山径…諸感T 雪の低山,敗退とメザシ 初めてのザイル 憧れの南アと遭難救助 霧氷T,U 新人養成風景 初めての幕営 転倒とピッケル 洛陽・・・諸感 岩手神社 西陽と風呂造り 湯と下山,下山後バテる 山小屋の怪奇 風道T,U 雲堰T,U 夜明け・・・諸感 吾妻の宿T,U,V 初めての雪洞 春合宿1,食当 乾燥室と僕の部屋 軋む旭小屋 滑落1,U, 遠山川の軌道 8人天を妹と 眼前に現れた黒い壁T,U 入れぬ風呂T,U 遡行,4年の差 野宿の風 表層雪崩 冬富士と旋風 尻セードで富士下降 羽越本線の旅 稲妻の嵐 暴風雨T,U 鷹 藪山T,U,V 冬の森と湖 底雪崩T,U 月の輪熊T,U,V 夜間登山T,U 雪の王国 秋の日向を浴びる峠 ヒュッテ最後の修理 ホワイトアウトに遭遇 最後の現役,合宿を終え 魔法の防寒具 壊れたスキーツァー 峠の炭小屋 スキーでナイフエッジを切る 帳・・ 岳沢 野猿とダム工事 捨て身のビバーク マッチとライター 二人の乙女 平瀬の沢 ピッケル1本を持ち 山行を綴るトレース 共同風呂 山上で模型機を飛ばす 岳断念と侘しい上野 ビールを呑む為の登山 残雪の谷 雪の山寺,野宿 雪渓の残骸満ちる谷 ユーホーか? 親子,初めての山の湯 日光西街道の雑貨屋 時刻表の無い駅舎 子供と帰り道 明け方の八ケ岳 今日はピクニック ボートでの日没 大砂走と洗面器 山を下りての同窓会 35年振りの鹿塩 中秋の北陸道 中秋の日光周辺 山の湯 2度目のカルチャーショック 変わる南会津の山 妻と尾瀬 海抜0mへ 1枚のチラシ 送られてきた山岳書 日光澤温泉 叔父と写真家 夜半のゲリラ雷雨 我が家の番犬 清里・・ 2つの山岳書 明峯山岳会と山田氏 考査書と2つの山岳書 山と熊 藪山の本・・4冊 |
1963〜2012年, 2013年〜15年 国鉄笹子駅待合室 マチガ沢で迷い 大樺沢雪渓と実戦訓練 日光白根, 餓鬼岳bc 国鉄新宿駅ホーム 国師岳手前 空木岳雪上訓練 燕岳, 千丈岳馬ノ背, 平ノ避難小屋, 北関東道路 柳沢の集落 国見峠を越え荒湯で 奈良田バス停 木曽御嶽山中ノ小屋に潜む 国境稜線・・武能岳と仙ノ倉山 武能岳, 剣岳, 西黒尾根, 夏富士T,U,V, 外房勝浦沖, 岳と海原 五色温泉, 白布高湯, 信夫高湯 五色温泉ゲレンデ 宗川旅館 宗川旅館 立場川本谷と広河原沢の出合小屋 黒戸尾根ツメ, 長次郎雪渓 聖岳下山 行者小屋 妙高,胸突八丁, 那須大峰 鹿塩, 鹿島, マチガ沢東南稜 地獄谷本谷二俣 降雪続く西黒尾根 富士山アタック 9合7勺から5合目 遠いい鳥海山ツァー 前穂高北尾根 涸沢Bc, 大喰岳, 横尾本谷右俣 北岳八本歯にて 平ヶ岳〜至仏山, 守門岳, 足拍子本谷 トレースで綴る白駒池から亀甲池 角兵衛沢, 越後水無川, 阿弥陀岳南稜, 民宿「雲天」, 裏那須, ・・続,山と熊 常念岳, 長次郎雪渓 涸沢 木曾殿越の山荘屋根 家形ヒュッテの面影 東吾妻山浄土平 宗川旅館 餓鬼岳 難渋した栄太郎峠 越後十二峠 飯士山の稜 明神ヶ岳を終え 晩秋の高瀬川 吾妻惣八郎平T 惣八郎平U 降雨続く横尾生活 田代山馬坂沢 御殿場の大斜面 岩小屋沢岳の頂 白布高湯の村営風呂 双子山 鳴沢岳と正月の下町 春の至仏山 藪絡む足拍子川本谷 修験場弥勅寺 新緑の大源太山北沢 米子沢栂ノ沢出合b 美女谷温泉 壬生通り七っ石 例幣使街道,楡木駅 街並を縫い自宅へ 行者小屋の空 戦場ヶ原 中禅寺湖 夏富士御殿場口 新宿 阿智駒場へ,秋葉街道の旅 福光へ,先祖探索と白馬の旅 日光横断と会津,赤城 両神山の懐を綴る 八ヶ岳ボランテァ登山にて 会津の酒と帝釈山 尾瀬ヶ原散索 栂海新道 回想・・「岳人」より学生の秋 RHC学生時代 奥鬼怒川最奥の宿 三ツ峠山荘中村光吉氏 都会の夏嵐・・三筋にて 丹沢から帰宅して 駅舎と清泉寮 「山の遭難」と「静かな尾根歩き」 80周年記念誌「想いはるかに」 「頂に夢を求めて」,「ナンガ・パルバード単独行」,「単独無酸素登山とマスコミのあり方」 それぞれの熊・・三筋にて 「花の旅,湯の旅,縦横」,「甲斐の山山」,「中央線の山を歩く」,「バリエイションハイキング100コース」 |
雪の低山,敗退 笹子駅 新宿発,最終列車を雪舞う中央線笹子で下車。浅く潜る雪が駅前より続いていた。 闇が明けぬ間々,三ッ峠を裏山から抜けようと歩みだす。傾斜が増しラッセルは深まってきた。 おぼろな明るさが朝を伝えるも,前衛の山にすら届かなかった。山径は膝をも越し,先も定まらぬ雪面が続く。 漸く視界が広がり丘に出るも,乳白色の霞に包まれ,距離は捗っていなかった。 最初のコブにでた。何も見えず雪だけが舞っている。 「止めた!」と雪面に大の字になると,雪粉が顔まで飛んできた。 メザシ 国道に出てチェンを巻いたトラックと行き違う。大雪になっている。飛び込むよう笹子駅に戻った。 駅の待合室は中央に,朝方のダルマストーブが赤々と燃えていた。 着替えると僕はストーブの前に陣取り石炭を汲む。これから列車が来るまで僕が当番だ。 ヤカンをどかしタッシュからメザシを取り出した。1包み5匹のメザシ,その3匹をストーブの鉄板に乗せる。 小さなメザシが焦げるよう,もうもうと煙を吐き,香ばしい香りを漂わす。 充満した待合室, 僕は再び石炭を放り込み,そのメザシを仲間と口に運ぶ。 その後,メザシは山へ持参する絶対条件となった。 s38年12月,雪の三ッ峠T 初めてのザイル マチガ沢 旧道を遡るうち夜が明けた。初めての上越夜行列車,一人での長距離も初めてだった。 マチガ沢,巌剛新道から西黒尾根に取り付く予定が,径を見失い沢をその間々遡る。 間違いと分かった時,既に沢中央の岩底を大分攀っていた。 登ったとは云え,降りるに降りえぬ灘場,動けずに居るところ,登攀パーティに助けられる。 マチガ沢中央スラブを黙々と攀っていた。そして前進も後退も出来ず行き詰まる。 スラブ中央の窪地,上部は急激に高度を上げ,攀じった谷も下流を覗けば深く足元から落ち込んでいる。 背筋に寒いものが走り,足踏みするだけで一歩も動けなくなっていた。 クライマーに救われる。 初めてザイルを結ばれ下ろされた。偶然出会ったクライマーはさぞ驚いた事だろう。 誰が見ても素人のハイカーが1人,身動き出来ずに沢の中央に立だずんでいた。 彼等から「如何した!」と声が掛かり,嬉しく助けを求めた。怒りもせず「大丈夫だ!」と,ザイルを解き僕に絡める。 細いザイルに寄り掛かること自体が不可能に思われた。 まとまれたザイルを解き,肩から絡め僕を確保する。そして胸を張り,ザイルに寄り掛るよう降りろと。 安心感から再び不安が募る。知らず登ってきたとは云え,下は見るからに傾斜を持っている。 ザイルに寄り掛かるには勇気がいた。岩と離れ靴底をフラットに!」と彼は云う。出来るはずないが頑張った。滑れば落ちる。 ただ実際,ザイルに頼ると最初の一歩だけで恐怖心は薄れ,勇気の方が勝っていた。 無知識でも助言さえ確りしていれば簡単にスラブ下に降りられた。一人では如何しようもなかった。知らぬ事の恐ろしさを知らされる。 頂にて その後,気を取り直し遅い谷川岳の頂に立つ。頂に登山者は少なく,静かな山だった。もう頂には誰も居ない。 夏の陽差しに吹く風が快く,自分の知る限りの山々が頂稜を綴り,足元には深く谷が口を開けていた。 朝方の行き詰ったスラブを見下ろしながら探り下るも分からなかった。 西黒尾根と岩稜に挟まれたマチガ沢を覗み込み,全てがその場所にも思えた。 s39年08月,夏の谷川,西黒T 43年,4年の差,マチガ沢東南稜 憧れの南アルプスと遭難救助 高遠 昔,小学生低学年の時,高遠停留所近くに,夏の間暫く過ごしたことがある。 幼い頃,戸台まで入るには飯田線伊那北駅から,バスは高遠で乗り換えていた。 そして高遠停留場で乗り換える登山者に憧れを抱いていた。重いキスリングを背負う姿が印象的に残っている。 まだ,僕も幼く中央東線に蒸気機関車が走っていた頃である。 大きなザックを担ぎ,その勇ましさは夢のようだった。それが今,現実にされようとしている。 相棒は同期の長塩,大学進学を仕替え初めてアルプスに入った。 千丈,北岳を越え,雨と風に停滞をよぎされ,高校最後の珍道中が始まった。 千丈岳も北岳も頂稜は風雨強く荒れていた。寒さと疲労が山をでかくし,そこを乗り越えてきた。 荒天で北岳小屋では2泊停滞を余儀なくされた。白峰三山への縦走を諦める。 下山 大樺沢雪渓の雪上に入り,早くも不安定な足場で立っていた。目の前に見渡す限り硬い雪のカップが帯をなし,谷へと落ちていた。 初めての雪渓に,気は踊り,湧く心と滑る不安に満ちていた。残雪は多い。初めて見る雪渓がこれほど大きいとは,まして7月に。 遭難救助 バットレスから滑落したパーティの遭難救助を頼まれる。 雪渓上,一人で歩くのも覚束なく低調に断るが延々と説得された。半ば,中途半端な返事が手伝う事になる。 4人パーティの1人が怪我をした。リーダーは凄い。 何も判からぬ僕等に救助を依頼し,あっと言う間に基礎を教え,指導しだしていた。人手が足りぬのは事実だが。 まず雪渓の歩き方を学ぶ。硬雪を踵で切るには度胸がいた。滑りそうな不安が付きまとい,空身の方が怖くなる。 それから中枝を合わせタンカーを造り,ザイルで絡め肩で支えるよう下ろした。 訓練ではない本番なので真剣になる。真っ青な遭難者を前に実戦が始まった。 ソリを吊るしたザイルが肩に食い込み,手は締まり痺れるがステップは次第に上手くなる。 休憩,1本がこんなにも気持よいとは,各自が自分のポジションを持ち,バランスよく下るため息は抜けなかった。 緊張が解れ,休めば全てを放り出し体を雪面に倒した。 そして又,同じ事を何度も繰り返す。大樺沢の雪渓は長かった。 薄暗くなり救助隊が現れた。警察が中心になり動きだす。雪渓から左岸沿いの登山道を出合に向かい,下りた時はもう帳を迎えていた。 警察の車で駅へと頼んだものの芦安の宿に連れていかれ,全員ここで宿る。飯が美味く朝までぐっすり眠った。 s38年07月,梅雨の千丈,北岳 |
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霧氷T,U, 霧氷T・・・湯元上 東武日光駅に列車が着いた時は雨が降り注いでいた。イロハ坂を抜け中禅寺湖辺りで降雨は雪に変わっている。 湯元でバスを捨て,金精峠へのルートを歩むのは僕一人,音もなく細かい小雪がシンシンと降り始めている。 湖畔は重たい雪雲に被われ,雪白さも薄暗い灰色に包まれていた。 熊笹帯を綴る登山道に入り,踏みしめ登ってきたトレースも,見る見る埋まり,ラッセルはふくらはぎから膝へと次第に深まった。 雪斜面は幾らか窪んだ溝のような雪面を切りようなる。溜息までもが吐く息のよう白く吐きだしていた。 築いてきたトレースは休めばドンドン埋められ,踏み跡は失われそうな豪雪になる。見る見る肩に積もる雪,先の見えぬ雪のカーテンが降り続いている。 峠へ先を登るより,下るルートに不安が募りだしていた。風も出てきている。改めて下山することにした。 霧氷 金精峠からの下り径,湯元の銀世界は忘れられないものとなった。 風道を抜け下層の森に入るとタンネの森は明るさを増し,煌めく白銀が水晶を細かく裂き,散りばめられた,お伽ぎの世界を造っていた。 霧氷の森とは,こんなにも素晴らしいものだろうか。 雪の重く被さる熊笹帯を抜けた。風は止み,静寂さが森に満ちている。 一瞬の間を置いて,吸う息が凍りだし,周りは一面に煌き輝きだす。細かく煌く結晶の繊細な粒が空中に留まっている。 何処を見ても煌めく氷片が漂い,霧氷の森に散りばめたダイヤモンドダクト,不思議な世界だった。 想像を超えた自然の美しさ,寒さも全てを忘れ,立ち止まっていた。 ダイヤモンドダクトが下りる森に僕一人いた。 s40年05月,大雪の日光白根山 霧氷U・・・餓鬼Bc,下山日 入山以来,暖かい夜が続いたが,天幕撤収のため外にでると僕等の下山を祝すよう,ベースキャンプの周りは霧氷に被われた。 細かく細工された屑氷が,枝々を透し煌いている。 天幕の幕を開けると扉を開く如く,別世界が開かれていた。驚嘆する仲間達, 気温が下がり,樹間を透す朝日を浴びての世界,再び山の凱歌に酔いながら撤収した。 山中ではズーと恵まれた天候だったが今,崩れた。気温を急激に落し,テントの外は誰もが驚嘆する美しさに変わっていた。 撤収が捗れば,天気の変化も激しい。 今回が下山で初めて小雪が舞い,気を良くした僕等,樹林を縫い走るよう南尾根を滑り降りた。 重荷に尻セードはスリルがある。奇声と共に河原へ降り立った。 s45年正月,雪白き餓鬼の山 新人養成合宿風景T,U, 風景・・・T 部屋全部を占領してザックにあれやこれやと詰めている。 詰めているうち幾つも忘れ物を思い出し,何時の間にか出掛ける時間になってしまった。 暗い夜道を重いザックに靴音を響かせ,ゆっくり歩む。 時々,擦れ違う人は必ずと云ってよい程,奇妙な目付きでこちらを見ていた。 ましてヤカンやナベを付けていれば,なお更だった。 中央線に乗り変える。ラッシュは過ぎた。ここでの最初の仕事は乗降の少ない場所にザックを置くことにある。 肩が相手の衣服に触れるなどすると,嫌な顔をして睨まれた。 シャツは色あせているが洗濯したばかりで,まだ埃も付いていないのに。 食料を背負ったザックは思いのほか重い,集合場所の新宿に着く前に,もう汗は滴りシャツは背を濡らしていた。 ザックを降ろし,ほっとしていると仲間がぞろぞろやってくる。 そしてOBの方も「頑張ってこい!」と見送りに来て下さった。僕の知っている青木先輩もいる。 ホームでは,慌ただしく出発の準備を繰り返している。準備会で教えられたパッキングを更に先輩が指導し,ザックを逆さまにして シュラフまで巻き直す。僕だけではない新人全員が行っている。人の踏み場もないホームで。 s40年05月,「峠2号」 風景・・・U 相変わらずこの合宿は列車待ちが長い。 仲間が占領している新宿駅ホームは,かなりのペースで荷が散らばっていた。 新人は初めての山行で最後の点検を行っている。 個人装備を広げ,再び上級生の指図によってパッキングを行っている。 まだ新しい衣類の横に,黒ずんだ煤だらけの凹んだナベがあり,ヤカンが今年もあった。 隣の一年生は一生懸命タッシュを開け閉めしていた。 漸く終わったと思うも忘れ物が現れ,詰めたばかりの荷を全部を出し,丁寧に入れ直している。 この風景は毎年のことであるが2年になった上級生を含め,心の準備には一番良いようだ。 s44年05月,新宿駅ホーム 初めての幕営 雪上テント 初めての山行,新人養成は奥秩父金峰山で行われた。露営は新人全員が初めての体験だった。 今年は残雪多く大弛峠まで行けず雪上幕営をした。テントの中では割田さんが怒声を吐いてばかりいる。 初めてなのに何もかも上手くすることが出来ようか。怒声られてばかりいる僕等。 雨粒が漏り,雪を溶かしての炊事は容易ではなかった。水を作ることから炊事は始まった。 グランシーから這い上がる冷えびえする冷気に固まる体,コンロの火が暖かい。 夜焼け前 初めての雪上は冷蔵庫に居るようで,動作もぎこちなく,薄暗いテントに吐く白い息が一層震えを起こさせている。 空気は固まり凍っている。動く都度,流れる寒さに震えた。 それもコンロが点ると暖かさだけでなく,炎は安心感をももたらしていた。 ローソク1本が,こんなに明るく暖かく,コンロの凄さも改めて感じさせられた。 疲れと初めての雪山が体を重くしている。2年生の逞しさに比べ,新人は皆同じ境遇にいた。 僕もそうだが,まだ周りを見る余裕だけは残っていた。 だが昨夜,寝冷えでもしたらしい。腹が猛烈に痛む。だが屁理屈と思われるのを嫌い我慢する。 食欲なくラーメンだけを黙ってすすった。惨めさが忍びよる避惨な状況が天幕にうずくまっていた。 僕だけでなく新人に優しい言葉は1つもなかった。これが新人養成合宿なのだろうか? s40年05月,新人養成T,国師岳手前 諸感Top 転倒とピッケル ストッピング ガスの舞い高く聳える空木岳も難の疎の,一挙に頂に立ち,「ガンバレ節」をがなる。 時折,降り注ぐ雨とガスの中,滑るような大きな雪面を空木小屋に向かっていた。 転倒, 知らぬ間々,咄嗟に両手でシャフトを握りストッピングする。緩いとは云え荷もあり停まらぬ傾斜。 尻セードならぬストッピング,焦り何度も刺した。力のある限り目一杯刺した。 落ちても大丈夫な斜面と新津先輩が駆け寄ってきた。縦走中,初めてのコーチ,手本を受ける。訓練ではなく実戦で。 右手でブレードを握り,左手は胴幅の間隔でシャフトを握る。 そして転倒の反動を利用してスピッツを雪面に体重ごと刺す。止まらなければ,又刺せと。 キスを背負った間々,実戦訓練が始まった。 入部して1ケ月,初めての残雪の山,又生まれて初めてピッケルを持つ。 二人のコーチに腐り掛けた雪面はよく止まる。硬雪の場合は分からぬが型だけはできてきた。 s40年06月,残雪の木曾駒〜空木岳 洛陽T,U,V,W,X, 燕岳・・・頂稜T 陽の落ちかけた山陰の天幕地から山靴を引っ掛け,食器を洗いがてら頂稜にでる。 50mも登ると,夕日に輝く黄昏の裏銀が荘厳な美しさで飾っていた。 高瀬川を挟み裏銀の峰々が黒味を深め,天に燃えるオレンジの空も,淡い墨へと闇の世界に変えだしていた。 落陽を迎え少し肌寒く,侘しくも思われた。 手をポケットに突っ込み,靴は裸足が踊っている。テントに明かりが点いた。 おぼろに映る雪上のテント。灯は雪上を照らし,周りを浮き上がらさせ暖かみを持って望まれる。 s40年07月,燕岳〜槍ヶ岳 千丈岳・・・馬ノ背cs 幕営地は最適のキャンプサイドとなった。 暇な午後を木に登り,雪面に寝転んでは周りの景色を楽しんでいた。 東駒ヶ岳は20mも歩めば望め,明日下る藪沢も心配がないように思える。 快晴で暮れる夕焼けは幻想的さを周りに漂わしている。 夕日が深まるにつれ千丈の山肌をオレンジ色に映し,カールに大きな影を落している。 そして空は赤味を一層深め,見渡す限り染め尽くしていた。 華やかさより厳しき壮厳な響きを持ち,巻き上がる雪煙は,それを強調しているようだった。 s43年04月,千丈,甲斐駒ヶ岳 燕・・・頂稜U 日没,帳が完全に包まれる前, 落陽の残光が,まだ頂稜を薄すらオレンジ色に染めていた。 僕等はカメラを手に雷鳥を追い,気の向く間々,燕へ向かって歩きだす。 両手をポケットに突っ込んで裸足が靴の中で踊っている。 花崗岩峰の頂はスポットライトを浴びたように,浮き上っていた。 谷には夕陽が迫り,東の空には早くも星が輝きだす。 山波はアーベンロードに飾られ,今最後の厳粛な儀式を終えようとしていた。 富山平野の雲海に身を落とした夕陽は,もう幾らか明るさを留めているだけだった。 後5分か,10分でこの頂も,闇になる。 僕は限りない自然の神秘を見,手に入れたような気持を掴み取っていた。 s43年06月,燕岳〜蝶ヶ岳〜涸沢 日没W・・・平ノ避難小屋 日陰始めた陽差しが,信州側のゆるやかな這松帯の裾野を照らし続けている。 そして刻一刻と長い山陰が谷へ流れるよう落ちていた。1分に300〜400mの割合だろうか。 中沢が天気予報を書き終える頃,目の前の這松を照らしていた陽差も,すっかり後退してしまっていた。 深い谷間には,もう帳が忍び込んでいる。山麓と僕等の間だけ,残り少ない陽が差し込んでいた。 後,十数分後に,この陽当たりも一線を引き,闇に包まれてしまうだろう。 真直ぐ北上するハイウェーの突き当たりに,驚く程近くに北アルプスが近ずいて見えた。 夕陽に映える穂高の凸凹が俄かに燃え,槍の穂先をオレンジ色に黒光りさせている。 尾根の延びた先には常念岳のピラミットが。その尾根は蝶ケ岳へと伸び背景を造っていた。 洛陽を待つ残照,低い山脈は次第に闇へと埋まって行く。 s44年11月,乗鞍岳 日没X・・・伊勢崎から北関東道路 ジャンクション高崎への道,西へ一直線に進む高速道,夕暮れを迎え,素晴らしい自然の神秘を味わう。 雲が水平に割れ,上層の雲と下層とを分け,赤き太陽が丸く大きく焼け現れた。 そして重い雲を縫い空全体が,水平の空間だけを白光混じりの夕焼けに染めている。 陽が落ち眩さを失うと残光が幻想的な雲を映し,壮厳な洛陽を向かえた。 高崎まで斑な車,その高速道を,その洛陽中央に向かい車は走る。真っしぐらに走り望む妻と私。 会津西街道を遡り,戦場ケ原から赤城山を巻いて,最後に心に残る素晴らし旅情を味わっていた。 2004年11月,中秋の日光周辺 柳沢,岩手神社h5 岩手山下山 見るべき山容はここ数日望めず,秋田駒から岩手山を越え裾野へと下る。八幡平の大きな森の県境を抜けた。 山々を降りる。ただ,馬返しも越え黙々と下るのみ。 秋田駒ヶ岳山麓,柳沢部落まで行動時間は実に12時間にも及んでいた。 岩手神社,h5, 静かな岩手神社で一晩の宿をお願いし,壊れかけた本殿に上がり込む。 床の軋みが大きく,今にも床が抜けそうだ。宮司が居るわりに手が付けられていないようだった。 ただ床の埃は少ない。掃除は綺麗にしているようだが造り全てが壊れ掛かっている。 古びた造りが何故か如何にも東北を思わせ,僕を惹き付けていた。 境内では子供達が集まり缶蹴りを始める。 村を守る鎮守の森,その本殿に腰を降ろし無邪気な子供の遊びを見詰めていた。 山を下りると里はやはり蒸す。時折,撫でるような風が恋しく清々しかった。 夜,説教するからとビールを差し入れしてくれた宮司は結局現れれなかった。 夜空には星が輝き,夜遅く屋根から落ちる雨雫の音を聞きながらシュラフに潜り込む。 明日は焼石連峰へ,夏油温泉へと,今度は長い乗物の旅が待っている。 s40年07月,秋田駒ヶ岳下山 西陽と風呂造り 国見峠を越え 国見峠までは予想以上に遠く,広いジャリ道の一本道が延びている。 まして昨日は夕方,花山ダムで泳いだせいか朝から体が重い上,茹だる暑さを迎えていた。 延々と続く凸凹道。人とも擦れ違うこともない,長い長いダラダラの登りが続いている。 今回の山行は秋田駒から八幡平を抜け,焼石連峰を南下して東北地方を縦断する形で歩んできた。 後は花山ダムから集中地,禿高原まで2日掛けての里の道が続いている。 漸く国見峠を越え,穏やかな下りが続くもペースは落ちていた。 人ッ子1人通らぬ静かな田舎道。ただ西日に照らされ,進む我々の靴の音だけが響いていた。 幾ら歩いても終わりのないような静けさ。 夕暮れの近づく頃,岩間を伝って熱湯の流れ落ちる荒湯Tsを見出した。 風呂を造る 昔あったという旅館の面影は全くなく,月明かりの下,苦心して造った露天風呂に浸かる。 川底を掘り脇を固め,温度調整には沢の水を引き込んだ。 硬い床を掘り石ころを除いて,漸く2人が寝転べる湯船が帳と共にでき上がる。 暮れると新月の真暗闇が待っていた。エレキを頼りに自ら作った露天風呂に浸かる。もう2,3cm深ければ申し分ないが。 寝そばなくては腹がで,胸がでる。浅くとも満足度はあるが。 否や贅沢だ。又,途中で分けて頂いた,ヤギ乳で明日の集中地入りを祝し乾杯をもした。 s40年07月,国見峠を越え荒湯,集中地,禿高原へ 湯と下山,下山後バテる 奈良田bs 大門沢小屋から奈良田はもう直ぐだった。幾つも吊橋を渡った。 好奇心が湧いて面白い。又,あった。又,あったと思っているうち広河内にでる。4つの吊橋がある。深い山だった。 奈良田は林業だけに目を向けている村である。山を降りた早川の径は延々と感じるが,苦になる事はない。 荷は重く体はだるくなるにも係らず,目は村を隅々まで見ようとあっちこっち走り回っていた。 湯舟 奈良田の湯は快い一言に尽きる。 山を下り浸かる湯,都会では味わえぬ湯殿のよさがある。程好い疲労が体を解し,疲れを癒す。 湯は又,体の回復ばかりではなく,どっと出てきた疲労を越え,心地よさを運んでいた。 汗を流した後は風までも一層清々しく感じられている。 長いバスの道 好天に恵まれ白峰三山は楽な縦走だった。それだけ自由な時間も増え,のんびり山行を味わえた。 ただ残念な事に僕は乗物には相当弱いらしい。 甲府までの4時間, 延々と続くバスの道。乗り心地は飽きる程疲れた。 バスの故障を願いもした。酔いとの戦いは続いている。 言葉を出す事も出来ず,体を丸め耐える。辛く眠る事も,景色を見ることも出来ず,じっと耐えていた。 下山してからバテている。夏には秋田駒で登る前にもバテていた。当時はエンストが繰り返され助かっている。 又,来るような事があればJR身延に出るべきだと,車中,幾度も幾度も思い続けていた。 s40年10月,中秋の白峰三山T 諸感Top 山小屋の怪奇 中ノ小屋 中の小屋は広い。入ると暗い闇の中にも,うっすらした明るみがある。 その一隅を借り,コンロを囲み皆が集まった。 幾つもの部屋はシーンと静まり返り,冷たい空気の固まりが支配していた。 誰も他の部屋へ行く者も居ず,氷付いた別の空間を造っている。 僕らの陣取っている部屋に入る時,奥の部屋がちらっと覗まれる。その部屋の偶に何かが動く気配がした。 何処からか漏れる,うっすらした明かりも夕暮れと共に失われた。 ローソクだけの明かりになると奥の部屋は,全くの闇になる。それなのに何かが動く。髪を撫でるように。 シュラフに入っても気になってしかたがない。明日を考え早く寝ねばと思うも,頭の片隅から離れなかった。 思えば思える程,気に掛かり得体の知らぬなにかが居る。 翌日,午後気が付いた。冬篭もりで雑然と物が転がる中,鏡が1つあった。 