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後立白馬岳より栂海新道を綴り親不知へU 再び朝日岳を越え吹上のコルから更に北上する―栂海新道に入り黒岩山.サワガニ山.犬ヶ岳へと抜け国道8号線.親不知へ 猿倉から白馬岳大雪渓―朝日岳 朝日岳から栂海新道を北上し.親不知ヒスイ海岸・・スコールと山蟹・野鼠 朝日小屋玄関前 山陰で遅い日の出の出発朝日岳―黒岩山―犬ヶ岳―白鳥山―尻高山―親不知・ローカル線.ほくほく線.新幹線 小屋主人 清水ゆかり嬢から別れの記念にと撮影して頂いた。 父の相続関係で受け付いたと云う彼女.確りした意見を常に持っている。私が言うのもおかがましいが山は大好きで如何しよもない感じ。 20年前.大川が訪れた時は父のもとでバイトをしていた。彼は忘れていたらしい。 今日の栂海小屋は予想では満杯になる。北又小屋よりイブリ尾根経由のツァーパーティが昨夜一緒にこの山荘に宿っていた。 まだ出発せず山荘に留まっている。この調子だと多人数で.栂海山荘到着は間違いなく遅くなる。シュラフに入る頃.到着するだろう。 それも.ここでまだ把握できる人達だけで.何人栂海小屋に宿るかは分からないでいた。 不安の湧き上がる我々に.彼女は細かく世話をし.ツァーパーティには我々の前ではっきり迷惑掛けさせないと発言させている。 私達は早く小屋に到着する。皆楽しみで出向いている。後から追って来る大パーティともめては詰らない。 それから8年後.2014年の5月にバルサール秋葉原で催された「山の相談会」で清水氏と再会した。優しい頬笑みは同時と全く変わらなかった。 当時私は体を壊した無人の栂海山荘で.無事もめこともなく済んだことに.改めて礼を述べている。 67歳になり.まだ山行を重ねている私達.何処まで続けられるか分からぬが山へのポリシーを持ち.続けられるまで登る積りでいる。 梅海新道を北上 |
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朝日岳直下から望む長栂山と五輪山の間に黒岩岳が浮かぶ . |
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| 8月22日.霧雨一時曇. 富山北部地方に雷雨大雨注意報 朝日小屋h2. 5:10一6:10朝日岳:25一7:30吹上のコル(蓮華温泉分岐).栂海新道一8:40アヤメ平一9:30黒岩山 一10:00文子ノ池一10:30サワガニ山一12:00北俣ノ水場一犬ヶ岳一13:00栂海小屋hc3 朝日岳北上 昨日は一日中.霧雨に包まれた雲天での行動だったが.再び朝日岳の頂に立つと薄日が射し.北側に高度を下げるにつれ明るさが増してきた。 これでガスが切れれば申し分ないが。上のスナップ写真は山行中.栂海新道の山々が撮れた貴重な1枚になっている。 北東側にはび込んだ雪田 朝日を浴びた朝日岳直下北方稜線 吹上ノコルと長栂山山稜を隔てる左側が小川谷恵振谷.右側が大所川高地沢 |
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| 栂海新道 吹上ノコル. 蓮華温泉と梅海新道との分岐点にでる。ここから日本海まで約27kの長丁場が待っている。 蓮華温泉への径は昔.夏合宿で妙高から白馬三山を越え下る予定でいた。ただ1年生の病後の参加者がぶり返し. 2パーティ全員が何故か白馬大池から途中下山した。当時は盛夏の強い陽射しを浴び.滴る汗を流し.御返りの展望が素晴らしく続いた山行だった。 梅海新道に入る。オオシラビソ林の痩せた尾根径が頂稜を綴っている。 分岐を分けると尾根の両側は煩く茂る潅木に被われ.