| 尾瀬ヶ原地形図山 . . 初秋の尾瀬ケ原.裏燧林道へ 日崎峠越を断念・・利根側から会津へ 闇のアヤメ平から長閑な尾瀬の原野を歩む 会津の国 朝霧に湧く尾瀬湿原 . |
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| 日崎峠越えを断念.秋の尾瀬を散策する. s44年(1969年)09月27〜29日.m田沼栄一.松村進 私の隣りを歩いている彼.こと田沼とは数年振りの山行だった。長年.毎日のように付き合っていながら.マタと二人だけで山に入るのは初めてかも知れない。 晩春から企画していた日崎峠越えを二人でする予定でいたが.鳩待峠にでて逆方向に歩みだす。 富士見峠〜鳩待峠〜尾瀬ヶ原〜燧裏林道.会津へ 7日.上野19:12=22:30沼田東武バス23:00=0:12富士見下硫黄沢.
山ノ鼻へ 9月28日快晴. 硫黄沢0:12一2:45富士見峠3:00一5:00鳩待峠一5:45山ノ鼻. 闇径 沼田では傘を差していたおぼろ月も濃い雲に被われ.峠へ至る林道は闇夜に深くうずくまるよう綴られていた。 僕は肉眼で漸く見止められるか否かの暗い明暗を頼りに足を運ぶ。 道標さえ読め難く.見付けたと思うも暗くて文字さえ読めない。エレキは出さなかった。 道標ありて間違いなしと気を良くし進むのみ。久し振りに会ったせか会話は弾んでいる。 世間話から仲間.クラブ.山の話と話題は尽きず.山へ入る喜びが一層.口元を解したのかも知れない。 鳩待峠へ 富士見下.山荘裏から林道に抜け蛇行した山径は何時しか山懐深く入って行く。 僕等以外.人っこ一人居ない山径は周りを森閑とさせた静寂さで満ちている。足を差しだす山靴の音だけが響いていた。 そして大きな影が僕等に被さるよう塞ぐと傾斜は落ち峠になる。大きく映る影は富士見小屋だった。 冷たい水に喉を潤す程もなく.彼の妹さんが差入れてくれたサンドイッチを食べる。 美味しいあまり二食分の小さな小箱は見る間に空になる。 木道 この峠から尾瀬径になる。太い丸太を2つに割った尾瀬特有の木道が四方に延び尾瀬を囲んでいる。 5分程登った所で富士見平の湿原にでる。 右へ竜宮の径を分け.暗い湿原は畔道を歩いているようだった。 霧舞う姿は暗いホワイトブルーの世界を漂わせ.闇の陰気な影を落して視界は悪い。 木道だけが何処かビビたる光を集め.白く浮き出されて見えている そして白い木道は2本.時には1本となり.幾らか乳白色に色ぞられた山霧に吸いこまれて行く。 僕等はこの単調な木道を登り降りした。時計の針は夜中の3時半を回っていた。 闇の富士見下から夜明けの鳩待峠 |
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| アヤメ平 樹林を抜けると再び湿原にでる。よく見ると標識が2.3本立てられていた。 その1つに近ずき顔を寄せ付けて見たら.「高山植物を大切に」と読み取れた。 アヤメ平かも知れない。冷え込む体を気にし早々に素通りした。 尾瀬.日光の山々.赤城と昼間は眺望を楽しませるてくれる筈の稜線も.これでは闇の一陣でしかなかった。 それでも単調そのものの木道に小さな変化を見出している。 古い腐り掛けた丸太や真新しい.そして太い或いは細い丸太が1本.時には3本も組になって幻じみた稜線を綴っていた。 2度目の標識は〇田代と読み取れた。頭の字は分からないが横田代(中ノ原)だろう。 そうすると先程の標識の所がアヤメ平になる。 鳩待峠へ? 樹海に踏み込むとビビたる明かりも全く閉ざされた。 暗い闇の中.眠気に慣れるも.一睡もしない体は次第に眠気を起こさせていた。 途切れ途切れになった木道は歩き難し.泥炭の土壌に踏み込むと靴は尚更体を重くした。 