それが何処からかの光を受け,微妙な光の影を動かしていた。 傾き置かれた鏡は位置からして自分の体は写らない。光だけが何処かに反射し,幻じみた動きを造る。 我ながら凄い発見をしたようだった。お化けも亡霊も居ない。もう気にする事もなくなった。 s40年11月,御嶽山T,中ノ小屋 風道T,U, 風道T・・・冬の上越国境稜線 谷川岳から茂倉岳にかけ雪庇を避け,万太郎側の這松を歩む。 雪の被った這松は,時には足を這松の空間に突っ込み膝まで潜らせた。 そして腐りかけた湿雪はダンゴになりがちとなる。時折ピッケルを振った。 風の道 茂倉岳の頂付近には風の通り道がある。 無風に近い稜線は,そこで急に茂倉から這い登る強風にあおられた。 息のない強い風は20mを越すだろうか。マタがピッケルを雪面に刺し,ぴったり停まっている。 真ともに受ける風は袖をバタバタさしていた。 風道にマタが何時までも立った間々で居る。 先輩の号令で歩きだしたが,風道は10mたらずの間だった。 それにしても過ぎれば凪のようなる。狐に馬鹿されているようだった。 巾の広くなった笹平の稜線は尻餅をついても落ちる心配はないが,それよりダンゴに苦労する。 雲1つない西の空,遥か彼方に積雲のような浮き雲を見出した。笹平である。 s40年12月,上越国境稜線,西黒尾根〜蓬峠 風道U・・・梅雨の上越国境稜線 仙ノ倉へ 霧粒は次第にその大きさを増し強い南風を加え,雨に叩かれる額が痛い。 顔を背け,飛びそうになる体を支えた。荒れる山と悲惨なエビス大黒避難小屋 息苦しいが平標山から仙ノ倉岳の稜線は,駄々広く,上下も少なく一気に進む事ができた。 風道 ただ気象と地形の関連か,稜線上に1ヶ所,恐ろしさを感じさせられた所があった。 今までの強い南風が急に止んだと思うと,北側の強い風に煽られ,あっと云う間に元の南風に戻った。 平標山から常に魚野の強風が国境稜線を襲っていた。それが上州,赤谷川側の強風に変った。 僕の知恵では理解に苦しむ極端さ。何故だか分からない。戻り潮と同じ現象だろうか? 昨年冬,谷川岳から蓬峠へ抜けた時,茂倉岳で同じような風の径にあった。 全く同じ現象と思われる。一方的に流れていた風が,溢れるかのよう,その場所のみ逆方向に流れている。 昨年の先輩の言葉「止まるな!」を僕は彼に向かい叫んだ。 s41年06月,霧雨の平標〜谷川岳 雪堤T,U, 雪堤T・・・武能岳 巾の広くなった笹平の稜線は尻餅をついても落ちる心配はないが,それよりダンゴに苦労する。 雲1つない西の空,遥か彼方に積雲のような浮き雲を見出した。笹平である。 雪堤 武能岳の頂でスキーのシュプールを見付ける。 雪庇すれすれを走っている。新津さんだ。仲間のシュプールに間違いない。 仲間と会う事を楽しみにした数分後, 驚く程の早さで雲の一線が築かれ,湧く雪雲の堤は我々に迫りつつあった。 見る間に近ずく迫力は凄い。 もう知らぬ間に青空は失われ,雲の切れ目どころか視界は途切れ,重い雪雲に被われた。 頬を撫ぜたと思われた風も,強さを増し,一瞬にして荒れだした。 それからは蓬峠まで急変した天気との競争になる。ボンボン下る。そして雲堤はどんどん近ずいた。 崩れるのがこれ程早いとは。小屋前に立ち止まった時,周りは暗がり風と共に雪が降りだした。 それも叩くような雪粒が。 s40年12月,上越国境稜線,西黒尾根〜蓬峠 雨堤U・・・剣岳山頂 透る眺望 剣岳山頂からの視界は曇天であるのも関わらず,恵まれた眺望は見渡す限り望められた。 手前,立山連峰から南に向けるなら笠,槍,穂高連峰へと続く。 更に戻すと燕岳から後立山連峰が昨年秋,縦走した峰々が黒部川を隔て望めらる。 停滞前線 周りはより薄暗くなる。南方を見るに延々とした梅雨前線が,ちょっとの間に随分北上した。 もう悠著していられない。白く湧き出したガスも黒ずみ,再び振り返ると槍の穂先は雨雲の中になる。 目の前に雲堤が押し上げてきた。三俣,薬師岳と見る々岳を呑み込んでいる。 目に見えぬ遠征アラスカ,「ホァイトプリンセス」を望み,「ガンバレ節」をガナり頂を跡にした。 熊岩cs 小雨は今にも本降りになりそうだ。早速csを熊岩上に設営し,全員がテント内に落ち着く。 2年生は水を造るため雪塊を溶かし,暇な者は個人装備を整理し,ローソクに火を点そうとしていた。 熊岩,食後のテント撤収 日記を付けながら明日の行動を考えていた。ペンを走らしている時,北陸放送17時の天気予報が耳に入る。 低気圧の影響で九州,中国地方,雨, その前線が北上し北陸を被うとの事。 そして富山地方は平野部,20〜30mm,山間部100mm前後の豪雨にみわわれる。 実際,剣岳で我々は前線の接近を見てきた。そして表日本は梅雨明けとなる。 長次郎雪渓の下りで浪費し,皆かなりの疲労が目に見えているが,より安全な所へ,シュラフを飛び出し撤収した。 ヘッドライトを頼りにグリで下る。小雨降る中,硬く凍ったスノーカップの雪渓を下り,真砂沢出合に向う。 二年生には酷な行動となる。滑落の恐怖を超え,ほっとしたものの寝床を起こされ,雨の撤収と。 下れば再び闇夜の設営が待っている。 真砂沢cs 明け方,集中豪雨はピークに達した。連日の行動で体力の消耗が激しく,黒部川,下廊下を断念した。 s44年07月,剣岳早月尾根,熊岩Cs 諸感Top 夜明け・・・諸感 谷川岳西黒尾根 夜明け前 旧道を三折すると西黒尾根登山口になる。何処も同じ急登の取付は以外と短く尾根上の国鉄鉄搭にでる。 明け始めた空は星屑を西へ追いやり,白みより乳白色のベールに包まれた空間が,闇の世界を押し始めていた。 夜と夜明けの同居する空間は,次第に明るさが勢力を持ち,樹間にうっそうと漂っていた闇をも戻し始めている。 そして笠ヶ岳頂稜の一角に陽が強く光り,一点の光線の漏れが太陽を導きだした。 夜明け 憬雪小屋跡で1本, 陽の光沢が増すにつれ,ピンクに染まる朝焼けの雲も薄まり,昼間の陽射しに戻されてゆく。 そして白銀の白さは更に眩しさを増し,仰げば雪稜の上にソフトクリームのような谷川岳の耳が2つ突き出している。 そしてその上には雲1つない蒼空が続いた。 ピンクの山肌も薄れ陽の導きが,雪の頂を照らしだしていた。目指す頂はもう煌き輝く雪稜として望まれる。 素晴らしい夜明けの先に雪の王国があった。 気ははじゃぎ視界の十分利いた雪尾根に,面白い程高度を上げて行く。 s40年12月,谷川岳〜蓬峠 家族夏富士山行T,U,V, 夏富士T・・・「日の出館」 雨の合間を抜って5時,雲の中から陽が昇る。 体を震わせながら「雲上の人だ!」と子供達は驚き目を向けている。 寒さを越す自然の神秘に驚くも,昨夜の水の溜まった靴を履くのを嫌がった。 s59年07月,スバル口,8合7尺よりツバクロ東沢下降 夏富士U・・・「日の出館」 朝 夜明けの闇は一点のきらめきが赤味をおび,霞を帯びた境から頬を照らしだした。 闇に頬が白味を帯びたと思うもピンクに染まり,山全体をも赤らめる。 そして足元の雲海は,灰色地味た暗い堰に被われ,我々の前一面に広がっていた。 子供達の頬も暗闇からピンクに染まり,更に赤味を増している。 もう眼下の雲海は白き雲々を湧き出させ,明るさは更なる白さを浮き上がらさせていた。 朝食 朝がきた。食事を済まし頂を目指す。 殆どの登山者が宿の朝食を摂る中,我が家族は,コンロにおでんを煮込み,生卵にハムを炒める。 子供は好きなものをザックから取り出し3品,4品と増して行く。 水も十分持ってきた。十分な睡眠と食欲が先を左右する。皆,欲く食べた。 s60年08月,スバル口より御殿場U 夏富士V・・・「白雲荘」 朝の神秘 ご来光,小屋から素晴らしい雲のパノラマが広がった。 景色ではなく,自然のエネルギーが雲と云う形で眼の前,いっぱいに湧き上がっている。 闇の埋もれる雲海に陽が差し,雲の表面に白味を帯び輝きだした。 陽の流れる狭い空間の上は,一面厚い黒い雲で被われている。 闇雲,その空間を通し陽が天へと射しだした。 そして闇雲は淡いピンクに染まらず,夕暮れを思わす濃い紅雲に映されている。 眼下は白光を放ち,空は紅に染まる。否な色彩を雲に投げ掛けていた。 陽の一点が神々しく,旋律を帯び放された。はしゃいでいた子供達も息を停め,無言で拝むよう見守っている。 もう直ぐ荒れるだろう。下るまでもつように。 989年07月,スバル口より御殿場V 勝浦沖大陸棚T,U, 夜明け 今日も船上で夜明けを迎える。鵜原港で船体を照らしていた照明も,沖合に向うに従い落ちた。 闇の海上は,おぼろな境が夜明け近くを知らせている。空はまだ闇の中, 水平線に白味掛かった霞の境ができ,それは刻一刻と夜明け前の明るさを増している。 船上の灯かりが落ち,船首はその境に波を切り進む。空は明かるさを急激に増してきた。 仲間は6名,皆ダルマのように羽毛を着込み,特大のカッパを着て,初竿の期待で満ちていた。 時折,波飛沫が顔を打つ。もう陸地は望めなくなっていた。 1月としては暖かい朝, 手はかじかむが光一点の煌きが日の出を呼び込んでいる。 朝焼けと共に竿を持つ大陸棚。初竿は何時も太公望で望む。 1996年01月,外房勝浦沖 出船 明け方,厚い雲を切り陽が漏れるよう射しだした。重い雲が夜明けを延ばし,一点の割れ目が溢れるよう光線を大海原に放す。 まるで天地創造を思わす,自然の神秘が満ち,海は荒れ出していた。 親潮の潮目を越え,海は再び荒れ狂う。怒涛の如くウネる波が押し寄せ,船を踊らしている。 間を置かず,その切れた雲が広がり,大雲が朝日に押され,薄らぎ逃げるよう失いだした。 夜明け,何時も思う感動の一時だが,同じ姿の顔はない。厳冬の快晴の空,白い岳を想い,ジッとしていても体は振えた。 冬の荒れた海, 毎年半分は波浪で中止となる。この時期は凍える海でもある。 竿を離す船の移動が,体を振わせ,自然と振える膝下を,止める事は常にできなかった。 今日も,ひと波で隣りを走る遊漁船の穂先を呑み込んでいる。波は3,4階のビルを呑み込んむ高さである。 その中,漁船我ガ「まさえい丸」は波を切り,沖へと押し進む。大波に呑まれ,トモに座る我々は常にエァーポケット状態に絶たされた。 空は深い蒼へと変わるも,冬の何処となくどす黒い海は,荒れた牙を重く漂わしている。 船の灯は完全に落ちた。初竿を出す期待を抱くも,獲物は何処に。 1997年01月,勝浦沖大陸棚 二つの日の出 岳と海原 北アルプス,穂高の岳から日の出を望む。常念の肩からその山波の奥,穂高平を覆う雲海より陽が昇る。 今にも崩れるような朝焼けが穂高の岳を刻一刻と照らしめ,高雲の天に雄大な岳を現しだした。山陰の谷や岳はまだ闇に包まれている。 夜明けを迎えた岳の頂点は一瞬の煌きから,陽は峰を駆け降り谷間へと夜明けを告げて行く。 命が宿る暖かい陽射しが大地を被いだしていた。 太平洋の大陸棚近く,今全く異質の大海原に居る。今回はスルメイカを求め鵜原から夜明け前の暗黒の海を抜けてきた。 今日は外房勝浦の町は祭でもある。休漁する船は多い。漁船「まさえい丸」はただ1隻,沖へと風浪立つウネリの海を切り進んでいた。 船灯は消され,波を被る船首左舷前方の水平線に丸い陽が昇る。層雲と大きな積雲の間を縫い日の出を迎えた。 波被る釣座だが,迎ええた海に気は晴れ晴れとさせていた。 挑むべき荒々しい岩峰に朝の陽射しが煌いていた。穂高岳に登った2週間後には大海原に居た。 日の出と共に一瞬にして大海原は明るさを増した。眩いキラメキに期待を持ち,太公望は竿をだす。 天地創造を想わす無限の海原と神々が宿る岳の夜明けを,日を置くことなく贅沢な2つの陽を迎えた。 2007,09,01,北アルプス南部,南岳 2007,09,16,外房勝浦沖 吾妻の宿T,U,V, 五色温泉・・・宿T 五色の館 前方に五色の大きな館が見える。原っぱは五色のスキー場で夏には畑にでもなっていそうな所である。 滑っている人も数える人しか居ない。ただ一本のリフトが止まった間々,雪に晒されていた。 館は見えてからが,思いのほか長かった。軽くなった足取りもつい重くなり,何度も立ち止ては館を見るようなる。 たった一軒の宿,「宗川旅館」は外形とは違った大きさがある。 玄関から右へ左へ,上へ下へと廊下が伸び,僕等が案内された所は,その一番奥の一番高い山側にあった。 案内された廊下から察すると3階か4階らしいが,それ程階段は登っていない。 窓越しに屋根を見れば2階のようにも思え,向かいの窓は地下の脇にさえ見えた。 中2階などとややっこしい言葉を使わなければ食堂から5階に当たる。 部屋には火が入り茶が置かれていた。僕等は体を暖ため,再びボッカの為,板谷へ降りた。 s41年02月,吾妻五色T 五色の主 五色温泉も4年間行うと,かなり宿のかっても知ってくる。 己以上に知っている者が居ないとばかり,宿に着くなり主のような気持が起きるから面白い。 まして下級生から見れば殿様だ。 合宿の行程は無論の事,部屋の位置からペンチの置場に至るまで, そしてこの五色,たった一軒の宿がカカア殿下である事情まで知っている。 僕は暫し女将さんに汁粉をご馳走になった。 宿代 その僕に着いて直ぐ宿を半分改装したと3年生が伝えにきた。 アルミサッシの入った真新しい部屋を見聞に行く。 300円で泊れる宿が値上げになってはと。ヒュッテ,雪洞の時は200円, 女将さんの話によると今年より夏だけバスが通う事になり,営利を夏に持っていく為だと言う。 春は常時の事ながら殆ど閉ざし,赤字を覚悟で僕等に10年間も使わして頂いている。 確かにそうだ。馬鹿なくらい安い宿代.それでいて物は使い放題だ。 偶に来る客には一泊900円,食事付1500円も取っている。 幾らにしましょうかと反対に宿代を尋ねられた。当然,据え置きを願いでた。 s44年02月,五色温泉W 白布高湯・・・宿U 白布高湯の宿は西屋,中屋,東屋, 屋と四軒しかない宿に別館を含め10軒たらずとの事。 運転手に宿を世話してもらったが,全て宿は満員だと無線を通し冷たい返事が返ってきた。 もう車は高湯への半ばを過ぎていた。難とでもなれ,「行けー!」とばかり入って貰う。 「中屋旅館」 車はちょうど高湯の真中で停まった。当てもなく,まず宿の門を潜ったが玄関が分からない。 迷いの末,乾燥室に居た人影に導かれ,宿を頼んだら一発でOKになる。 後で知る事になるが,ここが中屋旅館であった。 五色,宗川旅館と同様に古い木造家屋は,長い年季が感じさせられた。 黒光りする家屋に袋小路を思わす廊下,部屋の数と廊下の入り乱れ,それは増築を重ねた家屋ではなく, 二階なり遠くから見ると宿自体が調和の取れた,かっちりした構造になっている。 湯治として古くから栄えてきた宿に,五色を思い懐かしさが感じさせられた。 一度では覚え切れぬ迷路の末,中庭の見下ろせる二階の6畳に通された。 そこには炬燵と木火鉢があり,炭が加えられていた。 石膏性の飲料湯になると云う高湯の湯は,澄んでおり,気持ちを落ち着かせる。 豊富な湯は温度も高く,五色に比べ親父さんが自慢していた理由も分かるような気がする。 ちょっと呑んでみたが,アルコールが入って入る為か,味がなかったよう思えた。 2000年3月,中屋より出火,隣り東屋と共に全焼する。300年途切れず続いた囲炉裏の火が原因のようだ。 s47年02月,荒れ狂う西大嶺スキー 信夫高湯・・・宿V 高湯「ひげの家」の後藤氏と出会ったのは昭和41年に春合宿準備を兼ね家形ヒュッテを修理を行った時からである。 当時,ヒュッテの所有者は山形県であるが,管理は高湯温泉組合が行い,後藤氏に委託されていた。 そして後藤氏と協議の末,RHCと共同管理を行う事になった。修理資材は温泉組合が負担し我々は労力提供する事となる。 初めての修理は大掛かりとなった。後藤氏の庭先に積まれた木材,資材をトラックに積み込み,ボッカと修理を行った。 大修理後,「ヒゲの家」で温泉に浸かり,気持のワクワクする中,帰京した。 ヒュッテの入山毎に「ヒゲノ家」で朝食を兼ね寄る事となる。そして風呂を浴び,時間に追われるよう最終バスから夜行列車に乗り込んだ。 学生最後の年には泊れ々と薦めてくれるオヤジさんと高湯の湯。ゆっくり湯に漬かり食事を御馳走になった。 OBとなり春合宿合流するため「ひげの湯」に寄る。朝食をご馳走になり天候不順で無理せず宿に留まるよう忠告を受けた。 若かったせいもあり,森で吹雪に会い野宿した覚えがある。 あれから30年を越えた。「ひげさん」の長いヒゲとも久しく見ていない。懐かしい想い出だけが残っている。 創業者はひげをたくわえたユニークな風貌だったことから,付いたニックネームが「ひげさん」。宿名もそこからきている。 今は息子さんが継ぎ近代的な3階建ての和風旅館で星見風呂と内湯の仙気の湯があるらしい。 一度尋ねたいと思っている。 s43年10月,家形ヒュッテ現役最後の修理 初めての雪洞 2月27日,雪洞造り オーバーズボンにオーバー手,ヤッケに目出帽とワッパを履き, スコップを持って歩く姿はピエロより具が揃いすぎ,風袋は滑稽一言につきる。 特に後姿は漫画が踊った滑降だ。ゆっくり歩けば頼もしくもあるが,小切ざみに動けばタヌキの踊りになる。 女子の格好は一層見られない。笑いを堪えれば腹を抱え笑い出した。 スコップを持って雪面を切るとブロックが落ち,穴ができた。 更にその動作を続けるならば,穴は次第に大きさを増し深くなっていく。 僕は雪洞堀りの為,今モグラのように雪と戦っている。3つ道具,スコップ,ノコ,ポンチョを使って。 雪の中では息と雪を切る音以外,何の音も伝わらなかった。 外と遮断された馬力の世界。力が落ちると交代させられた。 外は騒がしかった。天候が崩れたのではなく,雪と戯れている仲間の声だ。童心に戻り雪合戦,レスリングと。 僕も加わったが,雪がなかなか固まらない。乾燥し切った粉雪が,古い層を埋め尽くしていた。 再び雪洞に入る。急に暗くなり,しんやりした感触が伝わってきた。 こんな所で本当に寝られるだろうか? 3月02日,雪洞 高倉山に登った晩,初めて雪洞に寝た。 厚着の寝仕度で汗ばんだが,雪床に横になると,ひんやりした空気が体を包む。 冷気の流れが良く分かり,ローソクの炎が美しく見えた。 朝の炎は幻しのよう思える。一度目覚めれば明け方の冷えが雪洞に流れ込み,L字に掘った雪洞でも忍んできた。 縮こまって,うとうとしていると起きるのが億劫になる。 外は酷く冷えた。体を動かしていないと震えが停まらない。 昨晩,踏み付けた足跡を頼りに夜径を旅館に戻る。廊下もひどく冷たかった。 明け方は,舘全体が死んだように冷たくなり,空気を凍らせ,僕の体を凍らす。 それに比べ雪洞は暖かった。 s41年02月,吾妻五色T 春合宿T諸感・・・食当 今日は食当である。 食当はパ-ティ編成でなされている為,メンバーの少ないパーティは大変だ。 特に僕等パーティは4人の上,一年は僕一人である。 食事ともなると食糧部屋に宛がわれた部屋を掃除し, 食卓を作り,炊事をし,飯を盛らねばならない。朝はてんてこ舞いである。 3時頃から起き,火を起こし,炊事を始める時は,息も凍る程の寒さで電気も停まっている。 ローソクに頼り,ジッと具の煮え立つのを待たねばならない。 漸く廊下にも朝が訪れ,ローソクも不用になり飯を盛る頃,皆が起きてくる。 その間テルモスに熱いミルクを満タンにして置く,特に栂森パーティは列車の関係で早く出掛けるので二重の手間が掛かる。 それでも何杯もお代わりする光景は嬉しくもある。 皆を送り出し,ようやくほっとする気分,これで休息と云えようか。 昼食は朝に比べのどかなものである。 自分のパーティしか居ず,皆で味付けしながら炊事をする時程,のんびり安らげる時はない。 又部屋に寝転び炬燵に炭を足し,雑談するでもなく雑誌に読み老けていた。時間を気にしない時が流れる。 午後のひと時外へ出るも,ツァーから帰って来るパーティに温かいものを作り,夕飯の仕度を考えるとホドホドしか,滑れなかった。 それでも忙しい中に,のんびりした楽しさがある。持米は1人,2升4合5勺, 諸感・・・摘み食い 炊事を手伝っている時,面白い事に気が付いた。ナベをコンロに掛け,まな板を叩いていると廊下を行き通う仲間が, 擦れ違う時ちょっと足を止め「ご馳走は何だ!」「美味いのも作れ!」「肉が入るのか!」などと声を掛けて行く。 そして煮込みが始まると廊下の一隅に一人,二人と集まる始める。彼等,彼女等は急に手伝い始める。 摘み食いの為,集まって来たのを知っている食当は人手は間に合っていると言っても,誰も耳を傾けない。 味付けになると右や左から手がで,肉など目星しいものがあると,どんどん減る。 そして最もらしく「塩味が足りない!」「否や砂糖だ!」「微妙だな!」などと言い,摘み食いを繰り返す。 それでいて,コンロからナベが降ろされると,盛りを手伝うどころか,今いた連中が誰もが居なくなる。 僕の手伝いも,その一面を持っているのは疑えない。 激しいツァーを終え,一日の行動を終え,ラジウスにみんなが集まるよう,コンロに集まり,炊事をしながら, のんびり雑談を楽しんでいる。 s41年02月,吾妻T,「宗川旅館」 諸感Top 乾燥室と僕の部屋 春合宿T諸感・・・乾燥室 僕の部屋の下は乾燥室になっている。 乾燥室と云っても畳を上げ,床にトタンを張って部屋の真中にストーブが置かれているだけの場所だけど。 乾燥室も人のよう生きている。昼間,皆が山々に出掛けていると乾燥室は深い眠りに入る。 そして夕昏が迫りだすと乾燥室は賑やかさを戻し始め,色鮮やかな干し物で飾られる。 今まで寝ていたストーブも,この時ばかりは赤々になって活動し始める。 乾燥室にも衣類をまとう順序がある。ストーブの極手近かな所にはシャツ,セーター類が干され,ヤッケが干されている。 そしてそれを囲むようにオーバー手,オーバーズボン,シールが吊らされ, 部屋の隅にはポンチョ,シュラフ,ザックと言った類の物が広げられている。 ストーブの上には吊り網がある。そこにはもう手袋,帽子類に占領され,床にはスキー靴が漠然と列べられていた。 これから乾燥室が充分働き始め,それに変わり山で疲れてきた道具類が休みだす。 諸感・・・僕の部屋 少人数な僕のパーティとは反対に,部屋だけは大きく人数も多い。 又,ミーテンヅに使われる僕の部屋は,それだけ人の出入りも多い。 常に誰かが居た。部屋の奥くにザックが置かれ炬燵が一つある。 炭火の炬燵は時には足でいっぱいになり,足を擦り合わしている時もある。 炬燵がカンカンに起こっても誰も足を投げださない。 熱い所に入り縮こまっている。それが灰になると入るだけ体ごと潜り込んでくる。 背に畳を付け寝転ぶと天井が広がる。 良く見ると黒ずんだ中に板の目が見えた。天井に吊された裸電球はスイッチを入れても点かなかった。 s41年02月,吾妻T,「宗川旅館」 軋む小屋 阿弥陀岳南稜 立場川本谷と広河原沢との出合まで本谷左岸を50分程歩む。ここは鹿ノ角のガレ下にあたり,広い河原に小さな小屋がある。 まだ林道も工事中,人気が全くな居い。八ヶ岳にはまだこんな素朴な所が残されていた。 旭小屋 小さな小屋で二人だけの宿は楽しい。自然の荒れようにも負けず僕等にゆとりを与える,この掘建て小屋が素晴らしい。 薪を集め囲炉裏に暖かさを取れば,湿った倒木はパチパチ音を立て燃えた。 衣類も乾き,忍び込む隙間風に身を屈め,語る楽しさも格別だった。まだ外は雨降るも,みるみる時間が過ぎて行く。 昨夜,小屋は随分軋んだ。 囲炉裏を挟んで寝た僕等に,火の氣がなくなると急に寒さが忍び込んできた。 止む事を知らない雨はトタンを叩き,風は小屋を揺す振り,柱という柱は大きな音を立て軋む。 そして酷寒の風が吹き込んでくる。 不気味な音 中塗半端に眠っている頭には,この現象が幻想的な恐ろしさにも思える。頭は冴えてきた。 身は更に体を丸める。時折,理解しかねぬ不気味な激しい音が伝わってくる。 小屋が押し壊され握り潰されるような,鈍くあげくような響きが小屋全体に溢れていた。 もう寒さも加わって寝ているようで寝られなかった。これらの音が耳から離れない。 1時頃,彼も目が覚めていたようだ。互いに相手が図々しく眠っていると思い,早く夜が明けないかシュラフに身を縮めていた。 囲炉裏に火が入った時の安らぎ。 昨夜二人で何重にも巻き閉めた扉すら,強風にあおられ,開く激しい夜だった。 s41年04月,阿弥陀岳南稜,旭小屋 滑落・・・T,U, 滑落T・・・黒戸尾根ツメ 氷化しだした雪面は,しばし滑りそうになる。 僕はアイゼンを付けるべきと言おうか,言わない内,アーと言う間に転び滑り落ちた。 反射的に体を回転させピックを刺す。 堅雪に浅く刺されたピッケルは摩擦を起こし,スピードを落とすも止まらない。 停まるか停まらぬ間ぎはの勢いでズリ落ちた。 2度目の打ち直しに再び走りだした。勢いは停まる事を躊躇している。 そして3度目の振りで停める事ができた。 一瞬,ほっとするも支えはピッケルのみ。堅雪に足場が切れない。 靴先を雪面に叩くが,堅い反応が返ってくる。体はピックに支えられた間々である。 足は浮き,雪塵が氷化した雪壁を越え黄連谷に落ちた。 孤独焦 やだと思っても足場を作る以外ない。空身なら兎も角,キスリングを背負っている。 幾度も雪面を叩き焦りが支配し始めた頃,どうにか身を起こす事ができた。 数分で氷化した斜面, 恐怖が走り,まだ上まで戻れそうもない。息を整えるが気は焦る。 動く事も出来ず如何にかせねばと。アイゼンの先にツァケがあればと思うも,硬い反応だけが返ってくる。 時折,諦めか,如何でも良い考えがフト浮ぶ。