風を閉ざす曲根の径に変わっていた。跨ぎ.潜り.蜘蛛の巣を掻き分け歩む小径だった。 オオシラビソの林を潜り暫く行くと草付の小平地.照葉ノ池にでた。残雪と清やかな青臭い草の香りが広がっている。蒸し腐るような草の匂いではない。 遅く夏場も過ぎるも高山植物が草原に咲き競い.山上の隠れたオアシスを創っている。 その背後には白馬乗鞍や小蓮華山.そして白馬岳や旭岳が煌き望める筈だった。想像するだけで霞み岳は望めぬも,1本取りたくな所。 岩石の露骨もなく曲根の山径は以外と歩き易い。ペースを掴み下り1時間半の配分で距離を稼いでいる。 時折足元で「ザワザワ」と何かが蠢ぐ。今日初めて通う登山者に. 我々の前に山蟹に蛙。時には40〜50cmもある蛇が目の前に現われた。 ガラ場の長栂山お花畑 背稜は東北のような大らかな山波へと変わっている。雪田と草原.湿原を綴る木道は.長栂山手前まで続く。なだらかな丘稜のお花畑。 長栂山では丘のような広い岩礫地となるも.固定ロープや枝を掴みを抜け.一段下がった所で再び湿原にでた。 晩夏に係らずアヤメ平には名の如くアヤメが群生し.更に下ると草原と池塘との美しい配合が豊かな風景を創り.黒岩平まで続いていた。 2人しか居ない草原上.アミノグエンサンとブドウ糖を呑み.水羊羹とポカリ水で喉を潤す。 間食は摂るが昼食に手をださぬ彼。コンロを持つ彼が主導権を握り.3日目になるも.まだコンロは使われていなかった。 私の間食だけが減り続けている。今日は無人小屋.食料は私が献立を立てている。彼の仕切る自炊を楽しみに。 少し明るくなり千葉大隊の掛け声が遥か遠くから聞こえてきた。 高度は徐々に落ちるも以外と残雪は多い黒岩平 頂稜の黒部川側に捲くと長くと出た所は広く大らかな湿原状の帯をなしていた。木道と絡む土壌のクッションが心地よい。 覆われていた層雲が切れ明るさが増した。高曇が雪田を白く煌きださせている。若草色に燃える湿原とのコントラストが特に印象的に映っされた。 ずっとここに留まって居たい場所だった。歩み過ぎ去るのが勿体ないほどの安らぎの場所になる。残雪が広がり.急に明るさが増した為だろうか? 小川を造る雪解け水の音色もよい。踊る小さな光の妖精が飛び跳ねている。 私は「おとぎの国」と言う言葉が好きだ。何度も使わして頂いているが,ここもその1つに加えなければならなくなった。 時間の経つのを忘れ.何も考えずボ〜と寝転んでいたい秘密の場所になった。 もう8月下旬である。周りは高山植物に溢れ.山々の樹葉は焼け落ちることなく.清い若い色合いを示している。 オーバーに聞こえるも.ここだけは初夏の兆しを残していた。 黒岩山 樹林帯を登ると右手に中俣新道を分けている。jr小滝駅へ直接出る径. このエスケープは7時間のきつい急坂を伴っていた。 黒岩山へはここから先は左右の谷へ急激に抉り落した痩せた尾根に入り込む。 今日.初めて栂海新道を登って来た単独行の若き女性と擦れ違う。今朝.栂海小屋では土砂降りの為.1時間出発が遅れたとのこと。 数Kの違いで.我々は霧雨で済んでいた。 笹に覆われ小さな登降を繰り返し.径中央少し右寄りで熊の糞を見る。 少し黒ずんだ太い真新しい糞だった。先月尾瀬ヶ原で見かけた糞と全く同じ状態だった。 ここは獣道の感もあるが.狭い稜,先に熊が居ないことを願い歩む。 文子ノ池を過ぎるとほぼ同間隔でサワガニ山を通過する。 なるほど7〜8cm程の赤褐色気味の山蟹を何度か,足元にうずく姿を見付けている。何故ここだけか? その由来は? ペースはよい,2人の歩調は合っている。 北俣ノ水場 一時の陽射しも陰りだし.降りだした雨は霧雨から本降りとなる。鞍部.北俣ノ水場は北又谷側に4.5分下りた所にあった。 