| 吾妻.家形ヒュッテとRHC 第1回.春期スキー合宿 五色.板谷周辺その後 昔の面影を残す五色温泉「宗川旅館」と信夫高湯「ひげノ湯」 信夫高湯「ひげノ湯」とjr板谷駅 五色温泉「宗川旅館」・・学生時代の古の宿・朝解散と会津大内宿 北側の館 北側の館と繋ぐ渡り廊下.その下が昔の玄関口.7:17館の外見は昭和40年代と全く変わらず 以前の玄関への石階段・・右側の窪地は吹き溜まりになる雪埋まる。旧玄関を抜けた山側が新玄関 L字東側の館 手前の坂上が旧玄関.17:58形は変わらぬ昔の玄関口.7:19 北側奥の館 6:41中央の白い板と茶色の棒は登山道口の道標 玄関口前を右に折れ回り込むと高倉山コースへ 宗川旅館 北側の館と東側の館を繋ぐ角の渡り廊下を潜れば昔の玄関にでる。今はその裏側の南面に新しい玄関口が造られていた。 右手の北側の館奥の館. 2階に繋がる5部屋が昔何年もお世話になった部屋. 館の形は変わらぬものの全館が綺麗に改築され工夫されていた。 冬期は裏側1階は雪に埋まり.当時は2階を使用している。 写真中央右の棒は道標で「途中で高倉山の分岐を過ぎ.右が四郎右エ門沢新道,左が青木小屋コース」とある。 又左上の白い四角いトタンには赤字で「五色〜家形山.米沢市@」とある昔の道標。館の裏側を巻き込み登っている。 当時は丸い道標が壁に付けられていた。この高倉山コースは現在藪化している。 道標の分岐手前のコースは積雪期になれば直滑降しか使えぬ弾丸滑降コースだった。分岐手前の高倉山への尾根伝いが立教ルート。 強風に雪は飛ばされる壺足のルート。賽ノ河原からシールで高倉山に立つルートを慶応ルートと呼んでいた。 弾丸コースを直上すれば緑樹山荘から家形ヒュッテへ.賽ノ河原を横断するルートが広がる。 旧玄関口から外を見下ろす 7:14上は北館と東館を繋ぐ昔の渡り廊下 昔は右上が玄関 玄関口から渡り廊下を潜り左に折れ.石階段を数段登れば左手が旧玄関になる。今は塞がれてをり.裏戸が設けられていた。 昔の裏口が今の玄関. 旧玄関からの北側の奥館の概念・・春合宿T.1966.02. 男女別.境を取った昔の岩風呂 7:28初代小林先輩と私.右の写真は滝島先輩 風呂 風呂場は男女別に外湯に内湯があり.男女交互に使用するようなっていた。 昨日は入った内湯は北側の岩風呂で昔と比べるとズーと大きく.同じように造られていたが何か違和感があった。 早朝は雨.露天風呂を諦め.前日の隣りの岩風呂に浸かり納得した。 以前は大きな館の割に.この岩風呂の半分の大きさ.それと家庭用のタイル張りの内風呂があった。上手く造られている。 湯舟中央の窪みは壁をなし.男女2つの湯舟は壁で隔てられていたが.今は1つの湯殿に変わっている。昔から湯舟下は繋がっていた。 ツァーの後,飛び込んだ湯舟は狭く.人ダンゴで浸かる薄暗い温い岩風呂だった。一度浸かると暖かくなるまでジッと我慢せなば出らねぬ湯。 倍の大きさに変わっている。昨日の湯殿は新たに北側に並んで造られた岩風呂になる。 新たに熱い源泉を掘り当て.ゲレンデ脇に露天風呂が造られていた。その湯が内湯にも繋がれているようだ。 昨夜.宴会後に同期鈴木と露天風呂に出向いたが浸かって直ぐ真暗闇に.9時15分消燈とのこと。 その上雨雲が垂れ込み,周りを更に暗くした。湯舟の湯気しかしか分からなくなる。そこに丁度後輩西沢がエレキを照らし時計を忘れたと現れる。 ホッとする私達と驚く彼の顔があった。結局湯殿に浸かるも小論はない。以前.沢下に露天風呂があったらしい。 泉質はナトリウム・カルシウム-炭酸水素塩・塩化物温泉.泉色は無色透明. 昔は少し鉄分のある赤味かかった透明の湯だったと思う。子宝の湯. ・・初めて訪れた湯殿(1966年02月24日記) 南側の高台に造られた新しい玄関側 17.8年前に改築されたと云う.9:15背の尾根は高倉山から延びている。手前が東側の館と倉.奥は北側に並行して2つの館があった。 宿の主人 昔宿の主人,源チャンの子供が好奇心強く.よく我々の部屋に覗き込みにきた。「お出で!」と呼ぶと逃げるよう駆け降りていた。 その子が今の主人.でっぷりとして貫録がある。 話が少し絡まなかったが昭和38年に小学校に入り.山を下りていると云う。私は初めて宿を訪れたのが昭和41年の2月下旬〜 3月上旬に掛けて.春休みで両親と一緒に宿に登ってきた時と思われる。奥さんが宿を切り回していた。カカー殿下の時代だった。 