腕力が抜けバテてきた。 焦る気を押さえるのみで他に考える余裕はなかった。ただ,足元だけでなく,周りを見る力は残っていた。 執念 壁の中,1m先に這松の割れ目を見出だした。 支えているだけで力が入いらず。ブレードで小さなバケツを作っては這うよう近ずいた。 ひと振りで1cm四方程の雪片が数個,コロコロと跳ねるよう落ちた。 足の底が引っ掛けているだけの黄連谷に,雪片が蹴る程に舞って行く。 足の爪先から壁が落ち深く覗めぬ谷,助けのザイルはない。自分を信じ這い攀じる。 このちっぽけな這松が,これ程可愛らしく頼もしく思った事はない。 引っぱれば抜けるような這松に足が掛かった。ピックが2cm程入り,支えに落ち付きを見い出した。 ゆっくり呼吸が出来た気がする。友の声が漸く聞こえてきた。 s41年05月,残雪の甲斐駒黒戸尾根 滑落U・・・長次郎雪渓 滑落 雪径最上部,長次郎の窓から100m程,降りた地点で飯田君が滑落した。 私は彼を確保する為,20m程下で態勢を取り待っていた。 まず中沢君が降り上手くいった。この分だと11時前にテントが張れるぞと,頭に閃く。 その直後,飯田君が転倒。確保した私のピッケルは折れ,私も飛ばされた。 彼は一瞬,停まり掛けたと思われたが,私が見た時,落ち始めていた。 キスを背負った間々,彼に自然と飛び付き早く停めねばと焦る。2人の体重が重なり見る々スピードがでた。 私は「足を下ろせ!」「足を下ろせ!」と繰り返し2,3度,言ったと思う。 後から思えば,彼にしては道理に行くはずないが,落ちながら体が半回転する。 彼の頭が下を向き,私はがっちり彼の体を被い,私の手が雪面と摩擦するのが分かった。 それを感ずるや,自分でも驚く程の冷静さを取り戻していた。 スローモションになる脳 焦り 冷静さを取り戻すと同時,熊岩直下に目が向く。あそこまで落ちてしまえば終わりだ。 クレパスがある。あの前で停めねばと。スピードが出れば2人とも駄目になる。何とかせねばと。 落ちながら気は焦っていたようだ。スピードは加速を付けている。何とかしろと。 抱くよう落ちた手は,その間々,彼の下で雪面に挟まれ落ちていた。 まず自分の手が何処にあるか知る意識は,まるでなかった。 見る見る熊岩に近ずくのが分かる。加速は増している。如何にかせよと。 駄目だ.駄目だ,早くと思うも分からぬ時が過ぎる。焦りは沸騰するが如く増していた。ただ落ちて行く。 指先 分からぬ雪粒が舞い上がり顔を打つ,シャワーのよう前が閉ざされた。落ちた勢いが,彼の足を踊らせ,雪面を叩いていた。 2人ともバラバラになりクレパスに落ちると思う。終わりが近ずいている。 その時,指の感触が,彼の体の下にあるのが初めて分かる。止めねばと心が動く。 左手から,まず指を雪面に突き立てた。雪面に溝を築くように。 落ちる事,数十m,彼の下に私の手がある事が分かる。 理屈や現実ではではない。当たり前の事が一瞬故,分からないでいた。 落ちる恐怖と彼を救らなねればと思うのみだった。指を立てる。深く。 すると摩擦の為か加速が気持止まったようだった。まだ気持の問題であったが,心は弾んでいた。 脳が我々を救ったと思う。私の手が彼の下にあり,止められる指を立てた。 指が深く溝を築いて行く。 二人の重みが手に掛かり手から指への感触は,もう痛さから麻痺を生んでいた。 そして指が雪を削る感触が続く。止る気に止めて止まらぬスピードに焦り,気は揉みだした。 再び落ちる中,如何にかしろと頭は動く。ただ,もう今まで以上に焦る事はなくなっていた。 すると周りが素直に見えた。不思議な事に彼はピッケルを持っている。 ピッケル 彼はピッケルを寝かした間々,持っているではないか。右手が自然とブレードに伸びた。 そして2人の体重が,上手く効いてくる。 キスを背負い被さった彼の体の下にピッケルが入いる。それを死にもの狂いで強引にブレードを握り,上に被さった。 除々にスピードが落ち,漸く約300m滑落し,熊岩へ1/4程で止まった。 彼が私の指図どうり転倒してもピッケルを手から離さなかった事が,無事停める事が出来た唯一の決め手だろう。 離していればバンドで繋がれたピッケルは更に跳ね回り,危険この上なかったと思われる。 彼は驚く程に無傷だ。私は両手に少々の傷がある。 良く見ると左手には豆粒程の血豆が5,6ヶ所あった。 脳 転落して一瞬の間に,知らずして頭は回転した。まるでスローモーションになり,第三者として見ているように。 細かく物事が見える。凄いスピードが何秒の一瞬を頭はゆっくり動かしていた。 実際は6,7秒かも知れないが,脳は次元の違うスピードで走っていた。 s44年07月,剣岳長次郎雪渓, 諸感Top 遠山川の軌道 聖岳下山 西沢渡より梨元まで延々21kの軌道歩き。 深谷を縫う軌道は,絶壁を走り,枝沢を横切り,雫の落ちる真暗闇なトンネルを潜る。 そして右岸へ左岸へと移り,適当な間隔に飯場を設け,掘っ建て小屋がある。 複線になっている所があれば,交差している所もある。 北又渡のように新たな軌道と結び付いている所もある。大きな大きな軌道である。 ただ延々と続いた。ただひたすらに黙々歩いた。 道中,途中には1ヶ所も開拓された土地はない。破裂帯にぶち当たる深い谷, 獣以外,棲めぬのかも知れない。長い軌道だけが続いていた。 足底 全長21kの軌道,その歩行は,並み大抵のものではなかった。 下山の喜びと同時,最後まで苦しめる足底。 単調な軌道歩きに重荷,山径とは異なり,土壌とのクッショウンの違いが,靴下の目に足裏を食い込ます。 休むと足裏にジーンと血が通ってきた。 そして再び歩き出す時の痛さ,麻痺させるまで,その都度我慢しなければならなかった。 枕木を噛ます軌道が延々と続いている。 里 足元に示された距離を数え,渡った橋を数え,時間を気にし,易老渡,北又渡と過ぎた。 飯場も多く見られるようなると,最後に何の囲いもない鉄橋を渡り,梨元の里へ入る。 素朴な部落に静かな里の道。漸くバスの通じる秋葉街道にでた。 早川から遠山川への径,長い旅は終った。 これからは平岡まで伊那の山々を越えるバスの道が続いている。 s41年07月,盛夏の聖岳遠山川 8人天を妹と 10貫の荷が汗で濡れる。 小屋泊りを止め,テントに寝かそうと思う。ただクラブには8人天しか残っていなかった。 今,夏合宿。遅れて出る女パーティーに選ばれた僕は,合宿中の特例で個人山行が認められた。 妹と行く事で。 だが,装備が残っていない。6号館屋上の部室で掻き集めても,小物はなかった。 4人で山に登れる物,全てが整っていた。二人の山行で全て持っていく事にした。 僕には馬力に自信ある。ただ残っ装備全てをザックに積め込んだら,この重さになった。 安易な考えが荷を重くした。 テント生活 何故かとは思わないが,テント設営から炊事も僕がやる。 その都度,笑う妹が可愛い。山の良さを知ってもらえばと。 荷の重い割りに,シュラフが1つしかない。故シュラフカバーで寝た。 セーター,ジャンバーで寝たが,外気が冷たい為か,カバーの内側には湿気が付いていた。 行者小屋で,でかいテントに2人,優雅ではあるが。 s41年07月,八ヶ岳行者小屋 諸感Top, 眼前に現れた黒い壁T,U, 黒い壁T・・・妙高,胸突八丁 地震 八丁の急斜面で地震に遭う。ちょうど尾根筋の手を使い攀じ登る所で起きた。 急に足が揺らぎ急坂の壁が揺れ,眼とのピントが合わなくなる。 視界は全体が黒い壁に被われたように見えた。何が何だか分からない。 揺れが終わり視力のボケが収まって,初めて地震だと知る。 間近の壁径に足元と前からの揺れで,発想出来なかった現象に体が付いていけなかった。 この所,松代の群発地震が暫し起きている。 朝方も列車は地震で遅れ,小刻みに停まった。山で出遇わすとは。 s41年07月,妙高山〜白馬岳, 黒い壁U・・・那須大峰 月の輪熊 熊に出愚わす。大峠への頂稜への径,潅木に被われた小径で。 秋の明るい陽差しを浴びながら下っていた時,眼の前に偶然に現れた。 せいぜい10m先を月ノ輪熊が横切る。唖然と立ち止まる大川と私。 体が硬直し動く事も出来ず,眼が据わっていた。 ゆっくりした動作で目の前を黒い物が横切った。もう姿を消し,大分時間が達っているが動けずいる。 目の前が真っ暗になり,何も分からなくなる。ただ留まった息が激しく鼓動し治まった。 熊か? 互いに確認し頷く友。ほっとするも気はまだ焦っていた。 熊の図体は大きな黒い壁として臨まれ,先に行くにも悠著した。 暫らく何も云わず黙っている。まして先頭に出る者はいなかった。 真近で見え過ぎた熊,又何時現れるか不安が募る。 s47年10月,秋愁の裏那須 入れぬ風呂T,U, 風呂T・・・鹿塩の里 発車まで充分時間があるので鹿塩館(山景館)にお邪魔した。 最初女将はくすぶっていたものの,交渉に悔あって風呂に浸かる。 裏に回るよう言われた。山を降りた汚い身に,如何にも慣れている言葉の言い回し方だ。 ふて腐れたものの裏の回れば却って良かった。 直接部屋に入る事が出来た。縁側から庭花を境に塩川の土手が続いている。 煮える風呂 1番を争って風呂場に入ったものの,湯が煮え返っていて,どうする事もできない。 裸になっている僕等は,この間々出るに出られず,蛇口を一杯に開き,鈴木はフタで掻き回す。 湯気が濛々と立ち込め,それだけでも暖かいのに女将はまだ湯を沸かしているようだ。 その内,洗面用の蛇口からも桶に水を入れ三浦と田沼がピストンし始める。 湯は冷めるどころか,増える一方で,ついに溢れだした。 早めに諦めた僕は部屋に戻り,縁側でビールの運ばれるのを待っていた。 最後まで頑張っていた大川も,とうとう諦め湯殿から出てきた。彼は実に50分近く湯と奮闘していた事になる。 浸からなくとも湯上りにビールは効いた。 冷たい1杯が喉を快く通る。そして2杯,3杯と,もう愚痴も出ず気持を大らかにした。 仲間の顔が真赤になり僕も頬がほてっている。 s41年10月,中秋の北岳〜塩見岳 風呂U・・・鹿島の里 水風呂 鹿島館に飛び込み風呂を焚いてもらう。 汗と雨でびしょびしょに濡れ震える体は,待つ事を悠著した。気の早い僕等に与えられたのは水風呂だった。 真水の湯殿に漬かり,震える体を更にガタガタ震えさせた。 冷水を沸かす時間の間隔が分からず,焦り飛び込んだのが悪かった。 互いに頓馬な二人。互いに誘った事に愚痴をこぼす。 本当に冷たい湯殿,雨の叩くガラス窓が,一層身を縮まらせた。 炬燵 二階の炬燵に潜り込みながら,古いマンガや雑誌を読み返し暇な時間を過ごした。 相変わらず雨は止みそうもなく,留まる事なく,しとしと降っている。 粗を探すでもなく部屋を見回し,天井を見ては,又炬燵に潜り込んだ。 明日から二人とも新入社員。こんなに,のんびりして良いのだろうか? 最後だからと寝転ぶ。 それでいて,する事もない。時間だけが,ゆっくり流れた。 MACが何時も世話になっている鹿島館、学生,最後の我々も世話になる。 そして食事までご馳走になり,200円しか受け取らなかった。 s44年03月,春の泥酔山行,爺ヶ岳東尾根 諸感Top 遡行,4年目の差 旧道 マチガ沢出合に出る。足元はまだ暗いが,もう仰ぐ国境稜線は朝の陽で照らされていた。 今日,あの頂に立つ。 マチガ沢遡行 僕等は幾つもの滝を越え,岩の感触を味わいながら快適に越して行く。 東南稜正面壁を仰ぎ大滝基部へ,思いのほか早く達した。 規模も30mあるとは思えない。リッジ沿いを何なく越す。 その上部,4段ノ滝は渇水期でスラブ状の為か,あっけなく越した。 右手にシンセン岩峰が飛び出していた。 経験 4年前,高2の時,マチガ沢から西黒尾根へ登るのに迷い,クライマーに助けてもらった事がある。 知らずして本谷の谷を遡り,身動きとれなくザイルで下された場所である。 暗く凄い沢だと当時の印象を持っている。 同じ場所でも,ほんの少しの経験が,全く異なっ感じを抱かせる。 当時,凄いと思ったクライマーに,自分を当て嵌めていた。 今はザイルも背負った間々,動けなくなった場所を想い出していた。立つとやはり高度はある。 今は,この場所も眼中になく,先の壁に向いていた。 谷は深く異様に映った剣峡は今は蒼空が被い,紅葉に溢れ明るい乾いた岩肌を照らしだしている。 s41年10月,谷川岳,マチガ沢東南稜 4年前,初めてのザイル 野宿の風 地獄谷二俣 河原は奥まで広い雪原になり,目指す赤岳沢出合が分からずにいた。腕時計も止り時刻も分からない。 二俣らしき左岸,河原の大木の根元に穴倉を見つけ,早々ビバークする。 狭いながら1人で寝るには居心地は良い。当然,足は伸ばせぬが。 雪も埋もれず東側に口が向き,風の防御も万全ようだった。周りは広い河原の雪原に覆われていた。 腹ごしらいをすると風の声がよく聞こえてきた。 ゴーゴー叫ぶ西風が一定のリズムを持ち,山を我もの顔にしている。 山を越す烈風と谷へ落ち込む風が混ざり合い,頭上と違った音色が聞こえていた。 ピークを越える甲高い音の下に,重なり低い音が絡み合わせている。 寝床は入口が下流に向いているせいか,冬の声が風に乗り,渦を捲き伝わってきた。 小キジに外へでる。頂稜に望む権現の秀峰は月光を浴び,黒光りし暗い谷間を浮き出していた。 一陣の捲き風を受ける。北風が山を越え,我が身にも迫ってきた。身を振わせ穴倉に飛び込む。 s41年11月,新雪を踏む八ヶ岳天狗尾根 表層雪崩 西黒尾根 肩ノ小屋を出る。入口の硬雪もトレースは消え,トラバースは直ぐ雪に潜るようなる。先程のトレースは清く消えていた。 そして相変わらず雪は知らずして,シンシンと積もっていく。 乾雪の為,綿のように被っている。妙に落ち付かぬ間々,下降し続けた。 表層雪崩 トップを歩む僕のラッセルどうり降りて来た,松本嬢の足元から雪崩が起きた。 原因は私がペースを落としたので,2人の力が一ヶ所に加わり作用したようだ。 雪崩は彼女の足元から長い亀裂を一瞬に走らせ,皿状になって西黒沢へ落ちて行く。 胆を冷やされる思いで,唖然と見送る。滑るよう落ちて行く。 それこそ舐めるよう薄い表層が,下流へ裂けながら割れ落ちて行く。 一瞬にして亀裂が生まれ走り,音もなく,でかい雪表が落ちた。 大きな淡く泡のような雪崩が更に沢一面に,大きく扇状に広がるよう落ちた。 足はビクとも動かない。否や,動けず全員が雪崩の動きを見送った。 無事であった私達,その下の急斜面を馬鹿と思える程,リッジ沿いに確実に降りた。 憬雪小屋手前である。 胸までのトラバース 森林限界,手前まで同じような条件が続く。 雪の上に雪が積もり,締まる雪に泡のような雪を更に積らしている。 ガスは雪と共に濃さを増し,数m先が分からない。短いトラバースは肩まで潜った。 三方,雪に閉じ込まれ,どのようにもがいても始まるものではなかった。 少しルートから外れたようだ。 ただ,じっくりと胸で雪面を圧迫し,雪面と胸の間に少しの空間を造り,深く膝を折る。 そして腹の雪を押し分け,足を数cmだす。 5,6mのトラバースだが前進の割りに労力,時間の費やしが著しい。 漸くリッジ沿いにガンゴーとの分岐にでた。 s41年12月,吹雪の谷川岳西黒尾根V 冬富士と旋風 御殿場 正に周りは純白と濃紺の世界だ。岩肌1つ見止められない。 時折,周期的に吹き付ける突風を,その都度ピッケルに身を任せ,次の突風との合い間を見計って登る。 最初の風、「来た!」と怒鳴り声が掛かり,同時にピッケルを氷表に突き立て確保する。 真っ青な空に旋風を感ずると,真近に迫りつつある突風が,這うよう近ずいてくる。 そして想像を絶する風が体を叩いた。旋風はひと息を置き,体を吹き飛ばす突風で吹き付ける。 その勢いは凄い。一瞬の烈風が大地を這い上がり襲ってくる。気を抜けば,飛ばされる風圧がある。 少しあおられるが,風は確保を抜け裾へと流れて行った。 確保を怠ると飛ばされる事になる。そして三合目まで落される。 誰もが云わずとも一度経験すれば,生理的に確保する。 頭を上げ天を仰ぎ,濃紺のクレパスに白い数条の旋風を巻き上げるのを感ずるや, 氷化した雪面にピッケルを立て,アイゼンで三点確保する以外ない。休憩もそうだ。ツアッケが利かなければ,なを更だった。 蒼氷と紺碧の空, 富士には他の山にない,冬型がもろに当たる裾を持っている。 一時の逃避をも許さぬ登頂か,断念か,はっきり決めねばならぬ力を富士は持っていた。 以外と恐怖心はない。自信に満ち,己の技量が登頂を左右する山のようだ。 木,一本ない富士の懐は風と雪とが支配し,陽の変化が氷の世界を築いている。 s42年正月,御殿場口T 尻セードで富士下降 雪氷 20分程で富士山頂を下る。九合八勺付近より長田尾根左側,不帰沢寄りの雪壁を下降した。 そして尻セードとなり飽きに飽きるまで滑りまくる。 両側を挟んでいた岩稜を過ぎ,岩屑さえ見えぬ雪原状の斜面に景色は移った。 そして下るにつれ陽差しに包まれる。蒼氷はその姿を失い氷表は硬雪に変わった。 雪の大斜面を滑る。 アイゼンを履いた間々,ピッケルに全体重を預け,スピッツからは小さな雪煙を巻き上げさせた。 硬雪,軟雪,交互の滑降は,スピードを激しく変え,時折ツァケでスピードを殺す。 これは深く入れ込んでしまえば,つんのめって危険であるが,スノーシャワーが頭に掛かり,雪屑が快い。 ただ視界が利かぬのが難点だが。 宝永火口が見えるようなると傾斜も大分落ち,時々摩擦による尻セードが痛さの為腰を上げさせた。 休み休み尻セードしてベースに戻る。オーバーズボンはボロボロである。 正味50分で五合目まで降りた事になる。 氷化 尻セードを終え小屋に入る。数分の間に日が隠れ,一瞬にして雪面は氷化し始めた。 早いもので数分でスピッツさえ,なかなか刺さらない。硬雪ではなく完全な氷化へ。 新しい水を作るため雪を取るのも鋸,ザイルを使用しなければならない。 小屋よりザイルで確保されブレードと鋸を使い,氷化した雪を穿り起こす。水を作るにも腕力が要た。 肌寒さは今日も大地の上に,冴ような星の輝きを照らしだした。 昨日に続き厳しい冷え込みが続く。 s42年正月,御殿場T,五合目Bc 諸感Top 羽越本線の旅 上野駅 列車から飛び降りる。 21時半上野駅,上越線廻り青森行,急行列車に僕と西村さんは乗り込んでいた。 発車前,通路に座るところもないほど満杯の列車に竹永さんの一座席を確保し,陣取っている。 今だ現れない竹永さん,時刻は刻一刻と発車を告げ,気が気でなかった。 見送りに来てくださった滝島さんが,発車1分前まで待とうと,連絡を取る為ホームを駆け回って下さった。 その効果もなく発車ベルがホームに鳴り響く。 列車の窓から大きなザック,段ボール,背負子,そしてスキーをも運びださなければならなかった。 満員で身動きが取れない。西村さんと窓から共にホームに飛び降りた。 後で詫びる竹永さんの顔。 西村さんが僕の立場を考え憤慨するも当たり前の事が,滑稽な一場面を作っていた。 僕は笑い謝る先輩に,もう諦めている。ここに得な先輩がいた。 鈍行列車 乗り換えた鈍行,秋田行も溢れるばかりの乗客を乗せ,漸く走りだしす。 暖房の暑さと人息で車内は蒸している。吐き出すようハイカーを降ろした沼田駅,土合駅を過ぎた。 今まで雲散としていた車内の雰囲気も急に静けさを取り戻し,熱い活気が失われて行く。 清水トンネルを潜り,越後に入った車内は疎らになった乗客に,散らばった新聞紙,嵐の後の静けさが夜行の侘しさを注っていた。 列車の旅 深い眠りの後,眩い日差しに起こされる。車窓いっぱいに入った陽差しは座席を半ば照らし,学生が乗り込んできた。 見附,三条と通学,通勤のラッシュタイム, 楽しそうに語り合う女学生とじっと畏まっている男児がいる。 それも広い停車場のある新津駅に着くと,乗客は元以上の疎らさになっていく。 新津から遠ざかるにつれ乗客は又一人,二人と減り,車内は数える程の人もいなくなる。 羽越本線に入線し,海岸線を走るガラガラの列車, 僕等は子供のよう,はじゃぎ出させていた。 座席を跨ぎ車内を飛び回る僕等。瞳には狭い砂丘の白さを映し,日本海の深く明るい煌きを映し出している。 そして田園の静かな昼下り,もう僕等は山とも離れ,のんびりした旅人になっていた。 急行に乗り変える事もなく,鈍行がゆっくり北上していた。 海岸線にへばり付く農家,たった一軒しかない温泉のある小さな駅,各駅停車がまた先のホームに入る。 停車ごとにホームを歩き,もう時間の観念もなくなっていた。 鳥海山 雲一つない真青の空に鳥海の裾野が大きく広がりだす。ようやく目差す山が見えてきた。 右手の車窓から三人が三人とも顔を出し「大きいな〜!」と眺める。空は何処までも広く蒼い。 僕等の乗った車両は我々だけになった。乗って来る気配もない。足を大の字に広げ,気侭に眺めるともなく眺めている。 海岸線を裾野に沿って大きく廻り込むため,何時でも望められる鳥海山に,仕舞いには飽きだしていた。それほどデカい山だった。 景色も山も関係なくなる。全てにダルさを増し,体は拒否し始めている。もう列車に乗っていること自体が,否になっていた。 矢島線 座っていても疲れ,腰が落ち付かず,ようやく本荘駅ホームに入線した。 実に17時間の長い列車の旅は,本庄で終わらなかった。向いのホームには古ぼけたディゼルカーが待っている。 矢島線に乗り継ぎ,今度は鳥海山北側の裾野を巻いて行く。 もう黄昏だした裾野, 本来なら山懐に入り,活気だすも気欲は失われていた。まだ惰性の列車の旅が続いている。 後1時間,今までから思うと短い時間だが,座る姿勢は苦痛に満ち,だらけた格好で締まりがなくなっていた。 乗客が少ない事をよいことに,他人に気にせず終点矢島に漸く到着した。 上野駅で列び,待った事を含めれば国鉄に縛られた時間は,果てしなく長かった。 駅前広場にはバスはなく,今日中に入れる所まで入ろうと,タクシーの座席に又座ることになる。 林道に入りうねる道に揺られ,本当の終点鴬川にでる。 タクシーからも開放され,西村さんも竹永さんも,先ずは背を伸ばす。 大きく大きく背を伸ばしている。開放された体に節々が痛み,体は硬く固まっていた。 s42年05月,矢島から鳥海山スキー |
| 稲妻の嵐 壁と雷 前穂岳を眼前にしてU峰で空模様が可笑しくなる。灰色のガスは既に黒さを増し,闇の空間に変えていた。 和田が僕に向かって「髪が立っている!」と怒鳴る。 事実,体中に静電気を感じ,体の隅々に鳥肌が立っていた。ピッケルは青光りし鳴りだした。 ピッケルを持つ手が小切ざみに自然と振るえている。確り握るも震えは止まらずにいた。 和田の髪の毛も逆立ち全てが立っている。青白く光る髪が放電し,体全体が放電した。「ヤバイ!」,「雷だ!」,避難する場所もない。 危険この上もない場所にいた。今,雷雲の中にいる。次第に暗さを増し,何時落ちても不思議ではない岩稜に立っている。 前穂岳へ逃げる 下る事も側壁を降りる事も出来ず,上へ攀じるのみ。直ぐ前進,壁攀じり前穂の頂に立つ。 霧は濃く大粒の雨が落ち,突然,雷鳴が轟きだした。一発はバリバリと空を割り大音響が雷鳴となり,圏谷から反響し鼓膜に伝わてきた。 空気という絶縁体を破壊して,落ちる雷のパーワーは凄い。 稲妻は天ばかりでなく雲間で放電を起こし,横走りし,圏谷から凄い勢いで上がってきた。目の前で爆発し煌く雷光を走らせている。 爆発する響きが空気を割り,大地を揺るがせ,雷光が下へ落ちる僕の発想を狂わしている。 鼓膜を割る勢いが連続し,放す雷光の隙間は真っ暗闇に埋まった世界になっていた。 その闇に間を入れず,稲妻は天地をわきまえず,怒号の如く走り回り,轟き渡っていた。 闇の頂 今稲妻の中心に僕と和田がいる。岳の神にいる二人に天地が蠢いていた。 頂は視界を全く失った。闇は道標さえも閉ざし見えず,真っ暗闇の頂に稲妻のみが唯一の明かりになる。 午後の一時が全てを暗闇の世界に変えさせ,自分の手先,指,1本さえ臨めなかった。 もう何処でもよい,早く少しでも高度を下げようと。本能は下るのみが安全と思えた。 闇と濃霧に全てを失い,刻む雷光に光を求める。待つ間もなく,1寸の雷光が放され,磁石から漸く吊尾根を探りだす。 その間々這い下り,最初の小さなコルから涸沢の残雪,雪壁に雪を求め下る。 雷光の中 稲妻が圏谷から僕等に向かい襲っくる。ザイルを結び下降する谷からである。雷光が大きく一瞬のジグザギを切り僕等に向かってきた。 足元の解らぬ闇の中に,光は一瞬にして膨張し雷光を走らせ脇を抜けた。 その都度,空気を割る音は凄い。地響きの如き大音響は鼓膜に直接割る鋭さを持っていた。 もう気になるのは目の前に走る雷光だけだった。天空や水平からの電光線には気にしなくなってい。 というより余裕がなくなっていた。下る先のみに集中した。 雨の波も激しくなる。バケツを逆さまにしたような土砂降りの大粒の雨が落ちてきた。急に肩に力が入ったと思うと雨粒が塊で落ちてきた。 頭,肩を叩き流れ落ちるのが判る。それは足元へ,登山靴の中に詰まり抜けて行く。そこへ大音響が響き,雷光が光る。 針山を突っ付くよう乱れる電光が,またもや大音響と共に僕の脇を走った。天からの電光は判断する余裕はなかった。 ただ下降への光が道しるべとなり,兎も角一刻も早く下るのみ。雷光に向いジッヘルを繰り返し降り続ける。 雷鳴と雷光の恐怖に怯えるも,自然と体だけは動いていた。早く雷光の下へ,涸沢の底へと。 (一週間前,西穂で松本の高校集団登山で落雷に会い,壱拾数人が死傷する.) s42年07月,前穂高岳北尾根, |
