| 秋霖前線本番の穂高岳と願いも虚しく動かぬ前線 上高地から降り続く雨粒. 豪雨と競合してのキレット越えての穂高群.奥穂高岳 降雨から豪雨へ.槍沢.槍沢ロッジ―天狗池と南岳小屋 キレットを越えの濃霧と穂高岳山群―擬似好天の穂高岳山荘と岳沢・・頭上から落ちてきた上高地の野猿・1匹のイナゴ 南岳と裏穂高 大々乗越より仰ぐ大キレット.2009.08キレットを南下 9月01日.高曇後濃霧. 南岳小屋―北穂高小屋・・南岳小屋6:30一7:25A沢ノコル:40一9:50北穂高小屋大10:20 「キレット」とは漢字で「切戸」と書き.山と山をつなぐ尾根が深く切り落ちている場所を言い.長野県の方言からきた言葉と言われている。 富山県側では「窓」とも呼ばれ.北アルプスの三大キレットの1つになる。北穂高岳と南岳を結ぶ「大キレット」 後立山連峰の五竜岳と鹿島槍ヶ岳の間にある「八峰キレット」に.天狗ノ頭から唐松岳に至る尾根にある「不帰キレット」がある。 中崎尾根末端と蒲田川.6:41私達を含め山小屋に宿泊した2Pがキレットを越える。明るさが増し.風が既に露岩の雨粒を飛ばし乾かしている。 崩壊激しいガラ場のジグザグ径からキレットの横断が始まる。 攀じる岩稜は思いのほか難路を築いている。前日の暴風雨では寒さに震えられず.縦断できなかっただろう。 ここより痩せ尾根に捲き道は少なく風とのバランスが要求される。鎖場.梯子はあるものの径は岩の頂稜を刻んでいた。 横尾谷本谷左俣カール・・1970.10 ![]() 南岳東南稜から屏風岩.7:39 懐かしい本谷左俣カールが見下ろされた。1970年10月にカールで幕営し秋の嵐に遭遇している。 先輩,後輩が熟睡する中.鈴木と夜半.暴風に起こされて壊されそうになったテントのポールを握りしめつつ朝方を待っていた。 雪でなく雨に叩かれ. 圏谷は渦を巻き荒れ狂い.シートはプール化し.漸く中岳にでて肩ノ小屋(冬期避難小屋)に落ち着いていた。 その時の仲間が今私に脇にいる。千丈沢からの下りでは.高瀬で里に降りる野猿の集団と出会い.高瀬川のダム工事現場ではヘルメットを被され. 最後はトラックで信濃大町まで運ばれた。そして下山と共に山は根雪に変っていた。 大切戸ウォッ地図 ![]() 飛騨.滝谷側は頂稜よりスパッと落ち.二股まで見下ろせるスケール。感じよく抉れ壁を覗き込む。 又信州側.横尾本谷カールはなだらかに起伏し.鞍部まで如何にかキスを背負っても登れそうだった。 長谷川ピークと北穂高岳縦沢岳と双六岳 中崎尾根上半が横切る蒲田川の山々 ![]() 小平地にでて1本。 新穂高は雲の下.中崎尾根末端は雲に潜る深い蒲田川が望まれる。遠方は白山.水無山の山並だろう。 大きな長谷川ピーク ガスの切れ突き上げたピーク.8:28中盤にある長谷川ピーク「Hピーク」と岩にペイントされてをり.少ない足場に高度感があり 以前.ここから落ちて救助された大学生の名前を取って「長谷川ピーク」と名付けられていた。 蒲田谷を挟み笠ヶ岳 滝谷A沢ノコル.8:30滝谷A沢コルで流れ行く雲海が時折切れだした。その切れた窓から蒼空が仰がれる。 新穂高の谷底深くには緑のジュウタンが覗き込まれ.白糸として残る白霧が長い尾を描き.谷間を埋め尽くしている。いい眺めだ。 Oが久し振り煙草を求める。 ヤメタ男が煙草を吸う。彼は山に入ると何度も禁煙を破ってもいる。私が持つ煙草が悪いと云う彼。あれば吸うと。 緩やかな空気の流れに乗り.昇る紫煙.周には岩ヒバリがさえずり.長閑に時が流れる1本になる。 横尾本谷左俣からA沢コルへ 本谷橋を渡らず本谷左岸のゴーロを少し行くとブロック(雪)が現れ.踏跡が左岸に登って行くので,これを辿る。 踏跡は次第に夏草に覆われ歩きにくくなり.