柔らかな美味い水だった。水3500ccを確保. 今晩から明日,白鳥岳までの炊事.飲料水になる。 今日最後の急坂を膝を庇うよう登る。土砂降りになった雨. 叩くような雨は激しさを増し.頭を上げられず,足元は滝の如く雨水が流れだした。 今日は頂稜に出てからは上カッパに短パンで通しているが.全てがビショ濡になった。勢いついた雨粒は汗をも流し.気温を急激に落としている。 初めてフードを被り叩かれる。頭を上げられぬ力が加わっていた。流れる雨に足を取られがちになるのを押さえ,一歩一歩.高みへと登る。 雨粒は滝状になり.怒涛の如く駆け落ち.足元からヒザまで跳ね上げている。そして雨は一時の激しさから息を切るよう治まった。 雨水で沢化した台地も治まり.道が現れなだらかになると突然栂海山荘が目の前に現れた。犬ヶ岳にでる。 栂海山荘 北側一階.事務所横の部屋栂海山荘 以外と早く栂海小屋に着く。一昨日の白馬岳が14時半.昨日の朝日小屋は15時半の到着だった。それが今日は誰も居ない13時に着いている。 下りと云うことで1本1時間半で歩んできた。その結果.「山と高原」地図のコースタイムを初めて縮めている。 10時頃から激しい雨に叩かれ.黙々と歩んだ結果が小屋の前だった。 今思うと陽の差し出した黒岩平で.もう少しゆっくりしてもよかったようだ。先の配分が判らず.少し焦っていたかも知れない。 着替えをし気持が落着くと小屋の中が気に掛かりだす。サワガニ山岳会が管理する無人の栂海小屋は鉄骨を構えた大きな小屋。 犬ヶ岳山頂直下.標高1560mに位置し.50人収容の無人小屋 東面.アイサワ谷側に2つの玄関を構え.中2階建ての木造建築。左側は屋根が低く土間を境に1.2階とも猫背の姿勢で居住することになる。 欠点は近くに水場がなく.小屋裏は雨水を溜めるドカンと資材置き場になっていた。 栂海新道はサワガニ山岳会の開拓に始まり.5年程前から急激に脚光を浴びている。現在は環境庁による整備もなされつつある。 玄関前の広場には材木運搬用のヘリポートが設置されていた。 便所はヘリポートの裏側. 朝日小屋が水洗トイレだったことを考えると桁違いに比べようがない。現代と古代ほどの違いに出偶している。 昔.山では何処にでもあったストレートに谷底へ落すスタイルの(便所)があった。囲いはない。足場は板張りではなく.足元から遥か底に谷が覗まれる。 網の鉄板が崖に突き出され.安心感はもたらしていた。足下は深いアイサク谷のツメの崖縁。ここから青海川に注ぎ日本海へと流れている。 北岳小屋の便所 ここと同じ原始的な単純な便所があった。昔高校生の時の南アルプス北岳小屋の便所がそうだった。 深い谷底が果てしない空間の下にあり.滑り落ちたら間違いなく即死する所だった。ここは栂海山荘より悪い。 足元は網の鉄板ではなく只の崩れそうな板張りだった。斜めで滑り落ちそうになり.前屈みにすると大きく谷底が覗められた。 尻を差しだすと不安定な足場は一層恐怖心を誘っている。支えとなる手元さえ不確実.終えてホッとする気持ちは誰もが同じだったと思ふ。 古い話だがよく憶えていた。今の時代でもまだ考えられぬ造りが残されている。川下には人が住んでいる。確率では解決できぬ問題を含んでいた。 「小屋からの展望もよく.日本海に落ちる夕日の風情は素晴らしい。」と聞かされていたが.再び雨の雫が落ちてきた。 今だ何処からも.その情景を見られないでいる。白馬岳でも,朝日小屋でも,ここ栂海山荘でも.入山前の天気予報は連日外れていた。 晴天が雨になる。4日目の明日も午前中は雨の模様 一夜の仲間 夕暮れが近ずくと栂海小屋も意外な混雑を見せだしていた。全員が朝日小屋からのメンバーだった。 