暴風雨・・・1,U,V, 暴風雨T・・・穂高,涸沢 梅雨前線が真上に居座っている為,今日で10日も降り続いている。 テントにポンチョ,新聞紙と張る工夫も及ばずよく漏った。 12時の天気図では九州西岸に台風7号崩れの低気圧が,北東進し前線を刺激している。 明日も天気回復は見込みはない。万一昼頃でも雲が切れたら前穂北尾根へアタックしよう。 夜半台風崩れの低気圧の影響を受け,強い風雨に襲われる。 集中して襲いかかる涸沢カールは荒れに荒れた。渦を巻き,上から下から襲ってくる。 豪雨は僕等二人だけの小さな宿り場,テントを叩きつけ,シュラフの中まで雨が飛び込んできた。 張り綱を引き裂く突風の強さは凄い。その都度ポールは軋み,テント内は這うばかりの空間も失った。 全てが濡れだし背を丸め耐えている。 寝る事もできず二人でポールにしがみ付き,風の息を待った。時間との戦いが続いた。 1時半暴風雨はテントを叩き崩した。小屋に一時,避難する。 テントを畳む,否や適当に包み,紐と重しを加え逃げだした。 小屋の薄暗い廊下で長い間,寒さに堪え待った。 空身で飛び出した事に悔やんだが仕方がない。寒さより外の嵐が勝っていた。 シーズン前の為か小屋番は静かに眠り,その故,外廊下で我慢に我慢を強いられた。 震える体に耐え風の弱まるのを待つ。なかなか時間は進まず,闇は長かった。 s42年07月,前穂高北尾根,滝谷, 暴風雨U・・・大喰岳 嵐 昨夜より明け方まで,もろに荒れた。 テントを押さえる石のブロックが飛ぶように思え,強風が吹き付ける。雨より風が強い。大きな石が動いているよう思える。 張り綱が2本切られた。二年生がよく働く。切れたと聞き私も動く。凄い風が外は舞っている。 0時,グランシーが持ち上げられ,寝ているシートに体が浮く。風雨強い起床となった。 出発できる姿勢でテントに留まっている。夜明けに風が治まるように。 斎藤と新崎,一年生の緊張は甚だしい。最後の詰め集中地を目前に穂高への壁があった。 テントを出たら前にぴったり付け,後は自信を持てと。 風雨強し 予想を裏切り明け方も荒れ狂う。昼頃弱まる事を計算に入れテントをでる。頬を叩く暴風は足を取り,思うように捗らず。 稜線の風雨に慣れない一年生を励まし進むが遅れ気味,大喰の下りでペースを崩した。 動けるのに動かなくなる。体より気が負けていた。食糧不足もあり,ここが限界となる。南岳までと思うも諦め飛騨乗越を経て下山した。 s42年08月,立山〜大喰岳 暴風雨V・・・横尾谷本谷右俣カール 高度2500m,キャンプサイドは風を避けカールの右隅に天張った。馬鹿に暖かい夕暮れに,中沢君は水を汲みにカールを下って行く。 僕等は荷を集め幕営の為,スコップを持ち,ポールを持って泊り場を造る。 夏天に比べ豪華な冬天に,見城さんも鈴木も初めての事で好奇の目を寄せていた。 秋の嵐 今まで1週間,日本を被っていた帯状高気圧は僕等の入山と共に引き退き,真上に低気圧が近ずいた。 それ故,夜が更けるに従い山は荒れだした。 雨より風に気を使った為,テントに水が溜まり,横殴りの風がテントを襲う。 それも方向を定めず谷から支稜を越え,時には頂稜から僕等のテントを狙うかのよう吹き付ける。 駄々広いカールに一夜の泊り場として,ほんのちょっと借りただけなのに,カールを襲う嵐がその間々テントを襲ってきた。 ポールは極端に曲がり,天幕の隙間は失われ,寝る暇さえ与えられなかった。 冬天の張り綱は唸り,吹き付ける風は叫びだし,雨足が酷くなる。もう熊に怯えるよりポールとの格闘となった。 暴風雨の答えに応じ,覚悟を決めポールを握る。冬天の弱点は雨にある。それ以上に風雨は強かった。 その中,軽いイビキを掻き眠る見城さん。中沢君はまるで夢のセレナーゼを聞く心地で寝込んでいる。 鈍感なのか諦めたのか,気持良さそうに寝むっている。 己を尻目に外は更に荒れだした。鈴木が起きだしポールを共に握る。 漬かるような雨水は諦めが付くが,風はそうもいかなかった。風の息で寝ようにも又,襲ってくる。 踏ん張り続ける2人がいた。何もせねば間違いなくテントは飛ばされる。冬天である。 風の息は更になくなり,友を起こそうか鈴木と目を合わせるも,無言で頑張っている。 目覚めれば誰もが驚き,テントを確保するだろう。荒天はその頂点に達していた。 馬鹿な程,荒れ狂う谷,昔の涸沢を想う。和田と2人,飛ばされそうになるも踏ん張っていた。 張り綱を直す余裕はない。出れば飛ばされるだろう。その脇で,今だ頑固に寝続ける先輩と後輩がいた。 s45年10月,横尾谷より高瀬川 諸感Top 鷹 八本歯 3時45分大樺沢雪渓を発つ, 1本目で水を補給,八本歯鞍部より尾根上となった。 上で1本取った。寝転ぶと青空に1羽の鷹が両羽を伸び伸び広げ,気流に乗りゆっくり旋回していた。 ビビたりとも動かぬ翼,上昇気流に乗り,グライダーの如く大きく翼を広げている。よく落ちないものだ。青空と入道雲,絵になっている。 真夏の陽差しを受け風もなく,のどかな風景に見えた。 その鷹が目の前で急に翼を納め,一瞬停まり,落ちるように降下した。凄い速さで弾丸のよう落ちる。まばたきすれば,見失うスピードで。 何だろうと,見詰める間もなく茂みを潜り,野鼠を引っ掛けた。両足にがっちり掴んだ鼠が動めいている。 矢のような落下はあっと云う間の一瞬だった。 s42年7月,盛夏の白峰三山U |
| 藪山・・・T,U,V, 藪山T・・・平ヶ岳 藪を抜ける 平ヶ岳から猛烈な藪を漕ぎ,藪山に3泊を費やし,5日目にして森林限界,至仏山の北面鞍部にでた。 この先にも目線では分からぬ這松帯の藪が遮っている。時間が馬鹿のよう過ぎた。 最後の頂は高度2100m,右手が大きくくびれ,黒い岩肌を落とすと至仏山の頂が望まれる。 黒屏風とは対照的に左側には,なだらかな斜面が尾瀬ヶ原へと延びていた。 その尾根の真中に,これから進む頂稜が走っている。もう一息だ。 初めは背丈の高い這松帯で潜り登るが中途半端な高さになり,漕ぐと云うより跨ぐルートになる。そして時には腰まで潜る。 ただ単純な這松帯だけの藪は今までの行程を経験してきたことに比べれば楽だった。 利根川源流の藪絡みの尾根は雪山のラッセルに劣らぬ深さを持っていた。トップの前に偵察をさせ,その都度後退し木登りをし,トップを導いてきた。 這松帯が低くなり後一歩で頂に立つ。頂まで最後の一本をman to manで走らせた。 至仏山での夢 藪から開放された頂,至仏に全員が立っている。 春の残雪期では何ともない山に,態々,水を求め腕力を使う今の時期を選び山行が行われた。 1つの節目は終わった。僕の発想はこれからにある。これから木,1本ない湿原を歩かせたいのだ。各々どう思うだろうか? 僕は湧く々していた。 s42年10月,藪,平ヶ岳〜尾瀬沼 藪山U・・・守門山 藪山へ 春ツァーならぬ藪山登山が始まった。守門の少ない残雪は猛烈なブッシュにぶち当たる。 北面西川に入り,沢沿いは更なる難をひいられ,右沢の滝を避けるよう藪にルートを取っている。スキーを外し荷をピストンした。 ここは高度1040m,c1地点まで登山の領域になっていた。 ルートの選定と以外な障害物,春山の径としてのルートに残雪は少なかった。起伏上の尾根は残雪が薄く,藪に閉ざされ沢沿いに逃げている。 これが春山の残雪を求められ,春ツァーの醍醐味でもあり特権でもあるが。 本来は右雪渓からはc1まで尾根筋は残雪で埋まっている筈だった。残雪を求め迂回し遡上する。 谷間はクレパスが顔をだし,滝には釜を構え,登行は不能。左岸にルートを取れるが,この荷,女子には空身でも危険きわまっている。 その為,左側の藪絡みに高巻きを取り,雪渓を繋ぎ繋ぎ高度を稼いでいた。 迷路をいだかす沢筋は面白い程よく曲折している。それも直角に近い角度で,急に谷筋を変えるから面白い。 足下にはゴルジュ帯が続いているに違いない。沢底の雪ルートは飽きる事なく僕を楽します。雪渓が帯の如く見定められた。 両岩壁が狭まり深い谷間があると思えば,雪原状となり藪を切れ,残雪に先を求めた。 藪漕ぎ 暗い谷を抜け傾斜を増すと明るい尾根へのツメに,残雪にルートが取れた。 この後にも最後の藪の高巻きが待っている。腐り掛けた雪表と以外と渋とい藪漕ぎがあった。 時折,腐った残雪は腿まで潜る上,疎らになった藪にも係わらず,藪はスキー板を右に,左に絡ませ体力の消耗は甚だしい。 頂へ続く尾根上の雪斜面が望められると,ツメの雪斜面は腕力に物を言わせ喘ぎ喘ぎ登った。 我慢で藪を抜け,開かれた尾根から尾根からは高き山が遠望され,ホッとし雪尾根でた。ここからは漸くスキーの領域に入る。 s45年05月,守門山ツァー 藪山V・・・足拍子岳 夏の残雪 果てしない足拍子岳本谷右岸の高巻きが延々と続き,私も彼もあごをを出し始めていた。 それは巻き始めたら終わりのない藪の巻き込みが繰り返され,どうする事もできなかった。 トラバースは足元絶壁下,100mにも及び,腕力のみの馬力を強いられる。谷底へ降りるべきポイントもなく,藪を漕いていた。 セナゴウチ手前沢手前,飽きに飽き,とうとう沢底に降りる。 両刀相まるあごの出る胸壁に,8月とは考えられぬ残雪に,藪が我々の遡行を拒んでいる。 1時間に数百mとわけの分からぬ時間が見る間に経ち,その登行を苦しめる。 大高巻きに続く大雪渓, 谷に入りフランクフルトからクレパスの顔,そこを越える私と彼。 スノーブリジも幾つも越えた。ルートを考え壁にぶち当たり,それを越す喜びに満ちていた。もう藪も忘れている。 盛夏なのに鳥肌を立て,焚火で暖みを取り,雪渓の寒気に耐え疲れを忘れ遡る。 曇天が谷底,全てを冷蔵庫に変えていた。 s48年07月,足拍子岳本谷 |
北八,冬の森と湖 夕暮れの森 森に黄昏が迫り,森を潤す樹林に陰が落ち込んだ。 純白だった雪面も灰色の帳に塗り変えられ,兎も鳥も影を潜めてしまったようだ。 そして木影は獣のよう,陰が森を支配し始めていた。 静かだ。雪の軋む音だけが聞こえ,息だげが激しく鼓動した。 見知らぬ森に一本のトレースを築き,頑張る僕等。 森が切れ湖水が現れた時,日が頂稜を越え西の野に落ちた。僕等は無言の間々,白駒荘へと向っていた。 明るい森 トレースはこの先でなくなっていた。樹林が幾らか開けた所で強い陽差しに照らされる。 樹木を抜ける陽が雪面に煌き眩い。風もなく防寒具を脱ぎ,シャツだけでも十分だった。 汗ばむ体に雪の触れ合いが心地よい。ラッセルも膝少し上を越し,程好い積雪がトップを掻き立てる。 皆,自分で踏み締める新雪に酔い慕い,自らトップで歩むのを待っている。 僕はラストからその雰囲気を察知し,交代を告げる。 脇に避け雪面に寄り掛かるトップ。ザックごと寝転び雪片が舞う。追う2番手が俺の番だと前に進みだす。 雪明りに静寂に満ちる森,風はない。雪は煌めき,汗は休み冷え出すも贅沢な森の憩いがある。 時を忘れる日向の森, 焦らず,ゆっつくり新雪の森を味わい,又ラッセルに励む。 森を縫う径は新雪に埋まり,時折樹間を通し陽光が漏れている。 煌く光が枝木に映り,袖やザックに触れる雪片の感触が冷く快い。 双子池 欧州風のカラフフルな色彩が雪白き湖畔に溶け込み,小屋を浮きだしていた。 黄色と赤の壁は童話の世界を思わせる。今日も客は僕等だけだった。幾らだったら泊るかと小屋番から交渉される。 双子池は雪原化している。踏み込むのが勿体無い程白く輝き,その上,粉雪が舞いだした。 明るい森と湖,「お伽の国」のようだ。柔らかい陽光を浴び,雪も跳ねている。妖精かも? 亀甲池へ 眩い陽差しを受け外にでる。目が眩みそうな雪原が湖畔に広がっていた。 その中,一直線に雪原を刻み込む。快い深さのラッセルに一本のトレースが築かれて行く。 今だ他の入山者にも会わず,僕等だけの径が稲子から北蓼科に続いている。 トップを歩く後輩に,堂々と真中を進めと強調する。胸を張れと。 倒木多い亀甲池もトレースはあるまい。僕等だけの贅沢な山があった。 s43年01月,白駒池〜雨池〜双子池〜亀甲池 諸感Top 底雪崩・・・・T,U, 底雪崩T・・・鋸岳 角兵衛沢ノコル 突然静寂な闇山に雷鳴が轟く。一瞬,空気が動き,割れ,落雷のような大音響が起った。そして地響きを巻き起こし,足元からきた。 縦揺れが続き,ドンと突き上げ体が踊る。地震か? 直下型だ。 何が何だか分からず異様な緊迫感が体を走った。鳥肌が立っている。 雪崩だ。今朝,遡った沢だろう。何かが起きたのは確かだった。 揺れが止まると同時,不気味な雪塵の粒が頭上に舞い下りた。 このコルの下の雪崩に違いない。底雪崩だ。 一時が経ちコダマが起こり,響き渡った雪崩の協奏曲が暫く続くと,後は再び元の静寂さが戻された。 再び角兵衛沢を 前々日ルートを失い谷間で野宿し,甲斐駒の頂を諦め,第二高点から引き返している。 意気揚々と下れる尻セードは誤算になる。昨夜の雪崩はデブリの山をを惨たらしく造り出していた。 凄いデブリが山が盛り上がり,谷を埋め尽くしている。泥土に枝木が混ざり,汚れた雪塊の残骸は歩き難し。 再び雪崩る 突然,またもや落雷のような大音響が起こる。今度は双壁そそり立つ角兵衛沢,核心部の中で。 壁を創る深い谷底に異様な緊迫が走っり,頭上を轟音が抜けていく。咄嗟にピッケルを深く刺し確保した。 雪崩だ。隣りの沢らしい。1つコブを越え,向いの南側谷で起きたのは確かだった。 稜を越え,不気味な雪塵を漂わし頭上に流れ込んできた。そして雪塵や土塵が頭上から舞い降りた。昨日と同じく底雪崩に違いない。 s43年03月,春の崩壊する谷,鋸岳 底雪崩U・・・越後水無川 下山 荒れに荒れた山。テントも乾きだし食糧もよく食った。食べないと,保坂先輩に怒鳴られそうだった。 後から入山した先輩に肉の塊を頼んでいた。荒れた渓谷,水無川を悲壮な思いで1人登ってきた。 くすぶり続いけた天候は下山を前に昨夜晴れ渡る。長い炊事に焚火,よく喋りよく食べた。 スキー板は折れた間々,背負う事になる。ツァー用バッケンが勿体無い。又,登攀用具は触れぬ間々残されている。 入山,下山は申し分ない蒼空が開かれたが山中はズーと荒れ狂い,土砂降りの雨だった。やはり下山も背負子は一杯になった。 デトノアイソメより遡った径を戻った。 雨と強い陽差しに削り取られた雪渓は何処も大きな口を開け,その都度大きく高巻かねばならなかった。 底雪崩 30分程下って,眼前で対岸不動沢に底雪崩が起きる。 ツメにはび込んでいた最後の雪渓が一瞬の内,どす黒い岩泥を呑み込み,土砂崩れの如く落下した。 そして小滝だった中程は怒号の渦に巻き込まれ,下流を一面デブリ,デルタで埋め尽す。 昼下がりの炎天下,突然空気を割る風圧が雷鳴の如き轟音を轟かせ,数十秒の一瞬を呆気に取られ見詰めていた。 もう,ここを抜ければオオ沢の吊橋へでる。 s46年05月,越後,残雪の水無川 諸感Top 月の輪熊T,U,V, 熊?・・・T 阿弥陀岳南稜の鞍部で昨夜遅く,何かに狙われた。縦穴を掘りビバーク,屋根代わりしたツエルトの裾を何かが掘じくっている。 ガサガサ雪片が落ち何かがツエルトの周りを廻っていた。 熊だ。食糧は外にある。友と二人でピッケルを握り大声を出すも,雪洞の周りを歩き廻っている。 ひと眠りの後,起こされた。もう眠れたものではない。何時,襲われるかと。 食糧は外にある,次は我々か? 夜明けまで待つ時間は長かった。進まぬ針に又雪片が落ちてくる。 無風の外にガサガサ探る音が響き,無音の世界で尚更大きく聞こえた。息を殺し互いに顔をみ見詰め会っていた。 翌朝,足跡から見て熊は狐かテンのようだった。 s41年04月,阿弥陀岳南稜 熊解体・・・U 朝方,熊を撃ちにいかないかと民宿「雲天」の主人に誘われた。 猟場は登川を遡り,清水峠付近,残念だが僕等はスキーを持ってきた。巻機山の大斜面を滑らなくてば。 熊の解体 宿に戻ると約束通り,大きな熊を仕留めて戻っていた。玄関前に証拠の大熊がデンと横たわっている。 目の前で解体が始まり,手捌きよく皮が剥がされ肉が分けられていく。 「美味いぞ!」と言いいながら,どんどん細かい肉片に変わっていく。見る見るなくなった。 囲炉裏を囲みむと子供達が集まるが,客慣れしてい筈の子供は,まだはにかんでいる。 昨夜遅く宿を頼み囲炉裏を独占し,子供と戯れたせいか? 今は傍から離れなくなった。 僕等とこの家族以外,誰も居ない昼下がり,のんびりした時を過ごす。 熊の肉 オヤジさんが熊の肉をご馳走してくれた。 最初の一口が大変だ。臭くなかなか口に入らない。食え々と云う言葉に拒み切れず,鼻を摘むよう食べる。 強烈なアクの後,筋もなく思いのほか柔らかい。ニンニクと同じで一口食べれば美味かった。 特産でしか食れない,特上の馬刺しの感触が口の中に広がり,幾らでも食べられる。 一口で熊のアクは無くなった。主人が一番良いところを出してくれたのは事実だが。 酒がでた。5合徳利に肝を冷やすのも面白い。 酒を注文すれば一升ビンを持ってくる。それ程,豪酒メンバーに思えるのだろうか。一人減り二人減り,最後は女将さんと私だけになった。 村八分の悲しい話を女将さんはポツリポツリと語りだす。 s43年03月,雪多き巻機山,酒とスキー 熊・・・V 熊に出愚わす。大峠への頂稜の径,潅木に被われた小径を歩み。 秋の明るい陽差しを浴びながら鞍部へ下っていた時,眼の前に黒いものが現れた。 せいぜい10m先を月ノ輪熊が横切る。唖然と立ち止まる大川と私, 体が硬直し動く事もできず,眼が据わっていた。 ゆっくりした動作で目の前を黒い物が横切った。もう姿を消し大分時間が達っているが,動けずにいる。 目の前が真っ暗になり,何も分からなくなった。ただ留まった息が激しく鼓動し治まりだしていた。 熊か? 互いに確認し頷く彼。ほっとするも気はまだ焦っていた。 先に行くにも悠著した。 暫らく何も言わず互いに黙っている。まして先頭を譲るも頷く者はいなかった。 真近に見え過ぎた熊,又何時現れるか不安が募る。 s47年10月,紅葉の裏那須 2012年08月, 立山連峰,太郎兵衛平から折立への下りで,熊に遭遇し追い掛けられる。 2012年12月, 朝方日影雁ケ腹摺山の登り尾根で,熊と対等し唸られる。 夜間登山・・・T,U, 夜間登山T・・・月夜の縦走 キャンプサイド,常念乗越で中沢君の誕生祝賀会を催す。「滝谷,北尾根・・・」と友を偲ぶ唄が連発した。 夜半,月が余りにも明るかった。 テントから外に出ると満月真近の月が,ここ頂稜の雪の大地を照らし,足元を照らしている。 昼間のような月光はエレキも必要とせず,周り全てを照らし仲間の顔をも照らしだしていた。 幻の穂高 風もなく静寂に満ち,神秘の領域が幻想的に創りだされていた。 穂高の山蔭は深い谷の闇から岳々を浮かび出し,白光の世界に包まれている。 昼間,見た絶景が暗黒の裾から山襞を墨で塗り潰し,灰色の一線を越し,月光だけの岳々を選び現している。 岳白き冷たい漂いが槍穂の頂稜に突き出していた。 僕はこの間々,寝てしまうのに迷った。そして決断した。一時間でも歩こうと。天幕轍収。個人山行ではの行動にでる。 闇に酔う 私も夜の撤収は初めての行動だった。一寸の迷いもなかった。それは仲間も外を見て無言で伝わった。 急の決断が行動を早ぶらせた。寝袋を畳むみ,我々も月光を浴び常念岳に登る。 無謀に見えるが頬に触れる微風が快い。 残雪の広い背稜は月光に照らされ,エレキも必要としない明るさを持っていた。 誕生日祝いを終えたばかりの一年,中沢君は,何事かと天幕内を動き回っていたが,外に出て歓喜を揚げた。 自然の神秘に自分達も包まれていた。 残雪を踏み,穂高を眺め言葉少なく歩む。幻ろな頂稜の世界,常念の頂へと。その扉を我々に開かせていた。 s43年06月,残雪の燕,常念,涸沢 夜間登山U・・・食後のテント撤収 早月尾根を越え,遠征アラスカに向かいガンバレ節をガナり,剣の頂を後にしたものの,長次郎雪渓で転落事故を起こす。 如何にか後輩達も落ち着き,熊岩の雪上に設営し,全員がテント内に落ち着いていた。 梅雨前線の影響で今にも本降りになりそうだ。 ローソクに火が点り,2年生は水を造る為,雪を溶かし暇な者は個人装備を整理していた。 今日,一日のアクシデントも炊事に精をだし,コンロを囲んでいると皆に落ち着きが戻ってきた。 笑い顔が現れ,冗談に飯田君も答えている。否や反論しているようだ。山行の峠も越し皆が笑っている。 久し振りの雪上幕営で破邪いでもいた。16時, 消灯 テントで日記を付けながら明日の行動を考えていた。ペンを走らしている時,北陸放送17時の天気予報が耳に入る。 低気圧の影響で九州,中国地方は雨,その前線が北上し北陸を被うとのこと。 そして今日夜半,富山地方では平野部で20〜30mm,山間部100mm前後の豪雨にみわわれる。 実際,剣岳で我々は前線の接近する雲堰を見て,早めに頂を離れている。治まれはその後,表日本は梅雨明けとなる。 皆,かなりの疲労が目に見えているが,より安全な所へシュラフを飛び出し撤収した。 ヘッドライトを頼りにグリで下る。雨の中,硬く凍ったスノーカップの雪渓を下り,真砂沢出合に向った。 2年生には酷な行動となる。滑落の恐怖を越え,ほっとしたものの寝床を起こされ,雨の撤収と。 これから闇夜の設営が待っている。 s44年07月,剣岳長次郎雪渓,熊岩 雪の大国 穂高岳 涸沢カールは随分奥深い,覗む岳々は顎の痛さも忘れる程の威容に満ち,大雪渓は眩い白光を放している。 そして頂稜は雲片が飛び通っていた。 涸沢ヒュッテのベンチで軽い昼食後,前穂北尾根X,Yのコルに向かう。 吊尾根に大きな雄大積雲が伸び膨らみを増していた。僕等は汗を流し,息を弾ませながら涸沢の雪面を切る。 小人のような僕等。計り知れない山の包容力。そして白き蒼き空。 僕等は全てが今,この雪と岩の大国へ駈け込んでいた。 涸沢までの散歩が岳に立ちたくなり,北尾根の斜面に向かう。快いステップに皆,弾んでいた。 雪の多いせいもあり,自らのステップに酔っているようだ。膝まで潜るトレース,コルに出れば上高地も見下ろされるだろう。 X,Yのコル 涸沢カールの雪原を足元に覗き込み,穂高の岳々がカールを構え仰がれ,見渡す限りの雪と岳, 岩稜にはびこむ残雪が岳の大きさを示している。見渡す限り広がる涸沢に人影も見られず,独占した岳が目の前に開かれていた。 稜の岳々はまだ高く聳えるも,カール底は蟻地獄の如く,広い釜を持ち雪白く見下ろされる。 コルからの今刻んだトレースが池ノ平まで,真っ直ぐ綴り落ちている。 自ら築いた初めてのトレースに,中沢君の瞳は踊っていた。自ら大斜面を切り,登り詰めたコル。 コルにいる仲間達,予定外の行動で頂に立ち,軽やかな気持に,岳の大きなを噛み締めていた。 重いザラメに尻セード,恐怖心はない。昨日は蝶頭から黒沢の残雪を尻セードで強引に横尾へ滑り落ちている。 はしゃぐ先輩に後輩がいた。雷鳥と競争し,降り始めた雨雫と争って横尾へ降りた。 s46年06月,燕岳〜前穂北尾根 寂しがりやなのに あの人は タンネの森に踏み跡を残し 奥へと入って行く 冬走りの追い風に 追い立てられるでもなく ゆっくりした足どりで 岩苔の湿った漂いの中を 華やかな紅葉したモミジ 今日の明け方で 頂には新雪が降り注いだことだろう 何か寂しそうな後姿にも あの人は 今年最後の峰へと 歓びを味わっているに違いがない 槍の径 秋の日向を浴びた峠 木曾殿越c3 東川岳からの縦走路, 峠は中秋の明るい開放感溢れる陽射しに恵まれていた。 少し早いが東川岳,空木岳鞍部に幕営した木曾殿越は蒼い空の空間は透けるよう何処までも広がりを見せている。 秋の柔らかい日向に溢れ,白樺の枝から仰ぐ空木岳の紅葉し素晴らしい。 屋根の上 山小屋は既にシーズンを終えていた。設営後,夕飯までの一時,シュラフを干しながら山小屋,屋根の上に寝転ぶ。 日陰ではやや肌寒いものの,優しい陽差しを全身に浴び,天は何処までも清々しく高かった。 乾いた風は,じっとしていると少し肌寒くもあり,又日向が心地よい。 テントからは炊事するコンロの音色に混り,ラジオから子供電話相談室の快い響きが聞えてきた。 子供の素直な質問は馬鹿げていたり,思いもせぬ感心させられる言葉が電波に乗り伝わってくる。 何とも云えぬ秋の清らかさと,陽溜まりのうつらさ,それに乗り子供達の会話が流れてくる。 もう小屋の周りでは誰もが喋らなくなった。聞くともなく,その会話を聞き,唯ずむよう寝転んでいた。 「飯だ!」と怒鳴り声が聞えるまで,僕は屋根でその会話を楽しんだ。 s43年10月,中秋の木曾殿越,c3 ヒュッテ最後の修理 家形ヒュッテ 吾妻連峰家形山の東面にガンチャン落しがあり,その取付きに県営「家形ヒュッテ」が建てられ,当時は高湯温泉協会と共同管理を行っていた。 毎年,冬篭り前の晩秋に家形ヒュッテの維持管理の為,我がRHCはメンバーが交代で修理を行っていた。 衛生,板壁,屋根,食当と各班に分かれ,トイレの汲み取りは後始末の為小屋の裏に大きな穴を掘る者もいれば,マットを燃やす者もいた。 最初の大修理は2班に分かれ,小屋の中から外からカナズチの音が響き,屋根ではペンキを塗っている。 室内から板壁の修理に回ると即席の梯子を作って壁に取り組み,腐りかけた木材を取り除き,コールタールの厚いボールを敷いた。 そして背負い上げた6寸程の長板を丁寧にその上に重ねるよう打ち付ける。又時には内装に回り,ベニヤを張ったり,窓の敷居を直しもした。 昨年と今年は僕が指揮を取り,後輩達に山小屋の修理と楽しさを体で覚えさしている。 割れたガラスや煙突を替え,目に見える修理は幾らでもあった。 ただ必ずしなければならない事は汲み取りの後始末で,何時も大変だった。毎年1年分を汲み出す必要があった。 