川原に戻ろうとするも水量が結構多い。川原通しは無理のようだ。 諦めて頭を没する程の夏草をかき分けて.歩きにくい踏跡を辿る。 固定ロープも張ってあり.冬山用か? 最近通ったパーティがあるようだった。その記録 二俣では右俣の4m階段状滝の下で水流を渡る。左俣左岸の大岩上で日除けのため傘をさして休憩。 この少し上流でゴーロ滝状になっているがそれを越えると直ぐ左俣雪渓が続く。 右岸は断崖状で雪渓上にも落石が多く転がっをり.なるべく左岸寄りに歩む。 傾斜は緩いのでステッキと拾った木の枝でダブルストックにして歩けば.さほど難儀はない。 奥二俣から一時間程で右岸の北穂池付近から落下する結構な落差と水量の滝「北穂池ノ滝」に至る。 意外と見事な滝で雪渓は二分し右の本流へ。 小滝上に出ると景色が一変する。これが左俣カール。高度を上げるにつれガレが不安定になり.なるべく雪渓上を歩む。 次第に傾斜が急になり.ダブルストックとキックステップで油断が出来ない。体力的に大分バテているのでバランスが悪い。 ゆっくり.ゆっくり高度を稼ぐ。雪渓が切れ.僅かなザク登りで.A沢ノコル近くの草付岩場に到達した。 ・・2002.07.23.すうじい埼玉氏. 右俣は1970年10月にSと3人で詰め.千丈沢を下った。 9:03キレットの後半は俗に「飛騨泣きの嶮」と言われ.痩せ尾根が乱立し.食歯のような岩峰を縫うように登って行く。 私達だけしか居ない岩稜でバテが始まった。意識するしないに係らず.誰もが足を重くし上がらなくなった。 そして最後の登りに息を弾ましている。前日からの回復は遅い.全員がバテている。「20分毎に休むぞ!」と言うのを無視した。 10分伸ばし30分.その都度1本を取る。バテても停まる者は居ないがきついことには間違いない。 北穂高岳への登りはきつい。それでも北穂の岩壁がグングン競り上がり.右壁が大きく開かれる。昔捩った岩峰の迫力はやはり凄い。 仰いては足元も見るようなる。逆縦断の下りの方がきつそうだった。単独行の女性と交差し.後一歩で北穂高に立つ。 今朝.日の出前に北穂高の頂点に煌めいていたランタン。その玄関先の窓が見え.北穂高小屋に着く。 飛騨泣き 長谷川ピークより南側にある難所北面からの北穂高岳滝谷 滝谷第一.第二尾根.9:121967年07月.同期和田とザイルを結んだ滝谷第二尾根. この時は北穂沢のツメで北鎌尾根を狙った同期田沼と三浦に再会している。 涸沢にベースを設けた時で夏嵐に遭遇し天幕を倒され.稲妻が上下に落ちる嵐の中に置きざらにされザイルで雷光の中を抜けた覚えがある。 それに比べれば今回は静か過ぎる。静かだ。 滝谷A沢ノコル キレット最低鞍部を振り返る.9:13右下が横尾本谷左俣のツメになる 滝谷右俣二股の残雪 滝谷B沢より.10:00北穂高小屋 玄関は北側キレットより.10:23コースタイムを読むと休んだ割りに時間のロスは少なかった。意外と堅実に3人とも歩んでいる。 驚きと安とか? 互い真面目だったからと諭すも.ただ今は再び同じコースを下る考えは起こらなかった。 悪天候の中.キレット越えの天気だけは恵まれていた。山行中で一番よい条件が今日の朝方に繋がっている。 好天にはならぬも一瞬の日差しをも浴びている。周りの視野が眺められていた。北穂高にでて再び濃霧に霧雨と眺望は全くなくなっている。 明日の岳沢も視界2.3mの濃霧から降雨に変わっていた。 10時現在.南岳から縦走は我々を含む2Pと逆ルートに単独行1人の交差があっただけだった。 今.北穂高岳からもう1人の単独者がキレットを越えて行く。留めなく湧き始めたガス.今日も縦断する人は少ないだろう。 