僕等は闇の径を右寄りに下り始め山ノ鼻までの1本径と思っていた。それが鳩待峠に誘い込まれている。 気が付いたが遅し,ライターの明りを頼りに地図を覗き込む。やはり間違っているようだ。大きく迂回したことになる。 木の根に腰を降ろし.空を仰ぐと何時の間に鏡のような煌くお月さまが昇っている。 低い早い雲層が西方へ流れされて行く。それが途切れ途切れになり.その上に雲1つない青空が広がっていた。 天気予報とは裏腹に今日一日の晴天を約束しているようだった。もう夜は明けようとしている。 鳩待峠 山径をドンドン下ると灯が見え鳩待峠にでる。鳩待も稼いだとばかり.威勢よく降りたもののマイカー族にカッカリ。 今まで夜径を歩いて来た報いは落ち.一変に力が抜けた。休む気も起こらなくなる。 早速.逃れるよう川上川の右岸を径を尾瀬ヶ原に向かい歩みだす。 もう闇夜は明け方の明るさに押され.淡い白味を乗せた明るさが薄いベールとなり広がりだしていた。綴った鳩待峠U.V.W 富士見から一定のペースを保ち来たが視界が利き始め.そのハイペースに互い驚き見会っていた。 足元の視界はドンドン飛び去り.よく歩き続けた気がする。闇で分からなかったせいもあろう。 単調な木道を睡魔から逃れる為.足を踏み外さぬよう自然と少し足を早めていたのようだった。 朝日の山ノ鼻より温泉小屋 |
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尾瀬ヶ原 |
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| 5:45山ノ鼻一8:00大堀川沿い一9:45東電小屋10:00一10:40温泉小屋11:00. 尾瀬ヶ原.山ノ鼻 ナラの木の下でハムとミカンの慎ましい朝食を摂る。 熱いコーヒーを飲みたいと思うも.旅館のような山小屋は僕等を寄せ付けることさえしなかった。 無言の変更 尾瀬ヶ原中央に出たものの.彼は原っぱに何か未練があるようだった。 彼の目は尾瀬ヶ原と至仏山を何度か往復させている。 私も彼に習った。彼は初めての尾瀬である。木道にでんと腰を降ろし.無動作に地図を広げだした。 私には言えぬが.彼の心は尾瀬の原に向いている。 今回の計画では至仏の北側を山越えし.狩小屋沢から樽俣川を抜けて洞元湖へと奥利根のルートを選んでいる。 練りに練った藪を越える山。平ヶ岳縦走から丸2年越しの日崎峠越えである。藪山平ヶ岳〜尾瀬沼 まず普通の人なら今の時期.誰も入らぬだろう。径はなく藪又藪がある。 日帰りでは深過ぎる山だ。それを知っている彼.マタの目は止まった間々でいる。 彼の足元には伸び伸びした秋の陽差しを受け.黄色に染まる草もみじの枯れた湿原が広がっている。 逆方向へ.本来の奥利根ではなく.西側から東へ尾瀬ヶ原へと.その先には会津の国がある。 彼は僕の返事を無言で待っていた。 会津へ 日崎越えを遂行したいのは山々だが水上とはととてつもない方向へ変更する。 山越えの厳しさは無くなった。散策の径を歩む。 富士見より山ノ鼻.更に尾瀬ヶ原へと大きく迂回することになる。 ただ平凡な径でも尾瀬を横断するとなると同じような時間を費やす。やはり夜行帰りとなろう。 先のことは道中考えることにし.広い湿原へと足先を向け返す。 尾瀬ヶ原 初秋の尾瀬はもう既に葉を染め初めている。 根元の緑とは対照的に葉ずえは黄葉ずき.原一面に棚引かせている。 差し始めた陽差しは一層秋特有の清澄な山気に吸われ.陽は尾瀬ケ原をさんさんと照り付けてきた。 原を囲む樹海の緑の装いも,点々と黄葉が萌え.ナナカマドの赤味は更に気を惹き付けていた。 澄み切った空気が山々を清め.見上げる蒼空は深い。 変わり行く池塘.湿原に木道はゆっくりとうねっている。 グーンとペースを落とし山々を見詰め.