そして春合宿に備える薪作りは営林署の許可を得て,谷間のツガの立木を何本も伐採せねばならなかった。 山行とは違い,夜は遅くまで,よくしゃべり,よくはしゃいだ。その上よく食べた。 1年,2年と歳と共に山小屋は無残な姿に変わりつつあるが,何時もの山小屋が僕等の手で今日も残されている。 ほんの一部分でも誠意を込め直す山小屋は愛着以上に僕等の魂が居座っている。 又春期には五色温泉とここ家形ヒュッテをベースにツァー合宿が毎年行われ,6年目になる。 家形ヒュッテに又やってこよう。そして皆でヒュッテを修理し,夜にはしゃべり,大いに騒ぐ僕等の小屋を持ち続けよう。 板塀には真新しい継ぎ板や割れたガラス,幾度も繰り返されたネバリの跡,その上に又,ネバリがなされ,春を待つ。 幾度も繰り返される山小屋修理に,クラブの年輪が沁み込んでいる。OBとなる。以後,ヒュッテ修理は後輩に託すことになった。 s43年10月,家形ヒュッテ修理V ホアイトアウトに遭遇 ツァー東吾妻 この尾根は一歩一歩の歩みに時間の費やしが,甚だしかった。 突風は休むことなく吹き付け,風に向かって歩くどころか,息さえも重苦しくなる。 1年の飯田は動けぬ間々うつむいている。この間々では倒れかねない。風に体を支え切れず風下に迂回した。 予想も付かぬ速さで東吾妻の天候は崩れ,視界が閉ざされる。烈風を避けでた雪原は岩のゴツゴツ剥き出しになった浄土平だった。 時間は既に14時を回っている。旗めくツエルトを被り,漸く全員が一息付く,外は地吹雪が渦巻いている。 ルート選定 現役最後の山としてラストに付き添っていた私。ホアイトアウトの雪原にでて,先頭のリーダーに任していたが先頭に立たねばならなかった。 色々な状況,ルートが頭に霞めく。家形ヒュッテへのルートを何処に取るか決断しかねていた。 視界は1m先が分からず,一番初めに考えた案は浄土平よりスカイラインに沿って高湯方面に大きく迂回し,より安全なルートを取る。 或いは直接鎌沼を目指し,ヒュッテに向かうかだった。ただスカイラインは安全性はこの上もないが,これから余りにも長い行動を強いられる。 そして日暮れの時間も限られている。地吹雪に体力が持ち続けられようか? それに比べ直接ルートは視界0。私には未開ルートだが,一切経山を中心に大きく右へ巻き込めば,無事ヒュッテへ戻れる。 更に万一,再び紛れ込んだ場合は鎌沼まで行き着けば,偵察の折り立てた赤旗や,避難小屋がある。 ただ一寸先も分からぬ地吹雪で,無事鎌沼さえ行けようか。自問自答を繰り返していた。 ツエルトを叩く風雪は依然衰えそうもなかった。風は強く唸り声を更に上げていた。 決断,鎌沼へ 不安のこの上もない下級生の顔をみ,仲間達に決断した。「心配ないぞ!」,「行くぞ!」,「ラスト,山田!」,それは直接ルートだった。 ピンチ食を半分食べさせ,防寒に一切の注意を配ることを促し,行動に移る。 地図と磁石 後から付いて来ただけの僕には,未知の世界だった。1時間ほど前までは日が差し展望も幾らか望めたがガスは既に全てを闇に閉ざしている。 頼りは今までの経験と念を入れ見直した地図,それと左手に握られた磁石の針だった。 歩数で距離を割りだし,8歩ごとに繰り返し針を見る。烈風に向かい,尾根から台地の上まで真西を選ぶ。 先への闘争 頭を上げられなぬ風雪,互いに前のスキーを見落とさぬよう怒鳴る。 目出帽は強張り,息と湿気でバリバリとなり,睫毛にはツララが垂れ息切れも甚だしい。強いと云うより吸えない風圧。暫し目に掛かるツララを割った。 吸う息も凍っている。後輩は黙々とひっひに付いてくる。離れたら終りだ。時間と緊張の我慢が続いた。 歩幅と歩数を計算し距離を測り,前を目指す。未知の土地で怖いと同時,己に自信をもてと自分を励ましつつ進むんだ。 歩幅に気を付け,ツララを切りながら歩む。視界0が続き,頭はまだ上げられなかった。頭の中の地図と磁石を頼りにスキーのトップを進めた。 途止めなく風は唸り,息のない風雪は矢のよう刺す。地吹雪を押し切るよう登った。更に強い風圧と共に台地にでた。 今度は北西に進路を変え,更に雪原を500m程横切って,北に向かう。好天なら如何ともなる所が,長い距離だった。 ジグザグに切る事もできず直登し,極端に折れる。それしか方法はなかった。風を避ければ目測を間違える。ラストを山田に任せ,先に集中した。 赤旗を確認 ついに鎌沼にでた。いっ時のカスの切れ目から赤旗が3本,僕の前に1つ2つと現れた。 偵察の際,立てられた赤旗である。赤旗は今にも千切れそうに竹柱を曲げ風と戦っていた。 我ながらホットすると同時,頼もしい旗めく赤旗が見る。稜を越え地吹雪が途切れた瞬間に赤旗が幻の如く現れた。 もう避難小屋も近い。先のルートは偵察で分かっている。ここまでが私の役割になる。 s44年02月,春合宿W,東吾妻山 諸感Top |
| 最後の現役,合宿を終え 納会 この席に出席するのも4度目になる。その年に応じて感じかたも異なっていた。 一貫して厳粛なクラブの縮図のような雰囲気が流れ,それに一種の憧れを持っていた。事務引き継ぎの後,送辞,答辞が行われた。 最後に挨拶に立った時,何か熱いものが体に溢れ,堪えようとする気持が押さえられず,言葉にならなかった。この気持を4年間求めていたのだろうか。 納会は盛大に部長の古井先生も出席してくださり,東京からは保坂先輩から電話も。明日から僕もOBに。 新しい慣例 納会で何時も慣例だった,雪の吹き溜まりへの先輩の放り出しを去年より禁止した。 今まで4年生を雪の落とし穴に埋めることが慣習だったがケヤーがなくなった。泥酔し凍死したらそれどころではない。 今年はその番が僕に来たらしい。風呂場に変わっていた。風呂場で騒いでいると聞き飛んで行くと,衣類を着た間々,湯殿に落とされた。 笑った間々,我慢するが着替えても,又もや落とされる。その中に同輩もいる。 悪知恵多い二年生が一年生を巻き込んで仕組んだに違いない。手を出さず指図する三年もいた。 二度目は風呂場に近ずかないよう気を付けても,団子になって現れ,如何しようもなかった。それも宴会場である。風呂場は遠いい。 階段を二度降り,周りくねった廊下を過ぎなければ風呂場に着かない。そこを襲ってくる。巻き込まれてはと,助けぬ同輩は皆笑うのみ。 着替えもなく宿主の所へ逃げ込んだ。女将は笑いじょうごか,世話してもらいながらも笑い続けていた。 丹前を借り熱い汁粉を御馳走になる。落ち付いたら又,友と呑めと。 酒宴は今年も延々となされた。夜が更けても同期,後輩はいた。僕を落とした悪餓鬼もいる。 悪の頂点は三田に工藤,高畑だろう。遠慮気味で遠巻きの山田が一番悪いかも? 次の執行部を組むメンバー達だ。 一年生より面白がっている二年が悪い。僕は一人も落す事ができなかった。逃げる一方で同輩も寄り近ずかなかった。 今日の為来日して頂いたOB根岸さんに宥められ,いなかった筈の同期大川も今はいる。 山を降りる 古い五色温泉にはスキー場がある,今までどんな事があっても合宿中はスピカーから曲を流さなかった。 最後の日,今年は「蛍の光」が風に乗り流された。4年目で初めて何にか分かった気がする。分からぬ重みが伝わってきた。 宿主にも感謝の念が募りだす。 重く垂れた雲,今にも雪が落ちてきそうだった。合宿は終わった。ザックを背負い,最後の板谷駅へ降りる。 スキーのトップを谷に向け,一昨日鉢森から戻ったラッセル径を,その急斜面を駈け滑る。 雪に埋もれた杉の斜面も抜けた。後,バッケンを外せば吊橋を渡り,板谷の駅にでる。 スキーを背負った駅への径,小雪が舞いだした。そして学生,最後の山を終えた。 s44年03月,吾妻連峰,宗川旅館 魔法の防寒具 餓鬼岳南尾根 明大,植村直己氏が日本山岳会としてエベレストに偵察した時,着用していたキルデングを借りてきた。 見栄えは汚い。襟とは云わず袖も汗で黒光している。 正月,私が北アに入ると聞き,よいものがあると明大の同輩が持ってきた。 町では気が引ける使い過ぎたキルデングも,山では凄い威力を発揮した。羽毛は軽く暖か過ぎる。下は薄いセイターでも汗を掻いだ。 私は魔法のキルヂングを着ている。誰もが純毛のセーターを重ね着する中,肌着だけでも良さそうだった。 これだけ上等品を着ている者は今,アルプスで何人居ないだろうか? 羽毛がこんなに暖かいとは。 入山二日目,もう仲間に分かってしまった。妬みより貸せ々と皆がうるさく,回せ着るをする。 皆が感心する素晴らしさは断を越していた。如何にも高価で手がでない代物だった。 当時はまだ登山用品専門店でも置いてない代物で,デパートに1着あるかないかの,一般の人には手の届かぬ超高級品だった。 そして15年後,私は結婚し家族でキャンプの折,シュラフを3組新たに揃えていた。 妻には羽毛のシュラフを,子供達には化繊のものを。 今年の5月11日,植村氏は南東稜より日本人としてエベレストを初登頂した。日本山岳会, 969年(s45年)正月,餓鬼岳南尾根 2005年08月,その後の八ヶ岳カルチャーショック・・ニュー登山用品, 壊れたスキーツァー 飯士山 マッチ箱のように並ぶ湯沢の町,谷間に細長く並ぶ基盤の目。 そこを縫う鉄道,国道が白い魚野川の河原を綴っている。素晴らしい天気に恵まれた。 ここ湯沢高原から石打丸山スキー場に至る魚野川右岸の丘陵地帯。雑木の自然林に覆われ,スキー場は何処も山腹で途切れていた。 ここにはもうスキーヤーも居なければ,シュプールもない。初めての日帰りツァーを上越でとはりきっていた。 バッケン飛ぶ 餓鬼ケ岳から下山して1週間目,富山先輩と保坂先輩を引き連れ,栄太郎峠越えるを企てた。紺碧の空を迎え,大峯まではよかった。 大峰の下りでバッケンが飛び,つぼ足はたちまち膝まで潜る。越後特有の重い湿雪に体が潜る。 スキー板を修理の為大休止した。枯れた枝木を折り腰を降ろて結飯を食う。宿の弁当は塩魚入り,付いた林檎も美味かった。 登山靴を板にぎっしり縛り,大峯を下った。林間を滑るのに板は方向を見定めず,仕舞には藪枝を漕ぎ,黒木にぶち当たる。 「バタン!」と転んだ。もうスキーと足は離れ離れになっていた。板を探し,転んだあたりを手掘りする。漸く板の先が現れる。 栄太郎峠 如何には這い登った栄太郎峠は小さな峠で小屋があった。小人が住んで居そうな小さな屋根に雪が40〜50cmも積もり庇を造っている。 今にも小屋自体が雪の重みに埋れそうだった。 難渋するバッケン 高津倉山は頂稜を左から直登する。雑木林を縫い,暫しバッケンに難渋,それでも滑り止めはよく効いていた。 つぼ足で歩くわけにも往かず,ワッパ代わりにスキー板を付けている。シールの上に紐と云う紐を幾条にも結んでいた。 高原を思わす高津山は疎林の上,雪の吹き溜まりを積られている。 ラッセルにシュプールを築き,気はまだはしゃいでいた。ただ下り一方は足のバランスが取れず,報大な労力を必要とした。 喘ぎから落胆へ ダンヒルと思い下るが,今日は滑るのが最大の難点になった。左スキーはシールを取っても滑らない。その上よく抜けた。 常にラストから付いて行くようになる。もう何度転んだことだろうか。 ぐっと疎らになった痩せた雪尾根を,雪庇に食い込まぬよう,ヨチヨチ歩きが続く。まるで初めてスキーを履いた青年が雪庇上にいた。 大丸山が目の前に浮かび見詰めたのが16時,もうこうなればシールに任した方が良さそうだ。 吾妻山を思わす戸田平の樹氷と伸び伸びした窪地, 雪は一層白味を増していた。 綴ってきたシュプールを振り返ると,重い空の雪雲を抜って一ヶ所,薄い夕焼けが切れ目のポイントを創っていた。日が落ちる。 帳とナイター 17時,大丸山に立つ。雪庇を避け急な斜面を抜けると,眼下いっぱいにシスイを散りばめたような夜景が広がりを見せ。 岩原,中里,TBS,後楽園,そして丸山のスキー場がナイターのスポットライトを浴び,夜空に描きだされていた。 保坂さんが「一番星が見える!」と叫ぶ。 楽と思ったスキー場も僕にはどうしようもなかった。どうにか納まった右スキーも,もう一方が駄目だった。 釘,紐,バンドと何んでも手当たりしだいに用いるが効果なく,増々駄目になる。 スキー板を捨てたい気になるも,脱げば膝上まで潜り,転びに転んだ。 19時,石打に下る。板があり雪があるが,初滑りは,はかなく終わった。 不運は続いていた。乗るべき列車もなく,次は水上止まり。待ちに待たされ,夜行列車の入線を待つ。 富山先輩は焼津から,保坂先輩は三鷹,頭が下がる思いで列車を持った。 s45年01月,越後,栄太郎峠 諸感Top 峠の炭小屋 素朴な峠 十二峠は上越石打から清津峡への里山の裏側の峠にあたり,所々で高木の樹冠から薄く陽を射し込むも,殆ど陽は閉ざされている。 峠路のほぼ真ん中には太い杉の幹の立木がそそり立ち,向かいに小さな司が拝られていた。地元の信仰心を注る神, そして集荷所のような大きな物置小屋がある。 炭小屋 小屋の中は索漠としていた。目が暗い小屋から慣れると一層,小屋の様子が明らかになってきた。 部落から石打に降ろすと思われる炭俵が3つ,入口の向かいに置かれ,少し離れた所に,別の大きな炭俵がある。 そして小屋の中央には,吹雪の峠越えで休む為のものだろう,直火の焚火の跡が何度もされた形で残されていた。 西寄りの板塀には吹き込んだ雪粒が積もられていた。 サブザックから新聞紙を取り出し,火を投げると湿気を帯びた燃え掛けの薪はよく燃えた。 小さな焚火にも暖かみが増し,淡白い煙が舞い上がる。 小屋を充満した煙は明かり取りの為,ちょっと開けておいた戸口から,忍び込む風が気流を乱し,じゃれあっては消えて行く。 過って単独行を誇った加藤文太郎が,やはり吹雪の中で,新しいエンジンのノズルを見出したことを思いだす。 大らかに昇った煙は高い天井に当り広がりを見せ,薄れては淡く消えたと思われたが,入口付近で再び先程の気流に合わさり,乱れ抜けていた。 後輩と2人で訪れた小さな峠は今も通い続ける峠道。朝方石打側の登りで,地元の人2人がワッパを付け擦れ違っている。 そこを谷へ落ち込むような雪面を切り,直滑降で滑り下る。向かいに飯士山が目一杯広がっていた。 s45年03月,越後十二峠 スキーでナイフエッジを切る 岩原 リフトでゲレンデを抜ける。雪は留まる事なく降り続いていた。視界は悪い。瞼に塞がるよう雪が舞っている。 シールを付け,ゲレンデを見て飯士山から真すぐ降りてくる左側の尾根に向い登りだす。 痩せ気味の上,急な斜面が初めからぶち当り,左右に切れ味のよい尾根が続いていた。 どうも初めからコースが外れているようだ。幾らか明るくなったのは夜明けの兆しだったのか? ガスが湧き初めから展望はなかった。視界は途切れ,風がでてき,リフトの音がだけが耳につく。 左下から延びてくる枝尾根と合わさり尾根らしくなる。だが複雑な地形は続き,雪は更にナイフエッジ,雪庇,深雪と短い尾根に係らず, 不思議な程,品を変え僕の興味を掻き立てた。 この東側に延びる尾根は上部で左手を急激に落し,右側には大らかなに広がる斜面は雪原のように開かれている。 雑木林が斑のせいかも知れない。雪を押さえ込む微妙な掛け引きが続く。谷側のスキーが先に出しずらくなった。 ナイフエッジ そして,それこそ鋸の歯のようなスノーリッジに肝を冷した。 板二本がリッシ上゙の尾根に乗れず,右へ,左へとトップから小さな雪崩を造っていく。音もなく小さな新雪が繰り返し繰り返し落ちて行く。 「ショッパイな!」,「ルートじゃないぞ!」,「ジックリ行こう!」と先輩と短い会話が交され,目はスキーのトップから離れない。 それにしてもリフトの擦る音がよく流れ込んでくる。風下の戯れだろう。霧がでてきた。 ガスは濃くなり,降る雪は相変わらず止む事も知らず,風が巻きだすと更に唸りだした。 ガスで視界を閉ざし手元しか分からぬが天気は荒れてきた。フードを被り,右手に張りだした雪庇に気を配る。 丸太のような立木に錆びた針金が巻かれていた。何だろうとよく見るが分からないでいた。 ガスは更に濃くなる。2m先の雪庇が分からない。尾根らしくなり急なコブに乗る。 腹が減り二人で仲良くサンドイッチを分け合い,飴をしゃぶっての1本。ここで頂真近を知る。 頂稜 東と北北西,それと僕等が登ってきた南側からの尾根がここで交わっている。 考えるに山の概念が分からず,ガスの放徊は頂が何処にあるかも見定められなかった。初めての故,飯士山の頂を通過したのかも分からない? 予備知識がなく,地図を見てただ岩原から石打に抜け,飯士山を越えることだけを考えていた。 その地図を列車に置き忘れ,視界もなく尾根も谷間も分からなかった。頼りは磁石のみ,北北西に進路を取る。 支稜 下り気味の尾根は左に枝尾根を構え,大きな雪庇が行くてを遮っていた。頂らしき場所,地形を頭に浮かべ比べるが分からぬことが多い。 右にツメを巻き,スキー板が絡むのでツボ足で回り込んでみた。雪深く膝までボクボク潜り,足を抜きだすのが大変で,先に進めず。 腰を越す落とし穴に繰り返し遭う。新雪がドンドン流れ,枝尾根に回り込んだが,馬力のみを要した。 ガスが視界を閉ざし,藪との絡みが酷くなり,落ち込んだ対面のルンゼをシールの間々下ることにした。 エッジから生み出された雪塊と共に,斜面とエッジを平行させずり落ちる。 泡雪が背丈以上に高く舞い,エッジからは切った雪塊が小さな雪崩れを起こし,共に落ちる。そして狭い急ルンゼから沢沿いに入った。 s45年04月,霧中の飯士山ツァー 諸感Top 帳・・・岳沢 頂稜 闇を気にしない内は,高々と昇っていた陽も,もう一時で沈み行き,又重い雨雲がこの雪と岩の王国を支配する。 ゆっくり谷間を這い昇って来た夕陰は闇に包まれ,黄昏が穂高の峰々に迫っていた。 岳沢のカールを徐々に埋め,谷から湧き生ずる白霧は黒い霧のベールに塗り変えられている。 そして目の前に広がる吊り尾根を横切って,頂稜を被い閉ざし始めていた。 立体感を失ったジャンダルムの山稜は黒屏風の峰に変わり,裾野はいち早く帳が落ちた。 「さぁー,早く降りなければ!」と暗黙の世界が僕等を待ち,雨が降りだすばかりに待っていた。 岳沢の径 明神の雪渓を詰め,前穂の吊り尾根を仰いだのが5時,黄昏が頂稜を漂っていた。 錫丈,穴毛の岩場を狙い,荒天にむせび,上高地に入って漸く豊富な残雪を踏む。その喜びも帳と競わなければならなかった。 誰もがランタンを持たず,田中さんは靴擦れができたと嘆く。 梓川河畔に明かりが点り,穂高の山々はもう完全に帳に包まれた。闇に浮ぶ岳沢のゴーロも,おぼろな白光を放っている。 山の凱歌も忘れ,ぼんぼん降りた。僕を追う見城さん,早く駆け下りて幕営しなくてば。岳沢の帳径は河原を抜け樹林帯へと入り込む。 今までどうにか留まっていた微光も途ざえ,五里霧中の深い森が待ち構えていた。 うっそうと生い茂る巨木林に下草は生え,連日の雨がひっそりした森を更に湿気漂う,深い闇の森に仕立て出している。 森に吸い込まれるよう駆け下りた。 野鳥も啼かなくなった闇の世界に,足音は妙な響きを立て,水溜まりの跳ねる音だけが返ってくる。 駆け下りるだけで,森のどの辺だか場所さえ分からない。 靴紐 靴紐が解けたと見城さんが足を停めた。僕は黙って径脇に腰を下ろす。 昼間の生き生きした森は獣も,野鳥も,樹葉に漂う山気さえも,じっと堪え,森の全てが深い闇に押し込まれているようだ。 うずくまって靴紐を直していた見城さんが,「真っ暗になった!」,「さあ,急ごう!」と声を掛けた。 はっきり確認できぬ先輩の人陰が,僕の前に起き上がってきた。ぼーと,黒い影が被いかぶさるように。 林道 林道にでて幾らか明るさが戻ってきた。明るくなったと云っても闇に星が輝き出したわけだもなく,闇に目が馴れ切っている為だった。 ちょっと白味掛かった明るさに,何とも云えぬ頼もしさを得,どっと今までの疲れが帰ってきた。 もう梓川左岸を幾らか行けば照明を光々と飾した幕営地にでる。僕等は熊笹の小径を抜けて,西糸屋の裏にでた。 s45年07月,前穂高,明神主稜 高瀬川の野猿とダム工事 槍ケ岳下山 何を勘違いしたのか,見城さんも鈴木も正味1時間半の行動と思っていた。 それが歩きに歩き,湯俣から七倉まで十数キロの道延りが待っている。気分を一新するかのような晴天だった。 右岸沿いの落葉径,樹葉に漏れ込む太陽と紅や黄色く染まった落葉の山径が続く。 山猿の集団 トップを歩む中沢が急に立ち止まり,「猿だ!」と指を指す。僕等の歩む数歩前方に,山猿が悠々と僕等を先導していた。 山猿だと目を見張る僕。それは僕等を意識しているのか,していないのか,悠然とした態度で軽々と手足を動かしている。 涸沢を越え,幾らか尾根の張り出した所まで猿に導かれるよう歩くと,河原にも何か黒々した物が動めいていた。 よく見ると猿の集団だった。冬走りに備え猿の大移動と云ったところかも知れない。 川を下り気味に中洲にも,川の中にも,左岸の樹葉混じりの崖縁にも,黒々とした猿がいた。 それも観察するよう見詰めると,日向ぼっこするように動かぬものも居れば,年中動き回っている小猿もいる。 まだ可愛い子猿の傍には必ず親猿がいた。 先頭にはガッチリした猿が3匹, 群団とは少し離れ先鋭として,川下に向かっていた。 規則正しく群れをなし,初めて見る者でも分かる程,統率力が満ちている。 冬越えを裾野で過ごす為の大移動, 先頭は僕等を意識しいるのに無視している。否や,そう思える。 一見しただけで20匹,よく見れば40匹も居るだろう。彼等も黙々下っている。陽は更に強く頭上から照り出していた。 高瀬川上流 高瀬川,ダム工事 貯水池のある発電所から船窪の頂稜がよく見上げられた。霞みもなく,紅葉樹を透し不動沢の鉢底が見え隠れしていた。 真直ぐ高瀬川へ落ち込み,涸れた川底の出合は更に明るく照らしだしていた。 川が変わる 数年前,北鎌尾根へと意気揚々と歩んだ軌道も取り外され,鉄橋もなくなっていた。 高度1236mの河原, 僕も鈴木も唖然とする。河原には掘採機が幾つも入りダンフが唸っている。 そして新たな仮の車道が出来てしまったどころか,七倉までの道7,8キロが右岸も左岸もあっちこっちで各工事が行われていた。 関西電力が大規模な工事に着手したらしい。 工事現場 僕等は丸っきり変わってしまった濁で,ヘルメットを被せられ,工事の行なわれている河原の真った中を歩かされた。 行き通うダンプ,トラックの往来は激しく,埃と機械のけたたましい音が谷間に響き渡っていた。 仮に出来た河原道,そして左岸に出来つつある車道と。僕等の目の前には数えられぬ程の坑道が掘られ造られている。 数年前,上高地からの下り,梓川でダム工事現場に出会っている。ダムの現形がほぼ出来上がり要塞のような壁が沢を閉ざしていた。 その時はヒッチハイクでやはり,沢の中央に造られた仮道路を車で通させられていた。 後6,7年たてば梓川下流のよう,アルファルトの道が山復深く入り込み,湯俣も上高地のようなってしまうのだろうか? 山ノ神を過ぎても工事場は尽きなかった。右岸の崖縁にもケーブルを架けた工事場がある。 七倉でヘルメットを返し信濃大町へ下る。トラックに便乗し,秋たけなわの山腹を縫いながら高瀬川を下った。 霞みの帯びた餓鬼岳が,荷台から見上げると紅葉に染まる樹葉を透し,悠然と聳えていた。 高瀬川中流 s45年10月,横尾右俣より千丈沢 諸感Top 捨て身のビバーク 雪穴 スキー板をスコップ変わりに,雪穴を掘り終えた頃,日はとっぷり暮れた。時は17時を回っている。 二人が漸く寝じり込んだ雪穴は雪洞と云うものでなく,即席その間々の安易な掘りだった。 積雪の多そうな所を上から掘っただけの縦穴である。屋根にはビニールを利用し飛ばぬようスキー板を載せた。 靴下を替え,うつらうつら眠った4,50分,もう寒気で起こさせられた。 寝られぬ寒さが来る前に少しでも寝ようと,穴倉に入り直ぐ寝込んだが,目覚めは早かった。 まだ宵の口以前だった。これからは寝る事もできまい。 口に入れたのはザックに残っていた板チョコ半枚と一握りの菓子,互いに分け合い長い夜が始まる。 9時,10時,11時,12時,規則正しい間隔でライターの炎は燃え,腕時計は進まぬ針を示している。 その都度,一瞬の明るさが芽ばえ,明るさに暖かみを覚えるも,一瞬に又,闇へと逆戻された。 ガスライターの残量が分からない為,長く使えなかった。時計を見ては消すようなる。 暗くなると何とも云えぬ冷たさが僕の周りに迫り,早く夜が明けぬかと気をもめていた。 長い夜 0時までは,まだ徐の口と窮屈な身で我慢しているが,1時を過ぎると急に身がもだえ,体の不自由が気に掛かりだす。 食糧はなく,ピンチ食もない。野宿を決意してから8時間が経っていた。 ザックを敷き膝を手で抱きつく形で,見城さと向かい合わせに頭をもたれ座っている。 寒気から逃れようと両足を叩き体をくねらせ,不自由な膝さえ動かそうとしていた。 動けぬ形を少しでも伸び縮みさせようと無意識に近い動作を繰り返していた。 屋根にしたスキー板の重みが,次第に雪穴の空間を狭めている。身は更に丸め込み,動きは更に小さくなる。 そして雪層の壁に当っては,また身を鞠のよう小さくさせていた。 雪中の炎 2時,やはり夜明け近くなると冷え込みが増してきた。尻に敷いていた雑誌を取り出し,1枚々ページを破いては,細かく巻き炎を点す。 それ程高い炎ではないのに屋根のビニール届きそうになり,周りを一瞬明らめ見城さんの顔を浮き出させていた。 仄かな暖かさが炎に現れ,消える都度惨めにな気を起こさせている。 炎は極一部分の空間を暖めていた。筒状に昇った暖かさが,屋根変わりのスキー板の間を抜って,雪の雫を落としている。 