濃霧に包まれた北穂高小屋一白出ノコル 9:50北穂高小屋大10:20一11:40最低コル一12:40涸沢岳一13:10白出ノコル.穂高岳山荘h3. ガスに立つ北穂高岳北峰.11:31涸沢岳への径 視界は0に近い。灰色の世界が広がり涸沢も滝谷側も全ての展望は閉ざされる。松浪コルに出るも全てがガス一色だった。 ガスは濃く.風はうねりだし.目は足元のみを見定められるようるようなった。意外と厳しい頂稜の起伏が続くが足元しか分からず。 足元からは馬蹄形に広がる涸沢を確認することもできなかった。好天だったら見下ろされる筈の涸沢山荘.そのに先輩達がいる筈だった。 頂稜涸沢側のトラバースルート視界が悪く高度感は薄れガスが吹き上る風のスリルはある。あおられる烈風に高度感はなく.涸沢槍の登りも急な岩壁となっている。 足元には涸沢の広い谷間が広がっている筈だった。ただガスは流れるも切れることはなかった。視界はない。 垂直に近い鎖場を越えれば涸沢岳にでる。そしてザラ場を下れば穂高岳山荘は直ぐ間近になった。 穂高岳山荘と奥穂高岳 涸沢岳の下りより.12:57白出のコル 見えるか見えぬか視界0の涸沢岳。ガレ場を下ると西風に乗りコルに霧が流されだす。 北穂高岳からの頂稜を歩むも.左右に落ちる鋭い谷間の景観は臨められずにいる。 北穂高岳から南下すること数時間.初めて覗められた眺望はガスの切れ目に現れた穂高山荘。真下に見下ろす白出のコルだった。 雲を切り奥穂高の雄姿が一瞬現れる。突然切れたコルに穂高岳の大きな小屋が見下ろされた。 「小屋だ!」と気は踊るも足は重い。 3人で足を庇いながら下った小屋。胃は弱っているもビールの一口が旨い。その中でもSの食欲とOの呑みっぷりが凄い。 前穂北尾根と涸沢カール 14:13・・涸沢周辺地形概念図2週間前まではカール底は一面残雪に被われていたとのこと。 巨大な層雲に覆われ沈んでいた穂高山荘は吹き上げる風に乗り.テラスから涸沢のカールが真下に見下ろされる。 山荘の庭先から涸沢カールが「見えた!」と大きな声を聞く。待望の涸沢の赤い屋根の山荘が残雪に囲まれ見下ろされた。 ただカール底の残雪は溶けつつあり.少なく山の立体感は失わつつあるようだ。北尾根は屏風のように厚みを持ちカールを囲み側壁は構えていた。 懐かしい風景だった。何度となく涸沢カールの周りの山々を登る為.カールの谷底に入っている。 荒天で諦め下山した壁.岳も多い。散策に訪れたのも何度かある。今回は下るのではなく見下ろしている。 大天井岳を従え大きく望める常念岳と蝶ケ岳への尾根 手前がザイテングラードと屏風ノ頭 小屋前テラスより.再びガスに覆われる早い帳が落ち始める頃.奥穂高を越え.ぞくぞく登山者が現れる。岳沢からの長い行程のコース。我々は明日そこを下る。 穂高岳山荘 個室「黒部五郎岳」部屋で.18:03山荘 予報では天候はよい方向に向かっている。夏休み最終の週末を迎え.山荘は思いの他混雑していた。 入居後も涸沢・岳沢からの登山者が続々集まってくる。今日の穂高岳山荘の宿泊者は120名.前日80名,前々日は5名 これでも少ないと云う宿泊者。山荘のサービスは今山行中.一番よかった。ゴミ箱も各種あり土間も広い。 マンモス山荘だが昨年の白馬山荘とは異なり山荘内全体が明るく.客に対するサービスも断然たる違いを示していた。 再び山へ登り始めて山小屋泊りが多くなる中.それぞれの個性あるサービスの違いを改めて痛感させられていた。 夕飯は2部制で手の込んだ料理の中.キャベツのザツ切り大盛には驚かさせられた。朝食の生卵が嬉しかった。 個室の寝床は思いのほか暑い。4℃になると言うも厚い毛布に柔らかな上布団. 寝ていても蒸し今日は肌着になる。 ¥8800+個室¥10000.職業電話1分¥100.宿泊外水1000cc¥100. 