草木に秋を酔い.青空を仰ぎ.蟻を観察するように暫し腰を降ろした。 そして至仏山から離れれば離れる程.尾瀬の原は広がって行く。 ザックを開けると大福がある。美味しいので口に運ぶ内.包みの中は空になった。 田沼は口にほうばりながら「8時だ!」「仕事の始まる時間だな!」と言って.又大福をほうばった。 竜宮手前で尾瀬ヶ原を横切り北にでる。 会津.上州を境える沼尻沿いに白樺林が真直ぐ伸び美人に見えた。 尾瀬.沼尻付近見晴 台地に建てられた東電小屋は吊橋を渡って直ぐだった。 山径に変わった径は只見川を渡り再び尾瀬ヶ原にでる。 ススキを抜けた林道は一層秋を深め.北側のせいか黄葉が目に付く。 ここは尾瀬ヶ原の東北沿いの末端で南側に湿原が広く広がっていた。 原っぱは田園のようにも眺められ.見晴は部落のよう家屋が建つ。 部落は燧岳の西裾野の湿原と森林帯の境に広がっている。 歩む木道の正面に燧岳がそそり立つもここでは遠くから望むような凛々しい偉容な山容はなく.丸びを帯びた穏健な山容で仰がれる。 裾野は原っぱと平行してブナの森林が走り.その一線を持って喬木帯の藪が大地を占めるようなる。 藪山は紅葉.黄葉.緑葉と斑に絡み合い.染められた大地の天空は蒼く澄む秋晴を歌っていた。 s42年10月(1967年)の見晴キャンプ 燧裏林道概略図 s47年05月.燧ヶ岳.会津駒ツァー温泉小屋 温泉小屋ここも大きな旅館の集落だった。 真新しい赤や青のトタン屋根が温泉小屋を被い.昔の素朴な山小屋の風情は消え伏せている。 ここに限らず尾瀬は何処もホテルのような立派な小屋が立ち並び.古風な家造りは既に失われている。 寂しい気はするものの入山人口が膨れ上がるにつれ.それに合った現代調の小屋が出現するのは仕方ないかも知れない。 10:40温泉小屋11:00一13:30御池. 温泉小屋から白樺林のジグザグを登ると渋沢温泉へ下る径と合わさる。 ここはブナの広葉樹林に被われ.尾瀬ヶ原のような賑やかさはない。 ぬかるんだ山径は燧ヶ岳の裏側の山腹を突っ切り.行き通う人は山小屋へのボッカ人しか居なかった。 ![]() 地図に描かれたゴーロ状の渋沢を斜め上に横切り.出戸深沢を越すとブナの原生林が木道を包むよう広がった。 もう焦って汗を掻くこともなくなった。今日中に帰京できないと知ると時間に余裕ができた。 知らずしてツガの森に変わりだした湿原に入る。この辺では湿原を田代と呼ぶそうだ。 紅葉で華やかさを増した燧ケ岳の懐は静けさを保ち.通うハイカーも疎ら。ここから燧ヶ岳を見上げても双耳峰の鋭さはなかった。 綺麗に装いを凝らした丸山が2つ盛り上がっている。ここではナナカマドの赤褐色の紅葉が目立ち始めていた。 溢れる秋の陽を浴びる燧裏林道 ![]() 中田代から燧ヶ岳を振り返る燧裏林道 再びツガの林を抜けると細長い西田代に繋がる林道に入る。時の流れを積み重ねた田代が形を変え次々と現われた。 裏燧林道は秘境と呼ばれるだけあって.僕等と擦れ違うハイカーは全くいなくなった。遠いい桧枝岐の奥の庭. 昼間でも2人の足音だけが木道に響き.藪山から抜け出した小平地を見付けたような閑散とした田代が続く。 又池塘を覗き込むと泳ぐ魚がいて驚かされていた。 ![]() カメラを片手に右へ回り込めば燧ケ岳から延びる裾野は這うような形を取る横田代が広がっている。 高峰の燧ケ岳からはかなりの傾斜を持ち落ちた麓は明るい田代から望む山々に変わり, 東北らしい渋い湿原に変わり.会津に入ると周りを囲む尾根筋は藪山らしさが渋く滲みでるような感じを受けるようなった。 上田代.紅葉のヒツジクサ |
