更なる霧雨が舞いだしていた。周りは霧雨に霞むも巨木林に雨雫を留めさせている。 武尊山からの長い尾根の上にあり.又尾根末端に迦葉山の山寺.弥勅寺が建立されている。 1974年03月にドカ雪が降る中.上州迦葉山スキーに出向いていた。 日没前に沼田駅に下車し.タクシーで尾根末端にある山寺弥勅寺まで入り.軒を借り野宿した。 全てのものを身に付けツエルトを被るも厳しい寒さ。横玄関脇のタタキは底冷え強く.明け方まで寝られずにいた。 察した僧領から朝食をご馳走になり.山は諦めて朝の修行を受けるよう忠告を受けている。それを丁寧に断り,山を目指していた。 豪雪の急斜面が続き.シールは利かず.あっさり下山した。それでも沼田に出た時は夕暮れが迫っていたことを憶えている。 ・・独りの野宿と豪雪の迦葉山スキーツァー 尾根は幅広く豊かな台地の森が頂稜を綴り見渡す限りのブナの巨木林で覆われていた。 深い森に遠く日が漏れ.日の明暗が深みを更に与え.青葉の深みが目を潤している。木道を綴ると又新たな森が続いていた。 霧雨の粒が舞い.大きく息を吸い.のんびり歩む。云うことのない癒しの心を味わされられていた。武尊山は諦めたが,ここに来て改めて 痛感するブナの包容力。森の神が居座わる深山に思われ.言葉数も少なくなっている。S先輩の不参加が残念だった。 深いブナの森が続く 沼田市名木百選のシナ.ブナの木があり.11:40 ブナ地蔵.11:43樹海が途切れば右手に折れたブナの幹が合わさり合うお地蔵さまのような地蔵にでる。 ブナ平にはブナの根を奉ったブナ地蔵があり.その先に鹿俣山(かのまたやま)コースへの分岐がある。11:50 真っ直ぐ笹原を進めば.右手にゲレンデが広がり.鹿俣山にでる。道標を見て分岐を右に折れ.探鳥路コースからセンターハウスに戻っている。 玉原湿原では水芭蕉が終わりワタスゲが満開。周りを囲む玉原高原は標高1200〜1500mにあり.関東一を誇るブナ林が広がりを見せていた。 今月28日からゲレンデではラベンダー祭が始まる。藤原湖は玉原越えで徒歩60分 玉原「みのや」 アップルロードと合流地点.ラベンダーの期間中は日帰り風呂なし。日により変わるゆず湯?りんご湯?和漢浴? 奥利根産十割蕎麦.つなぎが弱いせいかボロボロの感あり.やや硬い。味はよいものの.すするソバではなく.やはり八割蕎麦がよい。 豆腐.舞茸の天婦羅.@2000. 雨は常に降ってもよい状況だったが今日も如何にか降らずに保てられていた。帰京しjr御徒町駅に下車.最後に傘を差し帰宅した。 jrスイカの適用範囲が広がり渋川を越え.より便利になる。 6.21.菅沼からガス湧く奥白根山を周游 6.22.ブナの森と玉原高原 山の経歴.経過Top |