誰も居なかった山小屋は1時間も経つと6人の男女パーティが右2階を占領した。彼等は組織たった立派な社会人パーティだ。 4時には炊事を終え.中2階の寝床に入っている。 その後.広場でO大川と酒を交わしていると千葉大同好会の8人パーティが広場に天張った。 そして陽気な単独行の髪結いさんに再会。我々と一諸に右1階に3人が宿る。 大分遅くなりボッカを含めた14名の大所帯.ツァーパーティが現れた。前日から判っていた為.左1.2階を使用して頂くことにした。 小屋には今夜23名が宿る。それに鼠もいた。 欠けた食事 今日の行程は10時頃まで一時好天に恵まれ順調に行動するも.未知の先に少し急ぎ過ぎていたようだった。 彼と共に歩むペースはよかった。ただ間食が少な過ぎた。アミノバイタルに頼る。彼も私も朝食以来.蒸す暑さに真水ばかり飲んでいた。 そして昼食を抜いたのが仇となる。黒岩平でコンロを使い.もう少し休むゆとりが欲しかった。 再び降りだすと本降りになり.そして小屋まで来てしまったことが更に体調を悪くした。 梅海山荘での炊事はアルコールに変わり.胃は拒食症的になりかけていた。彼はその後ツァーパーティからの酒席に誘われている。 私は腹の調子が落ち着かず。大事を取り夕方まで横になる。ただ楽しい筈の夕食に炊事はとんでもないことが起きていた。 ローソクの炎が柔らかく部屋を包み.コンロは青白い光を力強く放している。初めて使うコンロ。ただ汲んできた筈の大量の水がなくなっていた。 彼は酔い調子に乗り今晩の夕食.明日の朝食.行動中に使う筈の飲料水を分けてしまっていた。2Lの水がない。 彼は身勝手に外で昼の残り弁当を食べたので.夕飯はいらないと云いだす。 呆れるが怒っても如何しようもなかった。水は全くなかった。夕飯の炊事は水が無いのが分かってのこと。 山の中.今もめる訳には往かなかった。無言で彼に云う言葉も失っている。 明日を考え水はカップ1杯に制限する。そして彼の間食を出させ.夜の炊事は私1人で紅茶とビスと慎ましいものになった。 もう明日の行動用の飲料水を残すと水は完全になくなっていた。翌朝もポタージュとビスの粗食となる。 そして白馬岳を越え東京から背負って来た主食類は全て消費せず.一度も使わずして.共に山を降りることになった。 高層天気図.22日9時 栂海山荘増築完成 翌2007年06月炊事場と土間を増築した。それに伴い各室内の火気使用は禁止となる。 この小屋は69年にサワガニ山岳会が建てた避難小屋。約10回の増改築によって5部屋.収容人数40人以上の山小屋になる。 8月23日霧雨.下山して晴れる 栂海小屋hc3. 5:30一7:35下駒ケ岳一9:10白鳥小屋:35一935m手前水場11:00一金時坂一12:00坂田峠一12:45尻高山 一14:20林道一15:20親不知R8栂海新道入口.「親不知観光」⇔ヒスイ海岸. 黄蓮の涸れた水場.冬は深雪に悩ませられそうだ栂海小屋を一歩でると樹林帯の急な稜線上を忠実に下る。彼は酒の呑み過ぎで遅れ気味.苦しい息ずかいが分るも無言でいるしかなかった。 コブのような黄蓮山.菊石山を抜けると漸くブナ林が現れれだし.更に下り続けて白鳥山の登りに掛かる。 ここはきつかった。アイサワ谷と大平川の源流が稜を挟み.その中を腕力で登れば白鳥山にでた。 白鳥小屋 飲料水は2人合わせて1000cc。彼が水を探しに行くも白鳥小屋は頂故.栂海小屋と同じく見付けることはできなかった。 後で判ったことだが彼は頂を越えた上路川側を下っていた。本来は頂の手前.反対の金山谷側に水場があったらしい。ただ遠いい。 不適され「水を汲んでくる!」とポッんと云って.1人で出掛けてしまったが.8分程で戻ってきた。 小屋は抜群に綺麗で清潔感に満ちていた。