電力は一般的になったソーラーパネルに風力発電も利用. 又冬季閉鎖になると山荘内の大きな空間を守るため約100本の柱で支えていると云う。 9月02日風霧. 白出ノコル―奥穂高岳―上高地 穂高岳山荘h3. 6:10一6:50奥穂高岳一7:40コル一8:00紀美子平一10:15岳沢ヒュッテ大:45一13:00上高地. 黄昏迫る奥穂高岳 1970.07.明神主稜より前穂高岳からの吊尾根奥穂高岳 濃いガスの流れる中.小屋をでる。山荘から鎖場.ハシゴと急稜が奥穂高岳の頂へと延び.飛騨側の風は更に強くなる。 一昨日と同様に天候は回復の見込みなし。三人の老兵がムチに打たれ黙々と歩く姿だった。 奥穂高は全体的に引き裂かれたようなガレ岩の上にある。出来るだけ鎖に頼らず行動した。 ガス雫と風に叩かれ.息がメガネを霞ませている。暫して使用不能になる。ただ喘ぐ一歩毎に幻の奥穂高岳を見るのみ。 頂は穂高神社の祠と方位盤とに別れ.その間に頂点を横切る窪み径があった。視界は0.足元だけで全く先が見えなくなっている。 全く望めぬ地形はまだ夜明けのような暗い灰色の世界を保たせていた。連続的な飛騨側の烈風が左頬を叩き付け.当たる粒石が痛い。 穂高群の中で奥穂高は初めて踏む頂だった。前穂高.北穂高には何度が通っているが岩壁絡みが多い。 何時だったか前穂高の頂で雷雨に遭い.昼頃真っ暗闇になったことがある。エレキを点け磁石を見詰め.頂直下のコルから涸沢へジッヘルで下降した。 裂石に覆われた岩場の吊尾根を抜けるまで休みは取れずにいる。ザックを背負って休むも体は落ち着かず。 休めば体は直ぐ冷え.その上三人の足は固まり.更に棒のようになった。 岳沢の径 吊尾根を下り.ゆっくり休めた1本.8:53重太郎新道 岳沢の這松帯を抜けると風は治まり.ゆとりが現れるも足は下山の安心感か? 更に重くなる。 中明神沢ノ河原付近から樹葉に覆われ.堆石沿いの針葉樹林の中を縫って行く。 韓流登山 下りで韓国人登山者と出偶した。若者を含めた中高年グループと擦れ違う。大声を上げ我儘で譲る気持は薄い。 感情が高いのは国民性で判るが服装.装備も疎らだった。 韓国の山はほぼ全土にわたり気軽に行けるピクニック的な山が多く.岩壁の岩登りとは別に.ハイキングを好む人が多いと聞いたことがある。 そう云われれば合点がゆく。日本人でもラジオを付け歩く人は最近少なくなった。大声でも自然は壊れる。 お互い思いやりの気持あればと思うのだが。 岳沢カールを右に見て.前明神沢の広い河原を横切ると再び石の敷き占めた林間の小径に入る。 昔明神主稜を登り.頂で日没を迎えるまで眺め.日没と競争して駆け下りた同じ径を下っている。 当時はエレキをテントに田中・見城先輩に私と3人が共に忘れ.互いに励まし黙々と歩んでいた。若さの違いか.同じ径とは思えぬほど馬力がいた。 降雨は治まり岳沢ヒュッテ前のテラスで1本.10:372006年の雪崩で小屋が全崩壊し休業中。夏シーズンは売店.トイレ.テントのみで営業。再建計画は未定. 前穂高岳直下岳沢.標高2230m 岳沢ヒュッテ 広い河原の岳沢ヒュッテに出て雨が切れる。コーヒーをと最後のコンロを点ける。湯が沸くや再び雨が降りだした雨。 傘をコンロに差し.こぼさぬよう互いに怒鳴る。後2時間で上高地へでる。 上高地の野猿 ストックを使い脚を庇い.大モミの森を抜けると上高地の治山林道にでる。左に小さな岳沢の澄んだ湿原が臨まれた。 熊笹の生い茂る探勝路で親子ずれの猿が前方で戯れている。その1匹が私の頭上から落ちてきた。突然私の頭上より目の前に大きな黒い塊が落ちる。 歩いている目の前である。空中で回転し着地して走り去るのはやはり機敏な小猿。一瞬猿とは思えぬ大きなものが勢いよく真下に落ちてきた。 