雑誌の何ページかが燃え,その上の淡雪が雫となって落ちる。 目には見えぬ筒の空間に雫の雨が増してきた。この現象は紙をくべぬと又,全てが闇に閉され,雫は炎と共に凍結した。 明るさを失うと,咄嗟に氷つく雫。2度目に気が付いた。 外の河原には相変わらず,山越えの勇ましい列風が,我がもの顔に吹き抜けている。 コンロもローソクさえない。ライター1個の侘しいビバークに,山は叫び狂っていた。 s46年03月,風雪の吾妻惣八郎平 マッチとライター 最近,どの喫茶店,呑み屋でもマッチをだしている。PRの為かデザインも色々豊富で凝ってきた。 大きさや軸木も変化させ,マッチの軸元を繋げてあるアイデアのあるものまであった。 かってマッチの軸頭は黒が当たり前だったが赤が現れ,黄色や白も多く多彩になってきた。ただ黒,赤以外は点きが悪い。 特に白は湿気をおび,山には向かないマッチになっている。 それに比べライターは片手で使えて便利さはこの上もなかった。 電子ライターは風に強いが高価過ぎる上,濡れると用がただず山用には不向きである。 風に強いオイルライターも水に濡れると不能となる。軸が布地の上,隙間が多過ぎ,下山するまでに回復はなさなかった。 普通のガスライターが万能に思える。風に弱いが水に浸かっても,芯が石の為擦り続ければ点く。沢登り,雪山に最適。 僕はマッチが好きだ。濡れるのに気を使うが風には以外と強い。 マッチを持った片手を丸く包み,もう一方の手でマッチの軸を手前に擦り込ませると,一瞬の大きな炎と共に煙草によく点いた。 又ライターより美味い気がする。 今回の吾妻山ツァーはライターだけを持参した。ただ透明のケースでなかった事が災難を呼んでいる。 ガスの残量が分からず,不安で長く点け続ける事ができなかった。 ローソクもなく,ライターの炎は緊急ビバークの時程,頼もしいものはない。まして雪の中では。 夜明けまで何度も擦るった青い色のライターが僕のポケットに忍ばしてある。 s46年03月,風雪の吾妻惣八郎平 諸感Top 二人の乙女 横尾生活 横尾への径,仲の良さそうな若い2人ずれと知り会った。 「お染め」と「八重ちゃん」と呼ばれる彼女達。道中ずっと一緒だったとの事。 そう云えば新宿駅で見掛けた彼女達, 長いフランスパンとジュースの缶が印象に残っている。 彼女達は登攀用のヘルメットを工事用と間違え笑っていたらしい。 梓川左岸の散策路を気間々な足取りで,横尾へと向う。 テントに遊びに来たいと云う彼女達に晩飯を頼む。味と炊事の仕方はやはり女の子。 横尾山荘,一泊\1400,3泊すれば2人で\8400になる。冗談でテントに移るよう薦める。 居れば炊事の手間も省けるし,雨の止まぬ陰気になりがちなキャンプに花が咲く。 二人の訪問者 朝,例の2人がザックを背負って入り込んできた。 昨日から雨が続き,うんざりしている。屏風の登攀を諦め明日に期待するも,時折強い雨が吹き込んでいた。 その雨の中,わざわざ小屋を引き払ってきた。 暇を持て余していた僕等には大歓迎だった。 可愛いお嬢さんはヘァースタイルとチャーミングな言葉で僕達を楽します。 八重ちゃんは高橋八重子嬢,育ちの良い娘さんである。富士銀行,事務センター勤務,休暇を利用しての旅行。 一日中,暇なので長塩と,ね堀り,は堀り聞きだした。 夜半 二女にシュラフを取られ,長塩と僕は,気侭に寝転んでいだ。 一時の小雨も再び本降りとなり,テント内は沁みから漏れ始めていた。 この雨の中,よく我慢出来ると感心するも,彼女達は全く気にしていないようだ。 寒くなり夜半,コンロを点ける。ゴーゴーと心地よい音色がテントに響いた。 彼女達も起き出し,濡れた靴下を乾かしだす。口数も少なく,互いに炎を見詰め時間だけが過ぎていた。 彼女は炎に近ずけ過ぎ,靴下に穴が空きだすも乾かし続けている。 4人が囲む炎の明かりから,ぼんやり各々の顔を照りだしていた。肌寒く体を丸め,顔と手だけが互いに近ずいていた。 雨は止みそうもない。明日の登攀も諦めるか? 大滝を希望する彼女達を宥め,明日は残雪を見せに涸沢まで散歩しようか。 s46年06月,横尾生活 平瀬の沢 馬坂沢本谷 全く平坦な,それでいて沢巾一杯に清流が洗い,両岸は幾らか色付けられた色付いた森明るい平瀬がその中を横切っている。 地図では読めぬ蛇行が大らかに続き,ふと上高地,梓川を思わす風景。清流の渓谷美に酔いながら浅瀬を遡る。 殆ど足を漬けぱっなしの遡行,膝下の水位で幅広く和やかな流れ,ブナの巨木が沢沿いを被っていた。 緩やかな曲線を描き,静かにうねる馬坂沢。瀬と云うより浅い滑トロが続いている。 沢底には浮石もなく,明く何処までも沢幅一杯に,あっても膝代の水位を保ち舐めるよう流れている。 それでも高度は気持上がっているが紅葉美は少しずつ,赤みを増していきた。 ガレ落ちる谷間の圧迫感は,まるっきりなかった。瀬々らぐ沢は森を縫い我々を癒す。早くも僕は快い満足感に酔い知れていた。 散策的な気分が1時間以上続いた。沢に漬かり遡りながらである。 栗のような実が木陰一面に落ちているブナ林の台地を見詰めると,岸辺には山ぶどうがなっていた。 まだ早いが熟していそうなものを摘み,沢に漬かりつつ食べ歩く。 この右手には広々とした森を切って,沢から一段高い所にススキの台地があった。全く平なススキの原,もう穂を出しキャンプに最適の所だった。 昼頃東京をでて,この辺で野宿するのも好かろう。そして又,山ぶどうの群生する砂礫帯になっている。 ここ程,焦らず歩かねばならない沢はないだろう。深い森を綴る湿原のような流れ,贅沢な癒しの渓谷があった。 息を荒わしく遡れば森に怒鳴られそうな渓である。 少実1時間,幾らか沢は狭ばまり,ゴーロと土砂の荒々しい中流帯に入て行く。 まだ出合との高度差も殆どなく平坦な沢が続いていた。 魚影 両岸の堆積が甚だしくなった所で,初めて2m程の魚留の滝にでる。 釣師には絶好の所だ。魚は多い,敏感な山女魚は人の気配を感じ,一瞬にして岩陰に隠れてしまった。 流れてきた道糸にカジカが掛かっていた。ハリスが切れ,そのまま生き延びたようだ。二俣近くまでトロは続いた。 s46年10月,鬼怒川支流馬坂沢本谷,無名沢(サル沢)遡行 ピッケル1本持ち 御殿場 富士へ雪を踏みに行こうとマタが我が家に遊びにきた。大川は,私の防寒具を持ち出している。 私はピッケル1本持ち車に乗り込む。 どうしようもない仲間 マタは山へ登るつもりで大きなザックに冬山装備を詰め込んできた。 大川は背広で現れ,私の山道具を屋根裏から持ち出した。二人とも雪があれば良いと。 結局,でかい斜面を持つ御殿場で選ぶ。 雪は新二合目を越えると大地を埋め尽くしている。誰も居ないスキー場はリフトもなければ看板もない。 縺れる足で大須走りへ。大斜面が広がり,その上に馬鹿でかい雄大積雲が黙々と湧き上がっていた。 その中へ入り込むようマタが歩き出し,どんどん小さくなった。大川も別の雪斜面を歩み点になっている。 雲の切れ目 重なり絡み合う雲の渦が切れ,漏れた切れ目から陽光がその隙間を透し雪面を照らしだした。 射す陽差し,白光の帯状の光線が大地に照り付け,其処に天と地の境が創造された。 そして境の目は,輪となり開かれ,蒼空を我々頭上に大きく現しだしている。 自然の超越した力が浮き雲の如く現れ,我々を被い周りを照らしだている。 神々が大地に降りるよう。その神秘さを私は感じせざる得なかった。暖かく見える陽差しを浴びるも体は振えていた。 s46年11月,御殿場大須走り 山行を綴るトレース 雪壁を抜け 1月を迎えた後立山,垂れる汗でラッセルが快い。傾斜は益々増し,最後の雪壁を越すと,頭上は蒼き濃い空になる。 雪庇を崩し岩小屋沢岳の頂稜に立つ。風を避けツエルトを被れば暖かい。 眼前に白さを強調するかのよう峰々が飛び込み,眩い白稜が紺碧の空との境を築いている。 後立に始まり,剣岳から南下して槍の穂まで,北アルプス全山が見渡せられた。 眼下に籠川の雪原が,眩い白さで煌いている。 針ノ木岳から続く奥深い谷は扇状に広がり,照り付ける雪面に,眩む明るさを照り返していた。 強い陽差はゴーグルを通しても,きつい。 トレース 今,雪塊を崩し分け登って来たトレースが,足元から雪壁を越え,雪稜から籠川の雪原へと伸びている。 昨日,出合へ入ったトレースが,その間々一本の踏み跡として,好天に恵まれこの頂まで綴られていた。 この広いカールに我々だけの,たった一本のトレースが刻まれ望まれる。 蟻の道のよう思えるラッセルしたトレース。自然の大きさに自分が如何に小さいかを思い,黙々ラッセルしたトレースは凄くも思えた。 蟻が這うように登ったトレース。私はその頂点にいる。 針ノ木の谷間から詰めた雪稜はその上に更に幾つも頂を乗せ,槍穂の頂稜を紺碧の空に聳え立たせている。 槍穂を望み,後立山の山々が山波のよう広がった。 この数年,新年は好天に恵まれ,冬山の良さばかり感じ取っていた。 s47年正月,岩小屋沢岳岩小屋沢尾根 諸感Top 白布の共同風呂 白布高湯 私と見城さん以外誰も踏み込まぬ吾妻の森に,自ら描いたシュプールが1本のトレースとなって刻まれた。 猛吹雪の後の白布のゲレンデ゙に既に人影はなかった。まだ時間的には早いと思うがシュプールさえ消えていた。 何と贅沢な遊び。地吹雪に遭い,苦痛で諦めた後の数十分間の滑降に満足感が溢れ,吾妻とは又,切れ難い縁に結ばれた。 共同風呂 西吾妻山から白布高湯に戻ったのが17時過ぎ,早速,米沢駅行乗合バスを待つ間, ビールとおでんを持ち村営風呂に飛び込んだ。 一日の行動を終え,冷え切った体に湯はビリビリ沁みた。湯が足元にジーンと沁み体が火照ってくる。 我慢して漬かる湯舟は何とも云えぬ心地よさがある。 共同風呂の玄関まで風雪の頂稜から里の湯に滑り込んだ快感は,素晴らしい。 吾妻山を横断する小野川湖へのルートを断念, 初めてバッケンを外し,軽くなった足でスキー板を「高湯の湯」脇に立てた。 道路の向いに小さな雑貨屋らしき店があり,おでんを煮込んでいた。ビールを問い,串差しを何本も持ち湯殿に飛び込む。 変な話,湯殿に着替え棚があり,便利だが脱ぐのに苦労する。何故なら両手いっぱいに,おでんを持っている。 置くことも出来ず苦労し,漸く湯殿に入り込む。熱くもあり,その耐える我慢がまた心地よい。 浸かりながら呑むビールは美味い。二人で漸く我慢に我慢し浸か,それまで我慢した一杯のビールが喉を通る。 言葉には出せぬ無言の快感で溢れていた。言うなれば旨い一言に尽きる。 おでんをほうばりながら湯殿に浸かり,又出る事を繰り返した。贅沢でもあり,また忙しかった。手いっぱいとほうばる口。口はよく動きよく喋った。 再び小野川糊へのツァーを試したい気もする反面,この思いをそっとして置いて置きたい気もする。 白布の高湯を去った時,もう日もとっぷり暮れ,スキーヤーは,大型バスに私達二人だけだった。 バスの一番後ろの座席を陣取り,誰も乗らぬ乗客に,バスは雪降る中,米沢に戻る。 s47年(1978年)02月,荒れ狂う吾妻,西大嶺ツァー 2011年10月,吾妻山南下・・記憶の残る多くの建物を失った白布高湯 山上で模型飛行機を飛ばし 模型飛行機 前の日,鈴木が我が家へ遊びにくる。 普段着でザックも持たず,山仕度もせず。何処かへ行こうと。酒を呑み,何故か模型の話になる。 昔はよく浅草橋で色々な模型やプラモデルを買い,秋葉原では動力源のモーターやトランスを買い込んでいた。 山と模型, 簡単な方程式を見出した。 竹と紙で飛行機を作り,ゴムで飛ばす。高い山の上からである。 場所は鈴木に任せ,早速近くの模型屋で購入し作りだす。2時間足らずで出来上がり,近くの公園での試験飛行は上手く行く。 操作は鈴木の方が上手いかも知れない。 双子山 車を飛ばし麦草峠から場所を変えた双子山へ。もう朝の清々しさを越し,真夏の強い陽差しを浴びていた。 裸になり短パン1枚で佐久の谷を望む。 1発勝負の飛行に,ゴムをいっぱい巻き,谷に向かい離す。 幾らか落ち気味に飛行し失敗を思わせた時,飛行機は旋回するよう上昇気流に乗りだした。 水平に,更に少し上昇した後,下降し見る見る小さくなって行く。見つめた目では長く感じたものの,終わって見れば,あっけない終わりだった。 蓼科から望月へ,鯉のタタキを舌つつみし,縁側で夕立の涼みして,中山道にでる。 s47年08月,麦草,双子山 侘しい正月 侘しかった正月 トレースから見て,今年の正月も籠川谷に入る登山者はいなかった。我々が独占し続けて3年になる。 籠川谷左岸,鳴沢尾根末端の高台にベースを設け,明日のアタックに意気揚々とし田沼と2人だけの夜を今回は迎えていた。 天気は如何にか持ち応えているようだ。圏谷を被う大空はまだ星が煌いていた。 翌明け方順調に鳴沢尾根のツメまで登るが,主尾根の直登は無理と判断し,計画通り左のガリーを横切り,頂にでる積りでいた。 ただ思いの外ガリー幅は広く,積雪も薄い。フリーではバランスが取れるルートではなかった。ザイルは届かず,もう1本を必要とした。 道具不足でトラバースできず,暫くそこで大休止した。そしてベースに戻っている。 再度,アタックも考えたが,トラバースするには翌日の方がが危険と考えられた。又,直登は最後のツメを越える技術はない。 今回は2人のスピーデな山行の筈が,逆にツメまではスムーズに到着している。ガリーが閉ざされ,最後の一歩が如何しても無理だった。 登頂できず,天幕に戻り先を考えていた。針ノ木岳へのピストンは今から2人では詰めるのはこれ又無理だろう。 下山 登頂せずの停滞, 天気も崩れだし,先への見込みもなく,気が抜けたようで急遽下山することにした。 それ故,撤収は午後近くになり,列車は夜行,新宿駅は朝帰りになる。 上野 マタと2人,我が家で酒を交わすが,それ程強くないマタは適ほどで顔を赤らめ,ゴロゴロ寝転びながら酒を汲み交わしていた。 家には2人しかいず,又正月風情もこの数年,正月は山に入り続け,よく分からなかった。 正月早々,家で自炊するのも可笑しいと,外へ昼食を求めたのが失敗した。上野の歓楽街,1軒も開店した店舗がないとは考えもしていなかった。 街は寂しかった。正月を東京で過ごすのは7,8年振りになる。 歩き回るも上野駅周辺では一軒も開店していなかった。駅に売店があればと探すも上野,駅構内の売店も締っている。 歩きに歩いた末,上野駅で別れる嵌めになる。東京でも最後は情けない話しで終わった。 s48年正月,敗退の鳴沢岳鳴沢尾根 ビールを呑む為の登山 至仏山 先日,燧岳から会津駒に抜けたばかりなのに,又尾瀬に入る。 燧岳の頂から望んだ至仏山。余りにも伸び伸びとふくよかな白い乳房のような斜面が,スキーに来いと呼んでいた。 雪面に寝転びビールを飲もうと,週を改め再び見城さんと晩春の尾瀬に出向く。 尾瀬ヶ原の湿原を埋める雪原も一週間で大分溶けている。 まだ緑一面とは程遠いいが,疎らな中,春の兆しが強く伺えるようなる。 足元からも残り雪を破り,新しい芽が起き始めていた。 そして水芭蕉の季節が遣ってくる。スキーを持ち,東北に登る山の季節にもなってきた。 目的のビール 至仏山の頂で,山頂に立ったとビールで乾杯。シールを外し2本目はあっと云う間に下り,雪屑を散りばめた斜面でビールを呑む。 汗を掻き乾いた喉が快い。冷えたビールが喉を通り,体の隅々まで沁み渡る。 山で初めて目的通り,ビールを呑んでいる。過ってビールを呑む場所を選んで望んだ山々がある。 上越,赤谷川本谷の源流だった。持参するも雨に叩かれ,雪上で汗を掻き呑む筈だったが肌寒く諦めていた。 その上,残雪期の藪山は悲惨な山行になった。迷い迂回を繰り返し,休めば防寒具を着ても寒かった。 山ビールはOBになり,よく呑んだ。ただ今日は違っている。目的の山で強い陽差しを浴び,喉を潤している。最初からビールを呑むための岳だった。 旨い一言が,全てを語っている。 陽はそれに負けぬよう高く輝き,雪面を煌さす。袖を捲くっても暑い程だった。 s48年05月,晩春の至仏山スキー 残雪の谷 足拍子谷源流 春の谷は,様々な変化を伴い,我々の行く先々を限りなく魅了した。 深く残雪に覆われた谷間は春と共に豊富な残雪を谷に落し,デブリを築き,雪塊は割れ,フランクフルト,ブリッジと渓相を変えて行く。 若葉に萌えた新緑に残雪,そして雪面を割る滝の数々。初春とも違う不思議な魅力が備われている。 包容力ある残雪は低い山々にも深みを与え,我々に四季の壮厳な神秘を自然と植え付けていた。 真夏の平凡な藪山に,深みを与え,幽谷剣悪たる谷を埋め尽くし,知る人だけが悟る山を構成していた。 藪と雪, そこに春山ならればの残雪の山の原点があるようだ。 私の想像通り,足拍子本谷は,全て違った雰囲気をかもちでしている。 まだ人馴れしていない渓谷は荒廃し,自然その間々の姿を秘めていた。 上越背稜の山々からは前衛的に見られがちな山々。山自体は距離的長さには乏しいが時間に合った条件を備えている。 そして深みに於いては,それ程単純な渓相で答える事はできなかった。 ベラボウに広がる足拍子の岩壁が大スラブを築き,重い威圧的な漂いが,この2000mにも満たない足拍子の山塊にある。 ここには秀美を誇る独峰はない。雪崩に磨かれた1枚岩は巨大な重壁を築き,今尚,高度900mの地点に巨大な残雪が口を開け,待っている。 私達はこの渓相を驚きと圧倒のみで受け止め,大高巻きせねばならなかった。 私の心は湧いている。知る人ぞ知る山渓に異様な山塊が在ったことを。 s48年07月,雪残る足拍子岳本谷 諸感Top 雪の山寺で野宿 弥勅寺,横門前 中峰尊者を拝する天狗が数多く奉納され,その中でひときは大きい大天狗が,ツエルトを被った私の真上に覆い被さっている。 そして足元には,雑然と投げ込まれた小銭が散らばっていた。 弥勅寺の正面左の横門前の隅を借り野宿した。雪はしんしんと降り注ぎ,身を丸めているものの,石畳から冷気が湧き出し足が震えだしていた。 これで寝ることができようか? 全ての衣類をザックから出し身に付ける。靴下には手袋とオーバー手を使うも,それでも寒さが,じわりじわり忍び込む。 更に寒い隙間風が気になりだすと両足の膝が震え,止まらなかった。寝るどころではない。 大天狗を仰ぎ,不気味な雰囲気で侘しく夜が明けるのを待っている。 山寺での野宿 殆ど眠れず朝を迎える。雪の野宿とは違い,家があり軒がある露営は,気をずぼらにした。 その上,石敷の床は自然以上の厳しさを持っていた。周りは新雪の壁,綺麗に除雪された玄関脇に宿る。 石畳底の周りから忍び込む冷気,それが体全体を包み込むよう這い上がり,体の隅々まで浸す。 足どうしを叩き手を擦り。頭には目出帽を被り,フードを深く差し息を殺していた。 それでも石畳の床からジワジワ凍み出た冷気は体を浸している。体を蝕む寒さが襲い,身は拒むことすらできなくなった。 睡魔は壊れていた。動けぬ体が振え,時計の針は進まずにいる。闇は飽きることなく長かった。 闇のほころ日が闇を崩すよう這う勢いで明けだした。 猛烈な寒気が体を襲う。足を動かし叩くも我慢できぬ寒さに,床からの寒気が流れ込み堪えられなくなった。 両足の震えは停まらず。最後だと思い耐えるも,又留まれぬ震えが遣ってきた。 余裕もなく覗めぬ大天狗。漸く天狗を覗めた時,白みがおぼろに漂い,夜が明けだしている。耐え切った自分に明るさが増してきた。 もう少しだけ我慢すれば朝がくる。闇が薄れ,おぼろな明るさが目に馴染み,次第に周りを明らめる。 明け方,坊さんが顔を出し朝食を勧められた。無断で宿ったが坊さんは知っていたようだ。案内され壁なき手摺のない渡り廊下を渡る。 暗闇から急に朝方の明るさを受け,外は眩く光を放っている。 その上,廊下両側の積もり雪が反射し一層,目を眩まさせていた。眩い明るさの中,雪はまだシンシンと降っていた。 s49年03月,雪の山寺,上州,迦葉山ツァー 新緑の谷 大源太山 新緑に緑の色が微妙に絡み合い,清々しい色彩を放っている。 濃い緑に淡い青葉が溶け込んで,一層緑に深みを持たらしていた。澄み切った空に若葉の香りも乗せている。 私は胸いっぱいに吸い込み,目と鼻で楽しんだ。そして谷間は豊富な残雪に埋まり被いだしていた。 谷間は長い残雪の帯びに埋もられている。新緑の山肌を挟むよう残雪が横たわり,春の汚い雪渓を繋れている。 クレパスとデブリの山,そこに覗き込む滝壺と岩壁。僕等はその雪塊のヘチを降り,硬い残雪を詰め雪渓上に一歩を踏み込んだ。 クレパスから大きな雪のブロックへ。沢登と異なり,残雪多く楽な登行となる。だがヘチのフランクフルトは大きく,谷底深く覗かしている。 増して枝沢出合付近では,尚更,深い堀を築き,デブリの底は覗くこともできなかった。 うわべで見る沢のスケールとは,まるで違う深みが,春には潜んでいる。それが越後脊稜の春山のよさだった。 藪は少なく残雪は埋もれている。好奇と冒険の目でピッケルを刺し,望む岳。この残雪の谷間に入る者も少なかった。 s49年05月,大源太山北沢 ユーホーか? 栂ノ沢出合b 米子沢中流二股,栂ノ沢出合の河原で野宿する。 焚火を囲み遡行の凱歌に酔い知れていると,向かいの尾根,裾寄りに,如何にも赤い月が現れた。 後輩が「やけに赤い月だ!」と言いだす。皆で見上げる満月近い月は尾根より幾らか高い所に昇っている。 見城先輩も「ホントだ!」と言葉を吐く。 「馬鹿な!」と。満月の綺麗な満月が,その尾根を詰めた頂稜付近に昇り,頭をだし頂稜を照り付けていた。 幾らか黄色味掛かった真っ白い月が。尾根上に昇り,赤い月と2つの月がある。 私は左上にある本当の満月を指で示した。まるっきり同じ大きさで似ていた。尾根からの高さも似ている所にあった。 狐に包まれた間々,斎藤が「ユーホーだ!」と叫ぶ。皆,見比べ同調するかのように「ユーホー!」と叫んだ。確かに2つあるのが不思議だった。 雑談に酔い,枯木を足し,炎は陽々に燃え,ナベに次々に食材が加えられていた。 酒に酔い気味かも知れない。でも全員が見ている。赤く燃えるような月を。 誰もが気が付かない内,ユーホーは居なくなっていた。消えた一瞬を見た者は誰もいなかった。 満月の月は少し尾根より昇り,右上に動き留まっている。消えた赤い月,あれはユーホーだったのだろうか? 再び s57年秋,国道4号線,北千住荒川新橋で実家から帰る途中で,同じ形のユーホー?を見ている。 下り線の東側,初めは南千住上空のアドバルーンと思っていたが違っていた。オレンジ色の少し燃えるような円が空に留まっていた。 妻が最初に「ユーホー!」だと叫んだ。8年前,巻機山で見た同じような月を見る。 家族全員6名が見ている。やはり数分で消えているが,今回もその消える場を見ているものはいなかった。 s49年秋,紅葉の巻機,米子沢, 親子,初めての山の湯 里への径 柔らかな陽差しに新緑が冴え,下る程に広川の谷間が広がってきた。急な取り口を下ると狭い谷間に,里道が延びている。 瀬々らぎの音が聞こえて来ると,里も開け砂利径から狭い舗装された道になる。そして車道にでた。 開墾された緑が広がり,林の並ぶ車道が続いている。駆け足で下った子供達の足も自然に歩調を緩め,里の道を親子で楽しんだ。 そして高速中央道が見えると目指す宿が現れた。 美女谷の湯 階段を幾つか越え奥の部屋に通される。 一つの山,陣馬山を越えた喜びで子供ははしゃぎ,小さな部屋を廊下をと探検しだした。 風呂がよい。総檜で古い木の温もりが伝わってくる。 高い天井に窓を開ければ,沢を隔て山肌が新緑の壁となり,春の瑞々しさを漂わしている。 隆史,博史が窓越えに顔を出し,隣り合わせの風呂にいる真佐子と話しだし,私は湯殿に浸かり,子供の会話を楽しんでいだ。 出発時新宿駅で予約した料理は子供料理でよいと云う宿の薦め通り,料理は贅沢だった。 手を抜かなぬ子供の料理が並ぶ。テーブル一杯の皿は数だけでも多く,喜んでいた。 実際,大人との差は鹿の刺身のみだった。程よく飲み,程良く食べた。その後の山行は,必ず風呂に通うようなる。 s60年04月,春先の裏高尾陣馬山,底沢へ 諸感Top 壬生道の雑貨屋 壬生街道 自宅から日光白根山へと子供達と歩く旅を続けている。 今日は公家に関する地名が多く,古墳,遺跡も多い壬生町をアイスを齧りながら歩んでいた。日光街道喜沢追分からの道に入る。 日曜日で車の往来が多いと思うも,壬生道(小山〜楡木間)は人と出会うことも少なった。 連休最後の日,ただ強い陽射しの暑さのみが増していた。先に杉並木を従えているが,街道はのどかさで満ちている。 この日の街道は日光への抜け道にもなっていないようだった。 七ッ石,バス停前で昼食 11時,壬生を縦断し,日光西街道を北上するも,昼食を摂る食堂を探すが1時間歩いても,まるっきりそれらしい店はなかった。 店らしい店もなく,陽の照り返しのみが強くなっている。 七ッ石バス停前で雑貨屋を見付けた。この辺では間口が狭いながら大きい雑貨屋に思える。 商品もマァーマァーあり,ケース棚類も多い,ただ暗く照明のセンスは悪い。子供の欲しがる新しい食品はなかった。 気侭に棚からラーメン,焼き蕎麦を取った。久し振りの即席ものである。 主人に湯を頼みインスタントの食事を摂る。何時も1人\700位の食事が,4人で\600になった。 店前は国道,ベンチに座り,この時だけは美味しくインスタント・ラーメンを食べる。 薬缶に湯を沸かし持って来る店主,のんびりした風景だ。通う車も疎ら,人影は全くない。 強い陽差しに空は高く広がっていた。蒸す暑さにビニールの庇が快い。又斜め先の道路脇に節句の鯉登りが泳ぐ姿を見る。 