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| 田代が続く 横田代下部を直角に折れ.下り始めると燧ケ岳に変わって.対岸に大杉岳の大きな山容が現われるようなった。 左へ穏やかに落ちる大きな湿原は上田代だった。 彼は「最後のファンファーレに相応しい所だ!」と言葉を濁し先頭に立ち歩いて行く。 ![]() 燧北面で最も大きな上田代を横切ると今までとは打って変わって藪山が広がった。 根曲がりの根っ子が絡み.ぬかる径は眺望0の藪の中に入る。 15分程で左前方抜ける樹間を抜けると最後の湿原.御池田代が現れた。 木道の途切れたブナ林の泥径も終わりを告げ,広い林道を5分も下るとポツンとバス停にでた。 午後早めに着くもまだ先は長かった。利根川流域の藤原とは異なり.これから会津の国を抜けねばならなかった。 山とは別の好奇と未知の裾野へ。この先は登山の流域ではないが車で望む会津の領域がアプローチとして迫り待っている。 会津の国 ![]() 裏燧林道御池 御池の田代はブナの原生林を背に囲み.広い湿原を抱き現れた。 御池で食事を摂ろうと食堂を思うも国民宿舎と会津バスのバス停を示すスタンドがあるだけの何もない.下山口として寂しい所だった。 何度,時刻表を読み返しても今日中に東京に帰れそうもなかった。 ガックリと空腹感が重なり2人のザックの中を漁る。残りのハムと1人3口程の結び赤飯1つがあるだけだった。 2人の食料はこれだけで更に4時間ばかり.会津の里にでるまで我慢せねばならなかった。 停留所前はヘリコプターが上空を舞っている。隣りの言葉が届かぬほどの爆音を轟かさせ.空気を割り爆風を浴びせている。 新しく木道を造る為か.一本々吊り上げては飛んで行く。そして数分で引き返しては突風の如くトンボ返しを繰り返していた。 会津の里 13:30御池.会津バス14:30=七入.沼田街道=桧枝岐=会津山口=18:05会津田島.会津滝原線(会津鉄道会津線)19:12 =20:40会津若松.磐越西線21:16=22:52郡山.東北本線0:40=4:44上野. 南会津への鉄道.街道経緯 1922年(t11年).今市=会津田島間が鉄道敷設法による敷設予定路線となる。 1964年(s39年)05月.バス路線が沼田街道・・会津山口〜七入間新設される。会津バス 1965年(s39年).会津山口=尾瀬御池間・・バス路線が新設される。6/1〜10/15 1966年(s41年)05月.日本鉄道建設公団工事として着工。 1969年(s44年)09月.尾瀬,裏燧林道,御池よりバスで山口経由,会津田島.会.滝原線=会津若松.磐越西線=郡山.東北本線で上野 1971年(s46年)10月.東武浅草=鬼怒川温泉バス=川治白タク.会津田代山馬坂沢遡行。下山は湯西川温泉.豪雨で通行止のバスを待つ。 1973年(s48年)05月.燧ヶ岳と会津駒ヶ岳ツァー.入山は沼田街道大清水.下山は迎い車でキリンテより帰京。 1975年(s50年)05月.六十里越から沼田街道に入り会津大杉岳スキー.帰路残雪多い安ヶ森林道に苦戦し湯西川温泉に抜ける。 1981年(s58年)11月.野岩鉄道株式会社設立。 建設が進んでいた藤原=会津滝ノ原間が国鉄再建法の施行により工事が凍結され.同線の引き受け運営のため設立される。 野岩の社名は栃木県の旧国名「下野国」の「野」と福島県会津地方を含む範囲の旧国名である「岩代国」の「岩」からきている。 1982年(s57年)01月.工事再開 1985年に線路名は「会津鬼怒川線」と決定 1986年(s61年)10月.会津鬼怒川線開業.東武鉄道快速列車を会津高原駅(会津高原尾瀬口)まで延長.直通運転開始。 1990年10月,会津高原=会津田島間電化に伴い.東武鉄道運転区間を田島まで拡大する。 浅草=(東武伊勢崎線=日光線=鬼怒川線=野岩鉄道会津鬼怒川線)=会津高原尾瀬口=会津内川.