目の前の視界が一瞬途切れた。何が起きたか思うも.見えたのは足元に転がる小猿。 最近上高地に群がる野猿が増え..その後も観光客が弁当をあげる仕草を見て「あげるな!」と怒鳴っている。 そして梓川を渡る。観光客で溢れる間々ならぬ河童橋を渡り抜けている。 田代.明神とで合わせて野猿60頭あまりが確認されている。2012年現在.信濃毎日新聞によると田代群約40頭.明神群80頭をり. 河童橋周辺に拠点として新たに10頭程度の群れができたらしい。年毎に10頭程度が増えている。 昔晩秋に高瀬川を下り.槍から里に下る大きな猿の軍団と出偶らしている。・・その時も同期Sと一緒だった。横尾本谷右俣から千丈沢を下って.1970.10 13:00上高地14:00貸切シャトルバス=沢渡「さわやか」信州号.@7000=8:45新宿. 早い下山 予定より2時間半早く13時河童橋に下山する。アルペンホテルでゆっくり入浴.生ビールで山の凱歌に酔いしれようと思っていた。 それがバス予約で停車場に出向いた折.その間々予定を変更し帰京することになる。 Oが時刻表を名指し強引に帰京を促した。又もやバス「信州号」の世話になる。 16時ではなく14時と発車の時間が迫まっていた。外で慌しく着替え食事を抜き.酒を買い求め車中の人になる。 1匹のイナゴ 低公害車のシャトルバスに1匹のイナゴがいた。Oの手の内にイナゴが握られていた。 たった1匹のイナゴが私の手元にいる。長い足を折り立派な顔だちのイナゴだった。 昔よく越谷や春日部の田園へ親子でイナゴ捕りに行った覚えがある。軽く煮付けると美味い素朴な味だった。 幼い子供達も喜んでよく食べていた。 イナゴは沢渡で車中に迷い込んだようだ。復路もその1匹が跳ね回っていた。 最後列に座っている子供に「要るか!」と尋ねると体を硬くした。私は手を離し.イナゴは再び車中に舞い上がる。 帰るには早い時刻.「信州号」の大型バスは21名とガラガラだった。出掛けと同じ最後部2列の座席を独占する。 ただ夏休み最後の日曜日.大月付近で渋滞に巻き込まれ帰京はやや遅れ気味になった。 回想 今だ登っていなかった奥穂高岳。再度の挑戦で縦断できた大切戸。何度となく穂高岳は訪れてきたが.39年前の夏合宿で完全完走できなかった 縦走が実を結ぶことができた。北アルプスでは後は鷲羽岳が残るのみ。3度の機会があり.2度は目指しての山行だったが. 今回も大荒れで狂い回せざる得なかった。何時か登らなくてば。 荒れる障害を乗り越え同期3名で成し遂げた荒れた山行に.今は懐かしくもあり.充実した山行となっている。 1/5万ノ地図.赤線の踏み跡は剣岳から内蔵助ノ平を抜け明神主稜まで結ばれた。 和田からのメール 下山して数日後.同期Wよりメールあり.「バテた写真がない!」と。 撮らなかった仲間であり.又バテて撮れなかった仲間でもある。カメラは全員が持参し.チャンスは誰にもあった筈。 新島々駅 「島々駅」は学生当時.松本電気鉄道上高地線の終着駅であり.上高地方面のバスターミナルが設置されていた。 しかし観光ブームに乗り.ターミナルとして用地不足の為.1985年(s60年)01月に手前「赤松駅」へ移動し駅名も「新島々」と改称する。 その後台風による土砂災害で新島々〜島々間が不通となり.そのまま復旧されることなくこの区間は廃止.廃線。 それれに伴い昔は通い続けてた「島々駅」も廃止された。上高地.上高地線 高層天気図 8月29日9時.30日9時.31日9時1日9時.2日9時 降雨から豪雨へ.槍沢.槍沢ロッジ―天狗池と小屋 キレットを越え濃霧と穂高岳山群―疑似荒天の穂高岳山荘と岳沢・・頭上から落ちてきた上高地の野猿・1匹のイナゴ 山の経歴.経過Top |