今回はこの先,無人駅,楡木で旅を終えている。 s61年05月,第五回,日光歩き旅,小山遊園地〜楡木 時刻表に無い駅 楡木駅 日光への歩き旅,このところ東武,JRと交互に乗るようなる。小山遊園地から壬生通りを抜け例幣使街道に入った。 今日は子供の日,混むと思っていた街道も,拍子抜けする程,車の往来は少ない。 春の陽差しが早くも傾きだした頃,東北高速道を潜り鹿沼の町に入る。 更に北上するか,ここで止めるか悩む子供達。最終的には隆史の考えを入れ,楡木で終える事にした。 東武楡木は無人駅,駅舎は木造の可愛らしい駅だった。駅周辺500m以内に雑貨屋と云うより自動販売機は一台もなかった。 場所がら信じられない事が起きている。駅近くは食堂もなく,ラーメンでも食べようと思うも全てが違っていた。 子供達も全て諦めている。探し見て無いものは無いと。 車内で切符を買う。電車は2両,楡木駅の大きな時刻表にも駅名は載っていなかった。 私には考えられぬことである。駅があり駅名が「楡木」とある。鈍行もチャンと止まる。だが時刻表では飛んでいた。 時刻表にない駅がここにあった。 その後,新栃木で乗り換え浅草に出る事となる。交通の便は極めて悪い。距離の割,時間ばかり費やした。 翌月,「日光への歩き旅」は再び楡木へ出向くこととなった。 やはり楡木駅へ列車で出るには不便な所だった。妻に変わるも朝方6時に自宅を出て,楡木駅まで4時間を費したと云う。 乗り換えの上,下りの連絡が全く悪い。楡木駅に着くまで飽きに飽きた道中となる。 ただ楡木より北上し鹿沼を過ぎると待望の杉並木が続く,そして日光へ。旅も待望の先が見えてきた。 s61年05月,第五回,日光歩き旅,楡木,例幣使街道 子供と帰り道 三筋への道 東武浅草より闇の道, はしゃぐ子供を横でみ,何時も私は足を敷きずるよう帰宅する。 腰の付け根の皿が,油が抜けたよう,かさかさでピノキオのようだった。乾き軋む違和感が股を擦る。 それに比べ子供のファイトは凄い,持久力はないが,1つの切っ掛けが驚く程の回復力を生み出していた。 帰路の闇の道でも走るよう私の手を引っ張っている。 日光への徒歩旅行,今日も一日中歩いた。動こうとしない隆史,くたくたで楡木駅に辿り着く。 もう発想を変えている。無人の駅を歩き回り,列車が入ると走るよに席を取る。 荒川を渡り雨になるも,浅草駅,終点で治まった。 浅草駅からの濡れた歩道。今日の凱歌を喜び子供達はよくしゃべる。暗い道並でも,はしゃいでいた。 反対に私一人疲労が増していた。家が見え,それはピークに達す。昔は幾らでも歩けたのに。最後は何時も子供達に負ける事になる。 負ける? s61年05月,第五回,日光歩き旅,楡木より 明け方の八ケ岳 人工衛星 明け方4時,山小屋横で真佐子と一週間前,打ち上げたばかりの国産,測量衛星を仰ぐ。 西から東へ農場の原っぱから,赤岳と横岳の間を幻のような光を放ち飛んで行く。 山々に囲まれた渓谷の奥,小屋の上に星は煌いていた。綴るよう淡い光を軌道に乗せ,一線を引き一定の速度で過ぎ去った。 日の出30分前,4時半起床, 阿弥陀山頂に月が上がリ,冴す妙光で岳を照らしている。 まだ闇の岳が青白い光りを帯び,明け方の霞を吸い出すよう白味を帯びてきた。 そして山肌は赤らめ始めると,日の出を迎え,暫くして陽と月が岳を映すよう同居し,描きだされた。 まだ赤岳西面は薄暗いが,谷を隔てた阿弥陀岳は見る々白味帯び,明らみなから薄い焼け山へと移り変えていた。 山は起きだした。素晴らしい夜明けを迎えた。 夜明けの炊事 土間にコンロを持ち込み分担して楽しく朝のすじが炊事が始まる始まる。コンロのゴーゴーと云う快い響きが土間に伝わった。 今朝もテーブルには一杯に食べ物が並べられていく。 小渕沢駅で買出した生卵もある。1/3の豆腐を使い玉葱とジャガイモで味噌汁もできた。海苔にお新香もある。 慣例のおでんもできた。山小屋の倍以上の料理が並ぶ。三人で食べられるか? 子供は皆よく食べよく動く。 s61年08月,八ヶ岳県界尾根U・・行者小屋 今日はピクニック 戦場ヶ原 戦場ヶ原で充分時間を掛け昼食を摂る。今回は今までの旅と違っていた。コンロを持ち戦場ヶ原で遊ぼうと。 キャンプ用フルセットの装備を持ち,食糧も贅沢に子供の欲しい物,全部を持参した。 食べ方も自由なら,料理する順番も自由に子供に任す。 真佐子の先導で,まずお燗し摘みのアタリメを作った。頭がよい。親を手懐けようとしている? だが私より先に三人で焼きながら食べている。秋晴れの天高い空の下で。 それから主食,ラーメンの炊事が始まった。炊事中の摘み食いで,半分近くなくなくなるが,美味そうに食べている。 私には酒がなくなりそうになると燗をしてくれるので,何も言えなくなった。五合の酒パックが見る見る薬缶へなくなっていく。 のんびりした炊事,コンロに乗せる物がなくなると,又ザックから何かを探しだす。 コンロは休む事なくゴーゴーと快調な響きをだしていた。 ここは本道から少し外れてをり,通う人もいない。仕舞には周り一杯にザックの荷が散乱していた。 秋の陽 秋の柔らかい陽差しが梢から漏れ,黄葉した落葉は大地を枯葉の絨毯で埋め尽くしている。寝転ぶと空は雲一つなく蒼かった。 酒もあり心地良い気分に,時間が止まったように思える。子守唄の如く小鳥のさえずりと,子供達の声が,清々しい風に乗り伝わっていた。 他では手に入らぬ,ここだけの贅沢さ。溺れるような満足感を味わう。 湯川の水は冷たかったが皆で気持よく片付ける。長い憩いの後,枯れ果てる戦場ヶ原を抜け湯ノ湖へ。 もう子供達も先を急ぐでもなく,距離を縮めるより足元の自然を楽しんでいた。 s61年11月,日光白根への歩き旅9,戦場ヶ原 ボートでの日没 中禅寺湖 湯ノ湖からの帰路,中禅寺湖にバスが停まった時,真佐子がボートに乗っていないと言い出だした。 湯ノ湖で乗る筈のボートは,もう時季が過ぎ終わっていた。 立席を含め身動きでぬ満員バスの最後部に陣取っていた。降りる人もいず掛け声と共に乗客を掻き別け,咄嗟に飛び降りる。 湖上 日没30分前,降りるのは我々だけだが,ボートに乗るのも我々だけだった。 断わらぬ船宿に感謝し二艘で沖にでた。舐めるような湖水は鏡のようだった。そこに紅葉した影が映る。 素晴らしい紅葉を湖上で受け,湖面に映る姿も紅葉に満ちている。漕ぐより周りを見るよう子供に諭す。 ゆっくり櫓を漕ぐも岸よりかなり離れていた。離れないようにボートを並べ落日を迎えた。 洛陽 霞れた湖水に帳が落ちる。一瞬にして紅葉が霞み,闇への洛陽を迎えた湖上は命一杯に最後の陽を受けていた。 それは束の間の明るさだった。湖面に映る蛍日は闇に閉ざされ,闇が又,別の湖水を浮きださせている。 一瞬のキラメキに波紋の輪は知らぬ間に闇へと消えてゆく。もう晩秋の情緒も失われた。 暗過ぎる湖に闇が追うよう迫っていた。焦る事なく子供の舟を導き,ゆっくり桟橋へと漕ぐ。 年令を超越した自然の神秘, 年を隔てた子供達だけでなく,私も全ての触れ合いと自然美を肌で感じ取っていた。 距離の割に17時間半と今日の行程は長かった。 日の出を列車内で迎え,日没は湖上ボート上で仰ぐ,変化に富んだ旅になった。 言葉に語られぬ自然の神秘があり,無言の言葉が生まれていた。 親子で共鳴し無言で慕っている。明日は明日,明日は早くから小学校の登校が,今は今を大切に思っていた。 積雪期となる。来年春を迎えてから家族,最後の旅,白根の頂に挑む。 s61年11月,日光白根への歩き旅9,中禅寺湖 諸感Top 大砂走りと洗面器 荒れる大砂走 強風で砂粒が飛んでくる。頭を上げると待っていたとばかり顔面を狙い襲ってくる。 体に音を立て当たってくる。頬を打つ。頭は上げられず風に背を向け息つくも,目は開けられなかった。 半目で瞑るよう足だけが前へ進んで行く。ガスが湧きだした。 その中,子供達は御殿場口の大きな斜面を喚起を上げ転がるよう落ちて行く。 足を止めるには転ぶしかない。転びに転び,走りに走る。 転んで起き上がる時の痛さ。それは転んだ痛さではなく,烈風が待ちに待ち襲う痛さ。 砂のような礫石が群れをなし体を襲う。体に当たりで,けたたましい音を立てた。「バリ,バリと!」。 私も砂粒の痛さを痛感させられた。逃げる場所がない。地面を見詰め我慢して下るのみ。 翌日の富士登山駅伝は荒天で五合五尺で折り返しとなる。 茶屋 前回同様,下の茶屋で水を求める。一杯50円,洗面器には今回も1/3程の水が入っている。 洗面器4つを並べ右端より順番に洗った。 初めの洗面器は直ぐ砂まみれになる。濁る洗面器に次の者は嫌がるが仕方がない。 1つの洗面器では砂の汚れは落ちない。嫌がるのを強引に従わせた。 順次4つの洗面器に顔を漬けさせた。結果は直ぐ理解できたようだ。 皆,スッキリした顔たちになってきた。気も心も晴れ晴れしている。 年の順で最後の俊雄はぶつぶつ言っているが,洗い終わるとすっきりした顔になった。 御殿場,ニンジン湯 下山の行程が決まっているよに御殿場,ニンジン湯に浸かる。今年も開店したばかりの一番湯に飛び込んだ。 待つ事20分,女将がまだ掃除をしている。それを待ち風呂場に飛び込んだ。 前の事もあり,土間で綺麗に足の砂粒を落とした積もりだが,やはりかなり残っていた。 何も云わぬ女将に申し訳ないが,快く浸かることができた。大きな湯殿の湯が溢れだす。 今回は他にも客がいた。石鹸を頭に付けるのを見て,シャンプーを差し出してくれている。 3時半,予約より早めの御殿場発ロマンスカーに変更。運転席前の一列の席を取ることができた。 何時もの事だが子供の活力は素晴らしい。もう車内を走り回っていた。 環境が変わると新たなエレルギーを呼び起こし,子供は底知れぬ力を持っている。新宿駅ではRHC同期会の為,子供達と別れた。 1989年08月,富士を越え御殿場V,下山 新宿,RHC同期会 富士山に登りJR新宿駅で子供と別れる。 真佐子に新宿から帰れられるかと問うと,当たり前と頷く。本当は自分達で俊雄を富士山に連れて行きたかったと。 頼もしく頷く弟達,でもお父さんが居て良かったとも。末っ子,俊雄は不安げに見詰めていた。 子供達と新宿駅で別れ同期会にでる。和田の段取りで宇都宮の大川,熊谷の田沼も集まった。 山帰りで嫌われがちだが御殿場で銭湯に入り着替えをしてきた。仲間は皆,直ぐ理解してくれているが。 一席設けてくれた店は高そうで焼肉屋で美味かった。予算は和田に任している。後もあると? 誰が見ても山仕度,東京の真中,新宿のクラブに2尺2寸のザックを持ち込んだ。よい顔する筈がないが仲間も店も良かった。 会社帰りで全員が背広を着ている。その中,1人私だけが山仕度,服装は無難にしているが。 ただ登山靴とザックは変えようもなかった。 嫌な顔せず隣に座る若い女の子,彼の叔父が経営する店に全部頼み込んだらしい。 山も友も素晴らしい。楽しい一時を過ごす。 1989年年08月,富士山登行後の同期会 35年振りの鹿塩 秋葉街道 妻と駒場への旅, 国道156,茅野一平間,4時間, 飯田までの高速道を嫌い,杖突街道をこえ山道を高遠へ。 高遠の醤油屋は民族館に変わり,幼い頃一時住んだ事がある隣の家はなくなっていた。遠いい母方の親戚で木工家具の彫り師だった。 真っ直ぐ坂を登ると昔の間々の神社の杜がある。幼い頃の北沢峠への登山口,戸台へは伊那北発のバスに揺られ,高遠で乗り換えている。 高遠から阿智に抜けるには伊那を避け,妻と三峰川を詰め,戸台口から鹿塩に抜けることにした。 国道R125とは云え,まだまだ深い山道で,国道と名指す道は今だ荒れている。 秋葉街道を抜け分抗峠への道, 急カーブと視界の利かぬ谷間の道が続く。 鹿塩集落の中心部は驚く程の立派な4車線のアスファルト道路に変わっていた。 何十年振りかの分からぬ鹿塩に,昔のバス停を見る。リーダー養成で白峰山から塩見岳へ下った所である。 公衆トイレができバス停も新しくなるが,場所は変らず同じ場所に留まっていた。 後で思うに今回の気侭な道中,下山の折り,寄った宿,鹿塩館(山景館)の風呂を忘れていた。 多分泊らなくとも寄って風呂に浸かった筈である。風呂場を恋しく思った場所でもある。 縁側でビールを呑み,ほろろい加減で歩んだ塩川の土手もあった。 山は深い。山沿いに縦断を続けると,普通車も交差出来ぬ山道に入る。国道だが勿論,舗装はない,藪枝が常にマイカーと擦り鹿塩にでていた。 伊那谷へ抜けるバス停前,雑貨屋で蜜柑を買い,まだまだ遠い秋葉街道を南下し,飯田へ抜けた。 鹿塩の小さい集落を抜けると,又もや大型の通れぬ山道になる。 うねりは強く普通車でも枝木は通る毎,跳ね上がり,擦れ違うスペースは全くなくなった。 長いつづらの後,分岐を別けると真新しい舗装道になる。 まだ工事中の県立公園(ひらびそ高原)で行き止まり,南アルプスの南部の峰々が目前に広がるも,ここまでだった。 戻り上村より伊那山脈を,ふた山越えねばと思うもと先はまだ遠いい。そして矢筈で開通したばかりのスーパートンネルに出会う。 行き通う車もなく,凄い立派な道路が何故か飯田へと続いていた。 2001年08月,南ア,裾を綴り木曾川より八ヶ岳横断の旅 諸感Top 中秋の北陸道 富山,福光で妻の先祖を探る為,松本から高山へ抜ける。 平湯峠 松本より沢渡の渋滞を抜け,朝早く平湯,民族館の湯に浸かる。 露天風呂から覗むに紅葉はまだ10月上旬で早いが,樹葉の重なりが緑の相を深めていた。 1番深い松の緑に藍いの緑,若葉のような清く淡い樹葉は陽差しを透し煌く枝木が重なっている。 湯殿に立つと,被るもみじが葉先を赤らめ始めていた。 風呂上がりで,冷水に冷やされたトマトが美味い。足元には目立つ大きさのドングリが散らばっていた。 気を良くしてビニール袋に大きなドングリを詰める。釣り餌には申し分ない。さっぱりした気分で高山へ下る。 翌年06月,大きなドングリ虫は38匹,静岡,萩間川でのヤマベ釣り競技で上位を占めた。 高山で蕎麦を食い,町並みを見学。 35年前,夏合宿,北ア全山縦走し,新穂高から降りた折,散策した町並である。淡い記憶が甦り,懐かしさが募り出していた。 合掌村,相倉 ロックダムの御母衣湖を抜け,白川,五箇山へ,やはり旅人は多い。 ここは郡上八幡は中山先輩の結婚式以来である。30年振りか。全てが遠いい昔の時代と結び付いていた。 白鳥の丘,ススキの似合った高台に富山,新津,田中先輩と立つた合掌村を顧みる。 福光,合田川温泉に宿る。 JR福光駅に寄り電話帖を調べ,地元の老婆に尋ね,次第に秋本家の本家,田村家がうつろに判かりだす。 今回の旅行は妻の先祖を探る旅でもある。駅前は広い空地になっていた。ここで大きく商いをしていたらしい。 宿の主人も好意的だった。大きな昔の地図を広げ,名だす田村家を探る。 駅脇の村田さんが本家と判り,祖父は不在で帰京して手紙を頂いた。ここの村田家は後で全員親戚だと知る。 翌日,福光で村田家の先祖を探り,北陸道にでる。気侭な道中,宇奈月に寄る。黒部川,欅平までトロッコに乗ろうと。 聞くところ予約制,当日は2時間待ちとの事。秋真った中の渓谷は団体客で溢れていた。 現地まで来て残念だが,宇奈月でも紅に染まる葉は素晴らしい。 北陸道 北陸沿岸の国道に下る。急な山稜が海に落ち,そこを綴る道,海岸沿えの厳しい景観が続く。 海岸線より,国道を隔てた急稜の裾,そこに住む郡村の風景が,絶する凄みを抱かせている。 誰もが思う冬の厳しさ,何も云えぬ凄みを持って望まれた。 妻と望む里, 彼女も海岸線ではなく,陸地を見詰めている。 初めて見る分かる地形,そこには厳冬期の過酷さが,知らずして自然に刻まれていた。 6年後再び山に登りだし,この梅海新道を白馬岳から親不知へ下っている。 親不知で昼食,日本海に素足を浸けた。細かい砂に丸い石,暑いせいかビールのせいか冷たく気持がよい。 凪の海原,見渡す限り漁船は望めなかった。ただ小さな船溜堰堤,船道を塞ぐよう遊漁船が1隻キス釣りをしていた。 関東とは違い,疎ら過ぎる漁船,よく竿が上がり,陸釣りと競争するよう釣っている。風もなく長閑な風景に見えた。 その後,姫川温泉での湯宿を断念し小糸川を遡る。トンネルが左岸崖淵を長く綴っていた。 後は小谷温泉か? 他は妻にとって,とんでもない山の湯となる。 温泉を諦め山上の山小屋へ。 彼女は山となるとアレルギーとなる。登る事で, 歩かずとも登れる山,自然の神秘が味わえると,車中説得し小谷を下った。ただ,旅館ではないと。 八方尾根 3時半の最終リフトに間に合う。日没,日出を見ようとケーブルを乗り継ぎ,八方の山荘へ。 雲の沸き立つ白馬連山と夕陽,日の出を仰いだ。下界は半袖でも,山では羽毛のジャケットが利いていた。 私には懐かしい峯々が続き,ここも中年の登山者で賑わっていた。 昔,初めて来たゲレンデであり,その上を望む後立連峰は懐かしく素晴らしかった。 今,妻が旅館ではない山小屋で,自然の神秘を改め感じている。彼女も2度,富士には登っているが。 2002年10月,富山,福光の旅 中秋の日光周辺, 日光横断と会津,赤城 初めは先週,秋の連休を利用し出掛ける筈だった。 宇都宮より杉並木を抜け,会津西街道より塩原,伊南,桧枝岐へ。そして奥只見湖から守門の裾を抜け小出にでる予定でいた。 峠の国道にまだあるジャリ道を通ろうと。 天候不順と台風22に襲われ,出発当日は暴風圏内に入り中止し,一週間後,通行止の災難を避けコースを変え再び出向く事にした。 その1週間後,越後は中越地震に襲われる。 昔子供達と東京から白根山まで徒歩旅行していた。それに沿う形で静かな街道をジグザグに綴ろうと思っていた。 明け方,東京をでて杉並木街道から会津へ。それから会津西街道を上り,昔,馬坂川を遡行した川俣へでる。 車もスムーズに。奥鬼怒川の静かな畔にでて湯に浸った。垂れ流しの湯,まだ秘境の湯を求めて来るマイカーもいない。 ゆっくり地元の人と語らい,戦場ヶ原へでる。 戦場ヶ原へ 今回一番のポイントと思われた鬼怒川林道(山王街道)は以外にも立派な観光道路になっていた。 大型は通れぬものの,拡張工事は進んでいる。慣れない運転が多い中,高度を稼ぐにつれ葉は赤味が増していた。 光徳牧場は凄い観光人で溢れている。 ただその雑踏をも感じさせぬ程,白樺と枯葉のジュウタンが心地い。愛犬ペコも同色の落ち葉に戯れている。 金精峠 13時半,イロハ坂の渋滞を避け,更に奥,沼田街道「ロマンチック街道」を選ぶ。 湯ノ湖を望み金精峠へ。紅葉には,まだ2週間程早かった。綴り下る裾野は長い。その上,上越道は大きく迂回するようなる。 裾野を廻り込むと路肩に農家の土産屋が目立つ。松茸を探すもチャンスに恵まれなかった。 赤城の道 片品から白沢に入り,沼田まで17k地点,ここで県道267を急に選んだ。 赤城山,東側を捲く山道「沼田,大間々線」を走る。山の裾を捲く運転に以外と同じような人が多いようだ。 ただ渋滞はない。群をなし結構なスピードで抜けている。知る人は知る裏街道になっているようだ。 山岳ドライブ 林道好みで入る人と,地元周辺の慣れた者が車を走らしている。 今回は何処も車で溢れていた。関東近辺の観光地である事は分かるが,ただ中部地方とは丸で違っている。 今までの経験では,山梨西部を越えると,全てが疎らになる。観光地以外は,稀に車も擦れ違い,人々にも恋しく思っていた。 今回は曇天の重い雲と,車の往来,外に出れば寒く,ラッシュ並の車。何かが違っていた。 2泊の旅行が日帰りとなり,それでも出向いた日光。予定が変り,今回初めて観光地周辺を目的に選んだ。 今までと逆の発想だった。今までは1つの目的を持ち,ついでに観光地を捜していた。 1つの目的が地域を決め,その周辺の観光を選んでいる。それ故,宿もその場で決断する事が多い。 今回は昔を想い,日光杉並木を選び,後は何処へでもよかった。何にかが欠けていた。 渡良瀬川に出て,今回初めて「道の駅」に出会う。小さ過ぎる規模だった。更に南下し北関東道路,伊勢崎へ。 日没 ジャンクション高崎への道,西へ一直線に進む高速道。夕暮れを迎え素晴らしい自然の神秘を味わった。 雲が水平に割れ上層の雲と下層とを分け,紅き太陽が丸く大きく焼け現れた。 そして重い雲を縫い空全体が,水平の空間だけを白光混じりの夕焼けに染めている。 陽が落ち眩さを失うと,残光が幻想的な雲を映し,壮厳な洛陽を向かえた。 高崎まで斑な車,その高速道を,その洛陽中央に向かい車は走る。真っしぐらに走り望む妻と私。 最後に心に残る,素晴らし旅情を味わった。 2004年10月16日,中秋の日光周辺,日光横断と会津,赤城 山の湯で 西秩父,両神山の懐に小さな宿がある。新築されたばかりの檜の露天風呂。 足元には荒川の源流,小森川の瀬がキラメキ流れていた。 場所は珍しく妻からの指定である。地図帳を開き,目を瞑り指で指した場所。山道や深い山の湯に染まりだしたのか? 私はそれに道を添えた。 湯殿は私一人, うだる暑さを逃れ湯殿に飛び込んだ。体を伸ばし頭から湯を浴びる。 今回は湯治だが来週は新OB会が発足し15年振り山に入る。新しい登山靴も手に入れた。清掃ハイクから八ケ岳に変わり,山行が待っている。 連れのOBの方,私を虐めないように。 2005,08,10,長瀞から雁坂を抜け,RHC掲示板より 諸感Top カルチャーショック 再び山へ 15年振り山に入る。新たに登山靴HANWAG製を手に入れ最低限の衣類を揃えた。他の装備は後輩,石川君に配慮して頂く。 清掃ボランテア山行は参加者が多く長閑な山行に思えた。 多数人が列をなし,長閑に裾野を歩む山行と思っていた。それがRHCOBとして赤岳山頂での清掃を命じられた。 そのメンバーは私を含め田中氏と石川君,3名の少数精鋭?で。私は既に忘れてしまっていた登山靴を履いた。 装備,食料を全部持ち,我々を見守る石川君,優しく言葉を返す田中さん? 恵まれた仲間と山に入る。 テントは石川君が南米アコンガグアへ遠征した時の冬テン(3,4人用),真四角のナイロン製で高さもあり居心地は申し分ない。 また彼にはGREGORY製のGravityMザックを借りた。大学卒業後,世界の山々に飛び立った時の使用したザック。 腰で担ぐリックザックと違い,背全体に乗せるような形になっている。締めベルトも多く分からぬ間々背負っていた。 装備,衣類と全てが驚く程進歩していた。 不安定な天候の中,カッパは上着のみとし,下半身は購入したばかりのスポーツウェアで通す。 下着までビショ濡れの笹の径,ベッタリ肌に付く感触はない。留まれば寒いものの濡れた山行も風情があった。夏山の下山を味わう。 35年前,冬山で明大,植村直己氏がエベレスト遠征の折,使用した羽毛のキルデングを借りた事がある。当時は驚異の防寒具だった。 当時は高価過ぎ,スポーツ専門店でも置いていない代物である。下着は薄いセイターだけでよく,北アルプスで正月に回し着をした覚えがある。 装備,衣類に関し今回はそれ以来のカルチャーショックを受けた。 カルチャーショックT,1969年正月,餓鬼岳,魔法の防寒具 カルチャーショックU,2005年08月,3度目の赤岳県界尾根 変わる南会津の山 帝釈山 天候に恵まれず,初冠雪に加え雨とガスで2日間視界は悪い。田代の山上湿原に出てもガスで閉ざされていた。 晩秋の侘しさばかり感じ静かさを強調しているような幻想的な山だった。大川と2人,この広大な霞んだ湿原に立つ。 昔とは様相も大分違っていた。湿原には確りした木道が走り,膝下にあった古ぼけた道標も見違える程の大きさになっていた。 34年前,馬坂川を遡行し太子堂の裏に出た場所には立派な避難小屋ができている。 ただ旧湯の花への径や湯西川へ綴る山径は廃道化していた。 当時,田代山々頂から南に折れ三河沢林道から湯西川に下りた。その長い藪尾根に沿い,今は栗山舘岩線が走っている。 峠から大型が通れる田代山林道は立派な県道に昇格し先月開通した。その黄葉溢れる尾根を抜け,彼の運転する車で湯西川へでた。 雨に叩かれ帳と争い,延々と下った小径である。 又周辺では馬坂川を横切るよう林道が舟岐川沿いの桧枝岐林道と繋がり,林道は帝釈山,直下まで延びていた。 馬坂川林道は通行できるも工事が続いている。一般車は通行不可。 道は良くなっても会津の山はまだまだ遠いい山だった。山を下り裾野で波重なる素晴らしい山肌の黄葉を見る。 前日の湯の花温泉の酒と,下山してからの裾野の溢れる黄葉が心に残されていた。 2005年10月,霧中の帝釈,田代山 妻と尾瀬 7月初旬,妻から尾瀬へ行きたいと言葉がでた。追う迎えしに尾瀬は山だと問う。早春には高尾山へ出向いているが。 山を嫌っていた妻の言葉を聴き,慌てて鵜原の沖釣りをキャンセル,尾瀬に挑む。 鳩待峠から見晴で1泊,沼山峠へでるコースを選ぶも,山小屋全てが満杯で予約を取る事ができなかった。 諦めず夜行日帰りで尾瀬ヶ原を散策することとした。 今回,妻の山に対する姿勢が少し変わっていた。雨でもよいと。 写真で見る尾瀬のイメージが強いのか。尾瀬行は少しでもハイカーの少ない連休後に決める。 尾瀬ヶ原 尾瀬ヶ原の広い湿原にでる。ここに満足する妻がいた。私もその言葉から安堵と感嘆する喜びを味わう。 天候不順がハイカーの少なさを示している。悦ぶ妻と私。時間を気にせず尾瀬ヶ原をゆっくり横断した。 並ぶよう木道を歩み,花を見ては立ち止まる。終わり掛けたベニサラサドウダンの群生とカキツバタの群れ。そしてニッコウキスゲへと。 池塘には浮き草が乗り,蛙が居ると歩みを停め,郭公の鳴き声で谷間を見る。 少ない登山者に交差する人は間々会うのみ。広い湿原に木道が延々と続く。私達はただゆっくりと歩んだ。 