現役最後の納会で衣類を着た間々.2度後輩に風呂へ投げ込まれている。最後の1着,逃げ込まなければと家族の部屋に逃げ込んでいた。 又何かに理由を付けては汁粉を御馳走になっていた。世話を掛け.山を下りた想いが幾度となく想い出されている。 ゲレンデ中.上部 右手が駐車場.9:06奥に茂み手前にリフトが.今はその姿もない。 遠方は前川を隔てた鉢森山 ゲレンデ下部.駐車場.7:17この辺はゲレンデの下部,茂みのジャングルで.jr板谷駅へ下りるには電灯線伝いの急斜面を下る小径があった。 初めの頃は駅へのスキー滑走は残雪が削られ.ガリー状のの斜面を奇声を上げキックターンし滑り降りている。 30年ほど前に前川を渡る吊橋が自然崩壊し.それ以来この小径も通う人もなく廃道化していた。 又左手下にある滑川へ綴られていた小径は新たに林道として築かれた。工事用車両のみ通過可能とのこと。周りは国有林. 五色温泉OB親睦会 前回は台風の影響で中止になりましたが五色温泉のリベンジを計画しております。やはりスキー合宿の原点である五色での一杯は 格別の思いが詰まっておりますので.工藤氏(44年卒)を中心にダンドリを組んでいます。 青春を回想しつつ.先輩.同輩.後輩と年代を超えて「RHC」という形で集い会えるのは大いに意義があると確信していますので. 体調を整えて大勢の方の参加を心よりお待ちしています。・・OB会会長見城(41年卒) 大広間 宴会・・初代会長.小林氏挨拶.6日18:00ここ五色で第一回の春合宿が昭和36年02月に行われてから56年02月まで.実に21年間行われていた。 技術の低下と部員不足.諸事情で五色山行が途切れてしまい.誠に残念だが今日はこの大広間に年代を越え五色を懐かしむOB.OGが大勢集う。 初代の方々も参加して頂き.特に数日後入院なされる小林氏に.挨拶で五色を選んだ経緯をこの場で語って頂いた。 又初年度は素泊まり¥120.布団付き¥150と語る。私が交渉した6年後は布団付き¥300.外泊(雪洞.家形ヒュッテ)¥200だった。 その後.総合力の衰えから家形ヒュッテ泊りは緑樹山荘に変わっている。 ![]() 昔春期ツァー合宿の納会を催した広間.そのままの姿だと聞かされた。 当時は合宿最後でもあり.納会で現役を退く4年生達を送る会も催されていた。年度の終わり毎に行われてる。 その都度.米沢の銘酒「東光」が上棚に何本も並び.延々と明け方まで呑み干している。ベタベタする甘い酒だった。 クラブの縮図だった納会 ツァー合宿の全ての行程を終えると一年間の締め繰りとして.この大広間で納会が行われ. 又OBになる4年生の送別会が催された。OBの方々も駆けつけて頂き.盛大に行われている。 一年の時はボッカ隊となり板谷駅を往復し.家形山の登りでは歩むツァーの歓びを学んでいる。 又国鉄の学割が5割から3割になり.入山した時と料金が高くなり文句言ったこともある。当時は山に入るとよく旅客機が落ちていた。 二年生になると東大嶺への縦走が待っていた。我儘に山を登り始めた時代だった。 家形ヒュッテの修理が始まり.三年になり主将に就く。女子も修理に加わっている。初めてのこと女性軍を如何に家形ヒュッテに 登らせるかが問題だった。四年になった学生生活最後の納会はシンシンと雪降る中だった。この時ばかりは答辞で涙を留めている。 下山の朝,初めて知った宿からの贈り物「蛍の光」の曲がゲレンデ一杯に流され.この時ほど感激したことはなかった。 今まで3回聞くも気にもしていなかったが学生最後になり.宿からの感謝の気持ちも吹き込まれ.感動させられていた。 仲間達を見送り.最後にボッカの急斜面を降りている。転ばず板谷まで滑降できたのも初めてだと想う。 二次会.22:12 ゴルフ仲間年代を越え語り合う仲間達 朝方玄関前で解散.7日9:19改めて想う五色温泉「宗川旅館」 46年振りにここ五色を訪れた。宗川旅館は大改修され部分的に見取図の変更もあるが館の外形は殆ど変っていなかった。 玄関が昔の反対側に変えられたのには驚かされたが見ると聞くとは想像せぬほど使い易い玄関になっていた。 内装も改めて綺麗に化粧されている。ただ廊下に足を踏み込み.少し歩き回ると昔のままの姿の館があった。 回想は現実のものとして臨まれた。館全体を歩き回った訳ではないが昔を想う匂いがする。 外部では六華倶楽部が解体し福島市内に移築され.日本初の民間.五色温泉スキー場は閉鎖されていた。 