快速3時間半. 2004年10月.JR東日本と東武が栗橋で接続線を発表.東武鬼怒川線沿線の再開発を望む。 2004年10月.宇都宮より日塩もみじライン=上三衣.会津西街道=奥鬼怒林道=金精峠=赤城川下降.伊勢崎ICへ.マイカー 2005年10月.車で宇都宮より塩原経由.湯の花温泉へ。田代.帝釈山を登り.下りは田代山林道.湯西川林道へ抜ける。 2006年03月.東武栗橋駅構内にJR宇都宮線との連絡線を設置.特急列車のJR直通運転を開始。JR新宿より直通運転となる。 JR新宿=東武日光,JR新宿=鬼怒川温泉間,相互乗り入れ。後にJRは横浜からも運行 2007年10月.東武浅草発.快速会津田島行に乗車。鬼怒川温泉より鬼怒沼山へ.下山は沼田街道大清水へでる。 2008年08月.飯豊連峰の迎え車で北会津川入より磐越西線山都から喜多方.高田を抜け.会津西街道を田島.山王峠を越え塩原へ。 会津を.縦断し.最後は西那須野・塩原ICに乗りJR鴻巣で解散した。飯豊山石転び沢 2009年07月.同期会山行.1人夜行バスで浦和ICから西那須塩原IC.会津西街道よりR352へ。滝沢橋登山口より会津駒ヶ岳 桧枝岐現地集合.翌日に尾瀬沼周遊。帰路は沼山峠休憩所=会津御池間はシャトロバス.御池より迎い車で塩原経由宇都宮 2014年09月.OB五色温泉親睦会, 羽生ICから高湯「ひげの湯」.JR板谷駅.五色温泉「宗川旅館」で宴会 郡山ICより会津西街道に入り下郷大内宿に寄り.甲子道路から那須連峰を横断.白河ICにでる。マイカー 只見線と奥只見.登山アプローチ経緯 御池=桧枝岐=山口=会津田島.会津滝原線=会津若松.磐越西線=郡山 始発の路線バス.乗客は僕等2人だけだった。初めて裏尾瀬に入り.会津田島に抜ける。 会津の風土に興味を持ち始め.川崎精雄著「雪山.藪山」で更に僕を惹き付けた山域である。 学生時代に何故か尋ねていなかった。 それが今.会津の土を踏んでいる。これから田島までアプローチとして4時間の旅が待っていた。 バスは川幅の狭まった桧枝岐川沿いの新しいジャリ道を下って行く。 歩かなくとも目だけは肥やそうと.大きな目を車窓の外に向けていた。 だが丸32時間一睡もせず.少しアルコールの入っている体にバスはよい揺り篭になる。 桧枝岐までは如何に頑張る力も.瞼の重さには勝てず.一度つぶってしまうとなかなか開かなかった。 とうとう南会津.最奥にある桧枝岐村手前で眠り込む。 桧枝岐 桧枝岐は戸数160.人口1000人たらずの小村であるが古くから秘境の名が高く.様々な風習や特産物でその名が知られている。 村の中央を通る沼田街道は会津街道とも呼ばれ.群馬県沼田から会津へ抜ける要路。近年まで開発は遅れている。 七入から三平峠までが今でも山道で.三平峠より再び車道となり大清水からは乗合バスがでている。 鳩待峠.富士見峠への尾瀬への玄関口.戸倉を過ぎ鎌田を経由して上越線沼田まで運行されていた。 桧枝岐には会津田島から中山峠越え.駒止峠越えの三系統がある。前者は館岩川沿いに峠を越え内川で, 後者は阿賀川沿いに越えて山口で沼田街道に入り.共に乗り換えることになる。そして桧枝岐到着は始発バスで昼近くなる。 2009年07月の桧枝岐と御池 会津山口 伊南川に入り騒がしさで起こされると車は会津山口の車庫に停まっていた。 車も人と同じ一本取るようだ。山口は賑やかで大きな町だった。昔.沼田街道の宿場町として栄えていた。 今は寂れたとは云え.会津奥地に点々と広がる村の中継地として支えられている。 ここ山口は路線バスで会津線田島まで更に2時間近くも奥にある。 素朴な町の家並みと人の良さと静かな長閑さを感じさせられる街。 川沿いに長く伸びる古い家屋と真新しい家が軒を並べ.古めかしい木目の家屋が軒を連ね僕を惹き付ける。 都会で今も残る大きな銭湯のようなカッチリした造りの家屋もあった。 発車の時刻がきた。途中から乗ったハイカーが発車時間が過ぎたと独り言のよう語っていた。 運転手は居ず.車掌はそのことが耳に入ったらしく困った表情をしていた。 その間もなく.車庫前にある20台程しかないパチンコ屋から運転手が飛び出してきた。 顔色を見るにそれ程で変化はない。常連のようた。今日の勝ちは?分からないが。 |