確りした小さな小屋.水が確保できれば誰もが利用するだろう。 ここからも見える筈の日本海.今日も又霞み強く望むことはできないでいる。 ぬかるんだ粘土状の黄土の坂径を下る。霧雨程度で済んでいるが一度雨が降れば大変な所になる。 粘土質の径は沢となり永遠と思われる長い下が続く。ただ意外にもこの土壌は細かい窪みを持ち.滑っても痛いが危険はなかった。 935m手前水場.沢を横断沢を横切り.シキ割りで水を補給した。水場が判からずポリを寝かし工夫させ薄濁りの水を集めている。 漸くポリを満杯にすると20m程下流左岸で入水場を見いだした。 改めて満たした沢の水。そこにはろ過器の上にワンカップのビンが置かれていた。それで飲む水は真に美味い。彼もホッとしたようだ。 下山にあたり今日も彼がトップを歩んでいる。だが笑い顔はその場限りで.先を急ぐ彼は食事をも摂らず.何かが違っていた。 昨日.梅海山荘で団体ツァーパーティに会ってから何か歯車が狂いだしていた。時間はあるも私も我慢し.炊事どころか.食事は諦めている。 互いに何も云わず.これ以上もめてはと私も無言を通した。入山の時の湧き上がった勇ましさは失われてしまっている。 急ぐ彼に無言で頷いた。 金時坂 今までにない高度差300mの荒い下り径だった。細い稜の両側は深く谷に落としている。岩と曲根で構成された粘土状の急坂が続く。 膝が踊り.足筋は張り.庇う手と杖. 不規則な階段状の傾斜が一直線に落ちている。 ロープ.梯子はあるも.ここから入山する勇気は私にはない。登り一方の尾根になる。 坂田峠を横断飽き始めた頃.坂田峠にでる。 坂田峠 峠を横断する林道は舗装され.うねりながら下っていた。坂田峠を越える。 ここからの山径は思いのほか快適になり.里山のなだらかな散策路が延びている。常緑樹林の森を綴る落葉の径 今までがゴツゴツした山径だったせいか.靴底のクッションが心地よく.海抜700mは過ぎて.見えぬ海岸0mが近ずきつつある。 薮蚊 尻高山を過ぎるあたりで.集中的に虫に刺された。アブを追い払うも薮蚊か? 私は短パンの故.両足腿辺りを何ケ所も襲われた。 それが酷く痛い。叩き落としても.直ぐ現れ向ってくる。時には刺さった間々落ちずの藪蚊がいた。 数えたら合計16針. 掻かずとも刺し口は東京の蚊と比べ.はるかに大きかった。 タオル 今回は入山日以来.猿倉で日焼け止めを塗り.タオルを首に巻いて.同じ行動を続けてきた。又蒸す暑さはなく.行動中も以外と涼しかった。 雨や霧で濡れ気味のタオルは以外と冷却作用を催しもいる。 蒸れた首筋にタオルを移動させれば,以外と涼しさを感じ.右端.左端に寄せて気を間際していた。 それでいて休む毎.タオルを絞ればボタボタ大きな雫を落していた。栂海新道は殆どが藪木で.風は遮られている。 ブナの森に一輪のエビネラン山を下り日本海 もう1つ舗装された林道を横切り.直ぐ二本松峠にでる。字の如く松林に入る。蝉が急に鳴きだした。シグラシにツクツクボウシ混ざり賑やかに。 彼が天然のエビネ蘭を径脇で見付ける。小さく綺麗な花だ。何故ここに一房だけ咲いているのだろうか? 入道山から416mコブを越え最後の下りに入る。まだ日本海は見えずにいた。 里の裏山らしく海岸沿いの国道から車の往来する騒音がはっきり聞こえだし.アクセルを踏み込む音まで伝わってきた。 深い樹林のジグザグに切られた斜面. 何か見えると思ったら突然,国道に飛び出した。鉄網の階段を下りるとトーチに大きく栂海新道入口と読める。 国道8号線北陸道.激しく往来する舗装道路の先に蒼い海原が臨まれる。 親不知 親不知には2002年10月に妻と富山福光から北陸道を旅した折.通った所。 当時の感想として.「北陸沿岸の国道を下る。