リフト類も外され,ゲレンデの端は露天風呂と広い駐車場に変わっている。 それでも全体像は昔の地形と合わせると全てが合致し.ゲレンデ上部から滑り降りたコースが蘇りみ望まれた。 山側の部屋.窓から見下ろすゲレンデも.前川を隔て大きな雪庇を創る鉢森山の山並も.変わらぬ風景として望まれた。 そして懐かしさと共に昔に戻された気を起こさせていた。スキー場のリフトは国土地理院1/5万の地形図に今日現在まだ記載されている。 会津西街道から甲子道路へ・・会津若松から大内宿を経て.甲子温泉回り若葉へ 9月07日.夜半雨.晴後曇 五色温泉9:25=10:00福島飯坂IC.¥1800=10:54磐梯山PA.ガソリン=11:12会津若松IC=12:00大内宿p¥300. :50 =塔のへり入口「五晃苑」.昼食天皿13:50=14:00甲子隧道=14:27白河IC=14:55矢板PA=15:50羽生栗橋IC =行田=16:43荒川=17:20若葉:331=18:17池袋. 下郷町大内宿 会津西街道.12:15鶴ケ城から大内宿へ 夜半降りだした雨は朝方上がり.帰路は池田先輩が便乗.5人で会津若松から下郷町大内宿に寄り.帰京する。 往路を下り福島飯坂ICから高速道に入り.郡山経由で猪苗代湖の北岸を回り込んで会津若松ICにでた。 傑作なのは会津街道を南下するも鶴ケ城は分からなかった。5人10の目で車窓から外を見詰めているも.あった道路標識も分からなくなる。 結果はマー言いかと. 国道121号.会津西街道を阿賀野川(大川)下流から左岸沿いに芦ノ牧温泉を抜けている。 会津西街道は関東側からの呼称.会津側からは下野街道(しもつけ).あるいは南山通り( みなみや)と称する。 左下に大川ダム.若郷湖を見下ろし.右手の小野岳1583.4mの東裾沿いに南下すると小野川が左岸に入り込む。その出合手前が県道329号の分岐. 大内宿入口を右折し左岸を横断し遡れば県道131号.(下野街道.旧会津西街道)に合流する。 その北側が大内宿本陣跡.近年観光で賑わう大内宿にでた。大内宿を左に分け北上すれば会津若松.逆に南下れば中山峠から日光街道にでる。 観光客はここに来て急に多くなった。又陽は真夏の陽気の戻り.木蔭もなく暑く早々に退散した。 阿賀野川右岸は西会津若松駅からの会津鉄道会津線が走り.大内宿には温野上温泉駅下車.車10分 鉄道は更に黒岩鉄道.会津高原尾瀬口駅=東武鉄道.新藤原駅=jr栗橋駅へと接続している。 東京から車の場合は白河ICで降り.甲子道路に入るとよい。我々も那須連峰を東へ横切っている。 那須連峰を潜る 再び国道121号に戻り.「五晃苑」で昼食.天皿。会津鉄道線.会津下郷駅手前のT字信号で国道を分け.左折して甲子道路(かし). R289号に入る。阿賀川.旭橋を渡り.観音川を遡ると那須連峰西麓は下郷町に掛かる長閑な起伏の丘陵が続いている。 車の往来は殆どなくなり.贅沢な国道が延々と造られていた。政治道路と呟く中.深い谷間に入る所で甲子峠への旧道を左に分け. 甲子トンネルを潜っている。そして甲子山1549mの北側鞍部との間を抜けると.谷間は阿武隈川にでた。 この北側にある甲子温泉は1972年11月.この河原で見城先輩と野宿し白水沢左俣を遡行している。 滝の規模より一日中.日陰に覆われた陰惨な寒さを強く感じる谷だった。 続く安心坂隧道から幾つもの隧道を潜り新甲子から更に西面に比べ緩やかになった那須連峰東麓の牧歌的な高原を下っている。 街並に入り東北高速道を横切って.国道4号.陸羽街道を右折すれば直ぐ白河ICが現れた。 白河ICからは高速道を羽生ICにでて.下の道を使い再び往路から東上線若葉へ戻っている。 途中羽生では広大な田園の中を走り.荒川の県境からは飯能の山を前衛とする秩父の山並が以外にはっきり望まれていた。 若草駅で解散したのが17時20分.道は空いていた割に以外と時間を費やしていた。鶴ケ城が何処にあるのか分からぬ間々.通り過ぎている。 過ぎれば如何でもよいと頷く仲間達。 10月に再び挑もうとした鳥海山山行は一度豪雨で中断した山行だが.改め問うと巻機山も再び浮上した。 山を決めてもらえば私は次回は何処でも良かった。ただ早めに決めて欲しい。良いコースを組むにも時間が掛かるとお願いした。 南会津への鉄道.街道経緯 信夫高湯「ひげノ湯」とjr板谷駅 五色温泉「宗川旅館」・・学生時代の古の宿・会津若松から甲子温泉を経て |