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御池田代 |
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| 車窓 南北に細長い町並は直ぐ田園に変わり.田圃は黄金の穂を棚引かしている。 路線バスは駒止峠を遡り.沢沿いを登って行く。谷間と呼ぶより山間の窪地と云えそうな緩い長い坂。 道筋には稲の干し柱が組まれ.既に稲刈りの始まっている所も多い。 駒止峠に差し掛かると急坂のつづらとなり.車内に流れる相撲放送はよほど注意していないと聞き取れなくなる。 雑音が甚だしく.ワーと言う歓声に行司が立ち.一層激しくなった拍手で勝負がついたと思うのみ。 どちらが勝ったのか? よく聞き取れぬ力士の名.暫しラジオの声は割れる音がした。 男性車掌の優しい声と共にバスは再びつづら折りでうねり始める。 急カーブのジグザグが続き曲がる都度.車は停まってしまいそうな程スピードを落とす。 二度ばかり大型トラックと擦れ違った。その折は停まり停まりの運転で交差した。 睡魔 山間.谷間と変わる車窓に視野が広がる。 澄み切った山気は会津の藪山を些細に見せ.秋色とりどりの雑木林が美しい。 私は知っている限りの山を浮べてみたが.何処の山も確信を持ち答えることはできなかった。 そして幾度か山間を縫い睡魔に襲われる。もう山も畑も夢の中に。 彼に揺り起こさせた終点.会津田島駅に着いた時.外はすっかり暗くなっていた。 闇に包まれた駅前は広場のような大道りが走っている。 御池→桧枝岐川)=桧枝岐=内川(→伊南川)=会津山口小屋川←駒止峠→檜沢川)=会津田島 山口.田島付近を除き全ての道は未舗装.裸土の道である。会津の山々Top 車窓 帰路も夜行となる。夜旅になった列車は会津線に沿った大川ラインを下る。 視界は闇の中.猪苗代瑚々畔沿いに走る磐越西線は層雲に覆われているようだった。真っ暗闇で湖畔も臨めずにいる。 列車は暗い夜道を磐梯.那須と回り込み.ただ一筋に板東平野へと向かっていた。 それがあってか? 郡山に入り層雲を切って.昨日と同様に月は明るく美しい夜空を造りだしていた。 小さく霞んだ星に月が煌き飾る。 月の光がウロコ雲に反射し.雲の切れた暗い青空を冴え渡らさし始めていた。 もう空は冬の装いを一層早めている。 彼 彼こと田沼は私と同期で高校時代に早くも柔道二段を取り.がっちりした体はマタヤンの愛称で親しまれている。 一年の初冬に入部した彼は.まだ入部して土を踏んだ事がない奴だ。などと云われていた。 ヘミニシトでありロマンチストの彼は.彼の甘えも控え目に出るのが面白い。今はもうすっかり山に惹かれしまっている。 先々と続く春の連休はビッシリ山に組込まれ.仕事との両刀を計っている。 今回の山行も彼のこう云う性質上.互いに言葉を交わせずして,何を言おうか分かる間柄だからこそ,計画の変更ができた。 水上とはとてつもない方向.会津を抜ける事にした。 他の者とでは如何に厳しくとも念願のコースに踏み込んだ筈である。 それが燧の裏.会津まで.この下山も会津若松まで延々と続いていた。下山してからが又遠くかった。 これからは気侭な山行自体が一つの新しい登り方に成るかも知らない。s44.10.06 山の経歴.経過Top |