急な山稜が海に落ち.そこを綴る道は海岸沿いに厳しい景観を築いていた。 海岸線より国道を隔てた急稜の裾.そこに住む群村の風景が.絶する凄みをもって望まれた。 誰もが思う冬の厳しさ,何も云えぬ凄みを持った地形として望まれる。妻と望む里. 彼女も海岸線ではなく,陸地奥を見詰めていた。」 この崖プチの山を下り.今回の山行を終える。 翌07年には黒部峡谷と立山黒部アルペンルートを訪れる。その折は高速道を走り.親不知を通過するもトンネル内で景観は望めず。 更に13年07月.馬場島から剱岳北方稜線を目指していた。その折は国道を抜けている。ただ探すもアッと云う間の場所だった。 栂海新道 栂海新道はサワガニ山岳会の開拓に始まる。山径には捲き径もなく.ほぼ忠実とも思える程,頂稜を忠実に綴っていた。 径は確りしているが上下の起伏厳しい行程でもある。 ひと月遅れの残雪は豊富で目を楽ませるも.山中からの展望は最悪で殆どが霧雨に被われ,何処も隣りの山さえ見えずに終えている。 夏の陽光をサンサンと浴びることはなかった。ただ行動には暑くなく幸いしている。 残念と云えば飲料水の計算を失ったことだけでだった。 携帯電話は山行中.頂を含め全ての場所で通信できず。国道に出て.海の見える縁で初めて繋がった。 |
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日本海ヒスイ海岸 |
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![]() ヒスイ海岸 親不知観光ホテルから浜までは300〜400mの断崖絶壁は歴史の道「天下の剣」として国定公園に指定されている。 「北アルプスが日本海に落ちている。」の言葉通り.国道からも海浜へは絶壁を刻んでいた。 ザックを背負わなくても,最後の海岸までの下りは厳しい。 空身での下りだが共に足を敷きずるよう身を支えながら降りている。 登山靴を脱ぎ波打ち際に立つ。打ち寄せる波は幾らか荒く,生暖かい波が腿を洗い引いては又被さった。 彼が毎日のように語っていた言葉.「日本海で顔を洗うぞ!」が.今成し遂げられた。 私も彼に習い海水をかぶる。一瞬にして今までの苦労が忘れさせられたようだった。天下晴れての下山となる。 入山以来.久し振りの陽差しを受けた。顔を洗うも海水は以外にもショッパく感じられず.先には水平線の海原が広がっている。 1894年W.ウエストンは栂海新道の海岸側登山口がある親不知の断崖に立ち.当地が日本北アルプスの起点であると述べている。 新道名は栂の樹林帯を抜け日本海に達するので「栂海」と名ずけられた。 地図を読む。1/50000地図「泊」に初めて赤線が綴られた。39年前.1967年07月に池袋「東武」で購入した国土地理院の地図 上高地から赤い踏み跡の線が.ここ日本海までほぼ繋がった。 後は頂稜を蓮華岳から不動岳まで結ぶか.針ノ木峠〜南沢出合まで下りれば全てが成し遂げられる。 2010年08月.針ノ木雪渓〜烏帽子岳間を抜ける。久し振り猛暑に煽られた起伏激しい岳を越えている。上高地から綴る親不知 朝日岳〜親不知 北アルプス最北部地形図 jr親不知駅 今の無人駅は乗客私1人.翌日も彼1人とのこと右は北陸高速道と国道.その先は日本海 23日.親不知観光ホテル17:30=jr西日本.北陸本線親不知17:58=18:10糸魚川.ほくほく線:43.北越特急「白鷹21」 =信越本線直江津=飯山線十日町=19:59上越本線越後湯沢.上越新幹線「max348」20:08=21:13上野 帰宅 本来,日本海を一望する「親不知観光」の湯殿で泥まみれの汗を流し.夜行で新宿に戻る積りでいた。 夜までにjr小糸川にでて.夜行列車が出るまでは駅前の居酒屋で下山の凱歌を祝す筈だった。 それが急に彼がここに宿ると言いだした。私は明日東京での仕事が入っている。帰らねばならなかった。夕飯も拒む彼。 ホテルの支配人から今日中に東京に帰れると聞く。聞き返す私。鉄道の進歩も目覚ましく進んでいる。 糸魚川から「ほくほく線」経由で越後湯沢発.新幹線に乗れば上野にでる。私にとっては脅威的な言葉だった。 まして出発の親不知は現在無人駅。 親不知の出発時刻に合わせ車を宿に頼む。糸魚川駅で30分の時間待ちを加えても21時には上野駅に着く。 妻に夜食を頼んだ。一緒に帰京すると思った彼は1人旅を好み.ここで一泊し翌日帰京するらしい。(風呂と駅まで乗車.)¥1500 上野まで全て座れた。北越特急に乗り込むと帳も落ち.車窓はトンネルを含め真っ暗闇となり.本州を横断した。 装備は 高層天気図 23日9時 猿倉から白馬岳大雪渓〜朝日岳 朝日岳から栂海新道を北し親不知.ヒスイ海岸 北越急行「ほくほく線」 「ほくほく線」は新潟南魚沼市の六日町駅と新潟県上越市大潟区の犀潟駅を結ぶ北越急行の鉄道路線である。 1997年に「ほくほく線」が開業して以来.富山県.石川県方面と関東方面を鉄道で移動するには本路線を通る 特急「はくたか」と上越新幹線を越後湯沢駅で乗り継いで利用する方法が最も短時間で便利になる。 又地方の鉄道会社の路線としては毎年数億円の黒字を起こし.利益の大きい路線として全体の9割が特急による収益になる。 経緯 1968年(昭和43年)8月.工事に着手するが1980年10月の国鉄再建法施行で工事が凍結される。 北越北線を引き受けは第三セクター方式で北越急行株式会社が1984年8月に設立された。 1989年(平成元年)01月には上越新幹線に接続し.北陸本線方面へショートカットする路線として整備された。 ただ2014年度に北陸新幹線の長野駅〜金沢駅間が延伸開業する際は.利用者が新幹線へ大幅に移行することが確実視されている。 40年前.20年前の国鉄.JR新宿=白馬(信濃四谷)間,鉄道事情アプローチ
中央東線 1966年(s41年)といえば東京オリンピク開催に合わた東海道新幹線の開通から2年目.東名高速道路が急ピッチで工事中の頃になる。 65年RHCに入部.中央線沿線の山々は当時.夜行鈍行列車を利用するのが一般的だった。 そして北アルプス入山のアプローチとしては.よく急行「穂高」を利用していた。 ローカル線にはまだ蒸気機関車が走っていた時代である。冬期はダルマストーブが待合室で活躍している。 1986年までに日本の交通網は劇的な進歩を遂げ.新幹線や特急を利用する人が増えてきたが.まだ夜行登山の需要も高かった。 まだ.ステーションビバークが黙認されていた時代でもある。 特急「あずさ」が馴染み深く.新宿駅には「アルプス広場」が.まだ設けられてもいた。 1990年代の登山ブームは道路網の整備も相まって登山道路にも及び.マイカーによる登山が急激に増える。 それ故,夜行列車は失われ.路線バスの減便や廃止を伴い.更にマイカーの利用が増えている。 2000年代はアプローチは超便利化し.登山ブームは下り坂になるものの.中高年の進出はすざましい。ツァー登山.団体登山が増えている。 主流は鉄道からマイカーへ。高速化にともなう時間短縮と高速道路が登山形態の変化も促していた。 今回の白馬岳山行も.季節運行列車があるのを知るまでは夜行高速バスの利用を考えていた。 新宿都庁22:30=6:30白馬.「さわやか信州号」¥4700 昔の国鉄とJR・・中央東線の旅と歩み |
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