鳩待への登り径 早めに山ノ鼻を発つ。鳩待峠へのなだらかな森を2/3程登り,瀬々らぎの音色が遠のき,傾斜が増しだした。妻は復路から快調さを増している。 登る歩調が落ちずにいた。確りした足取りが追い越された人にも追い付き,越すようなる。 「焦ると疲れるぞ!」の言葉も忘れ,先を歩かせる登り径。 後少しで峠にでる。「ペースを落すな! 上を見ろ!」。今までとはまるで違う頑張りがあった。 峠での妻の言葉,「よい雨具を買いたい!」と。 前日,末っ子が友達3人とスバル五合目より富士山に登頂。レンズ雲に突入,暴風雨に叩かられ体温奪われ,荒れた悲惨な山行となった。 夫婦の登山靴を貸し,翌日は雨の尾瀬へ。私達以上に頑張った靴, 軒下に陰干しされ並んで2足ある。 2006年07月,雨滴る尾瀬ヶ原 海抜0mへ 田中先輩,小山君,共に上廊下に入渓し羨ましく思っています。 同じ頃,同期大川と北アルプス北端に行って来ました。 出来るだけ残雪を踏もうと大雪渓から白馬岳に入り,お花畑の朝日岳を抜け栂海新道を突端し親不知にでました。 入山日午前中を除き4日間が霧雨続き,視界悪く最後の最後に北陸道に出て海を見た次第です。 今年は残雪が多く明け方のカッテングに苦労し,水の確保に苦しみ,まだまだ荒れた山々でした。 昔の合宿を想い,歯を食い縛っての登行。波打ち際で登山靴を脱いだ瞬間に,全ての苦労を忘れさせられました。 昨年の八ヶ岳清掃から始めた登山。皆さんに感謝しています。 006年08月,大雪渓と親不知,RHC掲示板から 1枚のチラシ 雑誌「 岳人」 今,家をリホームしている。押入れの奥から昔の雑誌「岳人」の束が出てきた。254,「特集・秋山」の本を抜き取った。 表紙のタイトルは岩本平三郎氏の「山頂山麓」とあり,新雪と山麓が描かれている。 旧暦の秋は7,8,9月だが10月号は初冬になる。北アルプスは10月ともなれば白く,旧暦の世界に入り,山麓はまだ新暦に留まっている。 このアンバランスを上手く掴み,当時は稜や谷へと贅沢な山行を楽しでいた。 チラシ ページをめくると間に学生闘争のガリ板刷りのチラシが挟んであった。A5の小さなザラ紙のチラシが2折で挟んである。 内容は「我々が糾弾しなければならないのは大学当局なのか? 真の敵は政府・文部省ではないだろうか。警視庁を怒りの声でつつめと。」 当時,我が母校にも全学連が入り込み,新宿駅事件があった頃だと思う。 執行部を勤めていた我々は秋期合宿を終え,部員の闘争参加に悩みだした時代である。当時の記憶が何故か走馬灯の如く鮮明に蘇る。 このチラシが挟んであったページには池袋「山幸」の広告が,小さくはあるが載っていた。 「スキー用品入荷いたしました!」と記してある。 今は池袋「山幸」はなくなっているが,この「山幸」は用もないのに毎日のように通った店である。 「岳人」はどの本も背がボロボロとなり剥げれている所もある古い雑誌だった。 当時は舐めるよう読んだ雑誌,少しは修繕してあげようかと今は考えている。 2006,09,27,自宅にて 諸感Top 送られてきた山岳書 山経歴の本 中学からの同期であり,共に山に登った仲間であるNから1冊の山岳書が送られてきた。著者は1つ後輩の根深氏で, 「風雪の山ノート」と題し,副題として「ある大学山岳部部員の足跡」とあった。内容は凄い。実名でジゴキが延々と綴られている。 昭和40年代前半のクラブを映し出していた。ちょうど私のRHC現役時代と重なり,当時を回想し一気に読み終えた。 当時は全学連が幅を広げ,農大ワンゲルの扱ぎ事件が起きた頃でもある。 新人養成の麻痺事故から新らに山に目覚め,後輩を迎えての山行はリーダーシップ拾得に始終した時だった。 M大からはザイルや当時貴重な羽毛のジャケットを借り,山行を続けていた時代でもある。 スケールの違いこそあれ,我がクラブも同期新人13名の部員は日増しにクラブを去り,思えば厳しくも懐かしく想える頃だった。 今年1月,36年振りに同期全員が顔を揃えた。老けても変わらぬ会話,同じ釜の飯を食った仲間の顔になっていた。 中高年登山ブームに乗り,昨年10月には東京飯田橋の日仏学院でガストンレビュファの「天と地の間に」が再上映された。 私が大学2年の時,仲間と池袋で鑑賞した記録映画である。ピッケルは借り物だったがそれから購入するようなった。 時は戻らぬものの懐かしさが溢れだしていた。 Nも私も還暦を迎えた。彼とは高校の時より大学,OBと節目々で山に入った仲である。これが切っ掛けで又登るだろう。 学生時代を含めM大の部室には何度か尋ねている。地下の汚い汗のにじむ部室だった。 5号館屋上の我ガ部室と同じ臭いがした。 最後に根深氏はこの時代を土台にとし,数々の海外遠征や調査と,その時の自分の姿を何冊も本として書き留めてきた。 更なる活躍を祈る。より充実した山々や国際協力に輪を広げ,悔やみない行動を進め続けて欲しい。 2007,04,06,三筋にて 奥鬼怒最奥の宿 「日光澤温泉」 晩秋真っ盛りの紅葉美を求め1人,鬼怒沼山を尾瀬大清水へ横断した。女夫淵より湯人と別れ,奥鬼怒温泉卿最奥の日光澤温泉に宿る。 日光澤温泉 宿は日光沢右岸の台地にあり,山小屋は2階建て木造建築だった。 沢より登ってくると正面が玄関となり,右脇の鐘は尋ねてくる人の為のもので,透けたガラス戸を開けると土間にでた。 家屋は表玄関から囲むようロの字に渡し廊下と部屋があり,中庭にはニジマスの養殖池がある。 左手前に延びる東側の棟は増築に増築を重ねているようだ。真新しい棟が一番東端にあった。 鬼怒沼への取付きはこの棟の間の通路を抜けている。 今日の部屋は2階玄関右上5号室,裸電球の4畳半,小さな炬燵の上にお茶のセットと灰皿が嬉しい。 内風呂 2階の部屋より左の廊下を下れば玄関脇居間へ,右の階段を降り,更にT字路の右下のトンネルのような階段を下ると内風呂に突き当たる。 若主人が客は1人,私に「女湯をどうぞ!」と誘ってくれた。3つも湯殿があるのに女湯とは。 入口の案内紙には「どんどん水を加えてください。」との事。やはり少々熱い。湯の花が香る。 淡い乳白色の湯殿は,ほのかな香りに円やかな湯,否やもっと軽い感じの癒しの湯だった。 私1人の為,着いた2時には宿全体に電気が灯り,湯殿の窓は目一杯開かれていた。 窓の外,日光沢を挟んだ右岸は南面に向いている為か,周りより紅葉は早いようだ。 バランスよく山肌は紅と黄色に染め,緑との三原色が大きな額縁の絵のような風景をかもち出していた。 2つの露天風呂 外の露天風呂はここより温い源泉で更に露天ゆえ,長く浸かるには丁度よい。東京から持参したビールはやはり外の風呂に尽きた。 昼間から1人と云うのが何か落ち着かぬも,紅葉の景観が素晴らしい。 更に7,8段登ると上の露天風呂がある。外から直接入れるこの湯殿は透明度の高い,鉱泉に近い硬い温い湯である。 今までの湯の花とは歴然と違っていた。冷た過ぎ足湯のみで下の露天風呂へ戻っている。 内湯の上湯に温泉水を利用していると記してあった。それはこの湯の事だと思われる。 2つの源泉を持ち,再び内湯に浸かる贅沢さ。一日中,私1人で独占するようになった。 一人旅,相部屋を覚悟していた私。逆に語る人も居ず。宿に客一人。主人に謝ると,とんでもない「ありがとうございます!」の声が返ってきた。 八丁湯から歩んでたった15分の距離である。自らの宣伝を嫌い,雑誌の記載も断り続けている。正に秘湯の色濃く残している。 歩めば何処も軋む宿だが豊富な湯と古びた檜風呂。温泉ありの山小屋に主人のポリシーが伺えた。 早い西陽がゆっくり紅葉の山肌を谷へと落とし始めている。贅沢過ぎる焼けた山肌と湯殿があった。 5号室 今個室に居る。湯上りで体は火照ってをり,炬燵では足が熱がっている。寒い筈が障子もガラス戸も開けぱなし,陽は陰りだしていた。 東京では今だ呑んだ事のない栃木の地酒「鬼ころし」を炬燵に向かい呑む。 風呂上りで冷酒は心地よいが,味ににごりが絡み後まで残る。日光戦場ヶ原のネーミングがあるも量を呑む酒ではなさそうだ。 張り紙 部屋の入口,右側の壁に「羽アリ注意」の張り紙が張ってあった。 内容は「7,8月の夜に年に3,4回大発生する日があります。7時から9時,ピークは8時頃。灯油のような臭いがする。 羽アリが部屋に入った場合は窓を開け電気を消すように。窓を開けておく場合は電気を消すようにと。 温度が高く晴れていて雨の降らない日,風のない日が注意」。 4時,居間からの煙が窓の外の紅葉を這い上がるよう昇りだした。弱い風に乗る透けた白い煙は木のぬくごもりある。 きっと私の為の煙であろう。 食事処 食事は居間で摂った。正面玄関の土間を抜け再び奥のガラス戸を開けると大きな囲炉裏のある居間がある。 中央の囲炉裏には部屋に似つかわしくない程の大きなストーブが乗せてあり,先程2階の私の部屋からその煙が見えた。 入ると蒸す暑さ。ドテラを脱ぎ浴衣だけになる。膳との対面には大きなストーブがある。 若主人が何か飲物はと問うも一人宿,断る訳にもいかず熱燗を注文した。 対話する人も居ず,膳は煮込みなど保存食がメーンでお数は10種類以上と多い。又言葉は同じになるが一人故,我慢の完食となる。 まだ6時,寝るには早く炬燵は熱い。調整がなく小まめに切っては寝転んでいる。 酒を呑みながら今日の日記を付けているが,日記も酒も馬鹿らしく嫌になった。 就寝 夜の冷えを心配して寝る前に湯殿に飛び込む。今日,三度温泉に浸かるもなかなか寝られずにいる。 何時もの事であるが今回は少し違っていた。 外とはガラス戸と障子で部屋を隔でているものの,それだけでは寒く心もとない考えがあった。 引き布団を敷き,足元には座布団と,もう1枚引き布を足した。上布団の上にはドテラも。熟睡できるはずの私には万全であったと思う。 着慣れない浴衣が悪いのか,何処となく隙間風が忍び込み1時間置きに目を覚ます。 切っ掛けにと用をたし,ドテラを内側に変え,足には追加した布団を縦に回し,重い布団は筒のよう初めから型を作り寝る準備を改める。 1階の時計が0時を告げ,風が強くなってきたようだ。寝床の左にはガラス戸と障子があり,ガラス戸は常にカタコトと鳴っていた。 外側の窓枠の音には馴染んできたものの,今度は反対側からも1階からも,更には奥からも,窓の戸を叩く音が聞こえだす。 リズムはない,バラバラになり四方から聞こえ気になるも,増した温かさが眠りを誘い込んでいた。 2007年10月,紅葉の鬼怒沼山 叔父と山岳写真家 三ツ峠山荘 三ツ峠山荘の主人,中村光吉氏は油彩を描き山岳写真を撮っている。写真は父,中村璋(たまみ)氏譲り。 璋氏は30代の頃より富士の写真家,岡田紅陽氏と懇親の間柄であったらしい。紅陽氏の一番弟子の話となる。 白旗史郎氏と叔父の名前がでる。私がMと名乗ると叔父は芳雄さんですかと尋ねられ驚かされる。 幼かった光吉氏は何度もお会いしていると。初めの弟子は2人,目立った表の白旗氏と陰的な叔父。 叔父は立体的な特殊写真の先駆者だった。映画用のアナモフィックスを初めて使用し,松竹映画のオープニングゴロの背景に使用されている。 自然そのままを愛し,山麓で生活する人々を題材として富士山麓を撮る優しい人だった。 叔父がノート屋と職業まで知っていた。主人は私も紙関係でコンピューター用伝票を作っていたと語ると又驚く。 偶然からの話は山荘に居る間,MさんMさんを繰り返す。それが叔父を交えてのMさん。 Mさんと呼ばれMさん(叔父)はこの撮影居場所が好きだったとか。他の人が聞けば不思議に思うに違いない。 話は尽きず,写真から油絵,そして連れの明大の先輩達へと楽しい会話が続いていた。 叔父 叔父は長兄が東京市山岳会員であった関係で本人も「山が命」と気負うほど山に惹かれていた。 アルプスや上越国境を愛し,殆どが単独行だったとの事。 私は次男の子。私が山へ歩みだしたのが高校の初め,山へ出向くのを応援してくれたのが叔父である。 長男の子,従兄弟は高校時代から山岳部に所属し,小学校の時,高尾山に連れて行ってもらった想いがある。 母が伊那で生まれ,高遠で南アルプスに挑む大学生の姿に,私自身が憧れを持った時代だったと思う。 叔父は上越,清水トンネルが開通,土合山の家が開設され直ぐさまスキーで七ッ小屋尾根より蓬沢を下降,土樽へ。 その時初めて作画用にセミパールを購入,写真の世界へ歩みだした。その時の師匠が私の叔母方にあたる佐藤氏だった。 そして戦時中の無理が高じ,長期の休養がブランクとなる。その後は低山での自然を肌で感じる,富士山麓を歩みだしている。 そこで岡田先生と出会い指導を受けたらしい。 今は先生も叔父も父も亡くなった。高校の同期Nと還暦を迎えての入山で,光吉氏とお会いできた。 光吉氏から改めて山の事々を聞き,その言葉の長い繋がりが山の言葉として,私の心に響き詰め込まれている。 2007年12月,暮れの三ツ峠V 夜半のゲリラ雷雨 今年の夏は弱い太平洋高気圧の影響で,天候はくずつき気味。特に8月の飯豊山行から帰ると東京もゲリラ豪雨に度々襲われた。 ニュースは毎日各地の大雨,洪水注意報を伝え,日数・雨量とも記録史上を占めていた。 日本を横切る低気圧はオホーツク海高気圧に押さえられ,本土上空に何時までも留まり,その長い前線に湿った南風を集めている。 残暑を迎え,海の家は早くも閉める店が多くなっていた。 8月も下旬,29日夜半には我が町も大きな雷鳴に轟かされた。毎日続く雷雨注意報を遠雷として聞いていた雷である。 真っ暗な闇が突然昼間のような白光と共に雷鳴が轟く。雨より稲妻が走り,7Fの窓を開け仰ぐと雷光が発っている。 フラッシューの如き煌いた空間は間を空けず空気を割り襲ってきた。その力は凄みある重量感を含み,空間を割り落ちてきた。 あっちこっちで落雷を起こし,地上を揺るがしている。その1つが真上に来た。「バリ! バリ!」と空気を圧縮した重たさが鼓膜に直接響き, 轟音と発光は我が身を縮ませた。雷光の中にいた。それと同時に空気を割る轟音を浴びる。そして又身を震わせた。 この一撃が前穂高岳北尾根で体験した昔の山を想い出させていた。 放電は髪の毛とは言わず体毛をも立たせ,青白く発光するピッケルは振え,「ビリ! ビリ!」と鳴り続けていた。 壁を前に降りるに降りられず頂へ攀じり,頂から直接雪渓をジッヘルで駆け下りた。 昼間なのに方向も判らず磁石とエレキを必要とした。土砂降りの雨と下からの雷光を受けた前穂高の頂に立つ。 当時は恐怖を超越した動作が体を動かし,足が下山へと導き続けていた。そして涸沢でザイルを解き雷雨も治まった。 今年8月上旬,東北飯豊山では入山初日に集中豪雨に襲われている。濁流が走りJR羽越本線は遅れ,米沢線は不通になった。 翌日その前線が南下,ゲリラ豪雨は関東地方各地を襲い,東京にも死者がでる大きな被害をもたらしていた。 又中旬には娘も富士山で雷雨に叩かれている。当日落雷で1名が死亡する事故が起きていた。 そして雷雨は毎日下旬まで続き,気象庁は特に8月26日〜31日に発生した豪雨を「平成20年8月末豪雨」と命名した。 テラスから闇の空間を仰ぐと雷雲の切れ目が覗まれた。白い大きな積乱雲は下層を黒い雨雲に変え雷光を放っている。 再び風が生まれ,雨足は早くなる。「来たぞ! 来たぞ!」と雷光は待つ間もなく,又襲ってきた。 真夜中の激しく続く雷雨に知らずして眠り込んでいる。予報は翌日もゲリラ豪雨の注意を呼びかけていた。 2008年08月,三筋にて 諸感Top 我が家の番犬 我が家には3kにも満たない小さなメス犬「ペコ」がいる。 二代目でチチワの最も小さな茶系の成犬, きりっと締まった顔形はよくオス犬に間違えられる。 家を暫く離れ山から下山すると,何時もとは違った行動を示していた。機敏にエレベーターの音を察知し玄関で待っている。 さすが我が家の番犬と誉めるのは親馬鹿だろうか。小刻みに小走り歩む姿は鼠がいるようだ。 飛び跳ねる仕草は栗鼠。尾の濃い毛並みの色は猪の子,ウリ坊に似ている。 諦めが早く,忘れがちなのは脳ミソが小さいせいか? ただ気性だけは強く,吠える番犬に適している。 牛乳を飲むと成人病になる弱い犬でもある。車の乗ると乗り物酔いに悩み,翌日は動けなくなる。 動けないと言えば気温30℃の盛夏の蒸す陽射しを浴びながら昼寝し,秋も終わりに近ずくと寒さで,外で固まる犬でもある。 初代はポインター系の雑種「サム」がいた。 青年期はバイクで散歩する猟犬で,工場の1階,2階を自由に歩き回り,居場所を見つけては騒々しい機械の下にもいた。 朝は外で大きな台車を陣取り,子供達の通学を見守り,吠える事のない優しい犬だった。 又自分が雑種であることが判っているのか血統ある他のポインター犬と擦れ違うと規律正しく座り直していた。 顔付きは幼い頃から年寄りに見えるが怒らすと凄い。 普段は見向きもしないが,しっこく犬にけし掛けられると地面に這い付き,見上げて私の指図を待っている。 何時も大人しいので茶化す犬連れに攻撃を仕かけられると非常に気性が激しくなった。 唸りと共に柴犬は一瞬にして腰を抜かし,ふた回りも大きな秋田犬とも対等に戦う犬である。 猟犬の血筋が強く,怒ると喉元を1撃で狙う。噛めば振り回されても食ら付いて放さない闘志の持ち主だった。 「ペコ」と違い車が好きで,仕事中車が置いてあるとよく乗っていた。雪富士や山中湖キャンプでは子供と窓際を争い,よく互いに押し合っていた。 老衰の後,飼うのを止めた筈が今「ペコ」がいる。本人は番犬を思い私達を見守っているようだ。 昨日丹沢山から帰り,一番最初に「ペコ」が顔をだした。目一杯尾を振る姿が可愛らしい。 2008年11月,元工場で 清里・・・駅舎と清泉寮 立教 小海線清里駅はド派手な今の駅舎と違い,正に開拓地の高原駅だった。 信濃川上,野辺山駅と同じく屋根のない裸のホームは線路からは近い低いホーム。 改札の為の駅舎はホーム中央付近にあり,事務室があっただけの小さな木造駅舎だった。改札は東側に出てトイレは外棟にあった。 駅前の広場先に低い人家が疎らに並び,閑散としていた。45年程前,昭和半ば頃の清里の風景である。 踏み切りを渡った西側は日没を迎えた牧場には,ただ1軒,清泉寮だけが丘の上に建てられていた。昭和41年,42年にその脇を抜けている。 新人養成では2度,清里を通り過ぎているが降りたのは初めてだった。 訪れた時,牧場の棚には新雪が積り,美しの森分岐から川俣谷に入り,ヒザまで雪で潜ったのを覚えている。 その後も後輩を連れ赤岳沢を遡った時も,帳が落ちる時刻だった。 妹を連れ県界尾根を下山した時は登山口で軽トラに拾われ,駅まで乗せて頂いた事もある。 その後ペンションブームに乗り,清里は女性客の人気を集めるようなる。卒業後再び子供と県界尾根抜け野辺山に下りた。 小海線,清里でラッシュになったのはこの時だけである。私だけでなく子供達も驚く程,車内は混雑した。 その後清泉寮は広く開放され,拡大した事業は観光にも力を入れ始めている。 立教女学院清掃ボランテァ登山と今年は台東区婦人部レクレイション観光で清泉寮へ出向いている。 それぞれの目的で何度か尋ねているが,まだ誘われるも宿る機会は得られない私だった。 最近清里駅にはご無沙汰している。隣りの野辺山,JR最高地点駅と共に新たな駅舎に建て替えられたと聞く。 中央線小淵沢駅舎は昔と殆ど変わっていなかったが,茅野駅の変わりようは北口,南口とも凄まじい。 清里駅には昔の何か1つでも,懐かしむ何かが残っていればよいと祈っていた。 2009,06,清泉寮とさくらんぼ狩り 2つの山岳書 4月にK先輩と奥多摩,棒ノ嶺から惣岳山神塚尾根に入山した折,「山と遭難」羽根田沼著,平凡社新書,2010,01,15,初版を譲り受ける。 何故私にと思うも,そこに綴られた内容は昔私が体験した,その当時の事柄が多く綴られていた。きつく伝えられた山行も多い。 当時聞いた事のある事故も多かった。よしき悪きにつき,私の体験を綴られたと思われる時代のものが多く含まれていた。 今は低山ではあるが登り始めている。改めて慎まなければならないと思うことも多い。ただ単独行は止められないだろう。 それから10日もただずして「静かな尾根歩き」松浦隆康著,新ハイキング社,の本が私の手元に届いた。 自分の体と地図と磁石,今はGPSもあるがこれらを持参し登る低山の藪山が綴られている。 年齢的な体力はそれほど気にせず,登れる山々を紹介していた。読むと自分で考え登っていた山々が載せられていた。 所謂単独行者のための本である。列をなし登る山ではない。自分だけで山と対話する本である。それ故猛烈な藪漕ぎをする藪山でもない。 東京から近い周辺の山々の登山道の隣りの尾根が紹介されていた。単独行を奨励している本にも思える。 5月のGWに大菩薩重川左岸尾根を綴る積りでいたが,その3日前に届いた。私の計画に隣接した尾根の紀行文が載せられていた。 坦々と過ぎる文章の中,GW前後の新緑が最適だと唄っていた。即変更し更に尾根を末端まで歩む事にした。 春の光を受けた尾根は若葉萌える煌きに輝いていた。 遭難と単独行との係りは難しい問題を抱くも私なりのポリシーで歩もうと思っている。地図と磁石を持って。 2010,05,11,自宅にて 明峯山岳会と山田氏 山田洋昭氏とは互いに隣接する町会に接しているにも拘らず,又連合の祭の会合ではよく顔を合わせるものの,今まで山の話をする事はなかった。 それがふとした切っ掛けで語り合うようなる。 山田氏は社会人山岳会として名を成している歴史ある「明峯山岳会」に属し,高校時代から登山を始め,今は70歳を迎えた現役である。 親から続く二代目で精鋭的な山の会, 雪山や岩壁登攀を求め,初登攀も幾つも成し遂げている。 日本山岳会がエベレルトに登頂した頃は学生山岳部が多くヒマラヤを目指していた。 その中で昭和49年02月から06月に掛けチューレンヒマールに隊長として遠征している。 隊員6人,300名のサポーターを雇い,登頂まで後500m程迫ったところで断念していた。 登頂できなかったとはいえ,社会人山岳会としての功績は素晴らしかった。 創立80周年記念誌「想いはるかに」1929〜2009年,編集者係今沢聖,寺倉忠宏,平成22年01月02日発行を譲り受ける。 その記念誌を読み綴るうち,私が学生時代に明峯山岳会の会員と山で出会っていた事を想い出させていた。 互いに単独で北鎌尾根を目指し,七倉までタクシーを相乗りしていた。高瀬川を互いに擦れ違うよう歩き,彼は北鎌平でビバーク, 私はその下の草地に宿っていた。そして独標付近からはどちらかが休めば互いに休み,一言,二言語っては頂へ辿っている。 その事が想い出された。「想いはるかに」の記録を綴り探ると昭和43年07月4〜7日,北鎌尾根一槍ケ岳,堺沢行雄,単独とあった。 不思議な縁がここでも顧みる。私には先鋭的な登攀記録はないが地味な岳を通し,共通の豊かな気持を持つことができていた。 その後,創立60周辺記念誌「北岳のうた」,明放峯山岳会も譲り受ける。厳しい岩壁登攀の技術的な事は追い付かないものの, 冬山の登山形式が面白い。特に集中登山,多くのメンバーが揃ってこそできる社会人の山岳会になっている。 2010,07,13,工場にて 考査書と2つの山岳書 暮れも近くなり私の処に3つの考査書及び山岳書が届けられた。明峰山岳会の山田洋昭氏からは「単独無酸素登山とマスコミのあり方」。 続けて我がクラブの先輩見城氏からは「ナンガ・パルバード単独行」,ラインホルト・メスナー著。そして暮れが押し迫り,中学からの同期,明大山岳部 OBの長塩氏からは「頂に夢を求めて」吉村克臣著の自己出版の本が送られてきた。一見,山岳書及びその意見書は繋がりがないよう 思われるが一読してみて1つの線で結ばれいるよう思えた。山に対する思考や見詰める姿勢は異なるがそれぞれの気持ちが伺える。 最後に届いた単行本は定年前後から山に惹かれ,自分の山での体験を事故を含め素直な言葉で綴っている。そして古希を迎え 1つの本を出版している。初めは読むに足らぬ本と考えていた。それは上から見下ろした考えだった。初めの経験は誰にもあり,思い 当るところも多い。高齢者として最近では平均コースタイムの倍を掛け歩んでいる。友は共に導きながら山を続けていた。彼は以前後輩に 実名でシゴキを綴る本を出版されていた。山には批判や誇張はありうるが,誤解を含めたそうした山の体験が低山の尾根歩きから沢登, 壁を攀じり,山への崇拝を高めより高い峰へ,世界の高峰へと目指してゆく。その先端のクライマーをメスナー著の「ナンガ・パルバード単独行」に 読み取ることができる。 メスナーは山里で育ち,山の機会にも恵まれ,それから自分自身の経験を生かし,優れた登山家になっている。思考的な面でも優れた 包容力を持ち,この本にも山に対する自分の葛藤を顕著に表現している。昔の英雄であり,現代でも通じるクライマーだった。それに対し 反する個人的な行動が日本では芽生えだしていた。その主人公栗木史多氏は「元ニート」と自称しマスコミの画像に自分自身をぶざま付けて 登る山を持ちだした。2002年20歳で山の魅力を知り,2008年まで4年間で世界七大陸の最高峰の内六座に登頂している。又2007年から ヒマラヤ8000m三座を無酸素登頂を成し遂げ,素晴らしい山暦を持っていた。 山はどんな方法,思考で登ろうと問題はない。個人の問題である。ただマスコミを通しての営利の登山には異議がでてくる。異なる 次元の放映がなされるようなった。極端に考えれば「お笑い番組的発想になっている。「単独無酸素登山とマスコミのあり方」の著者, 山田氏は画像裏の大舞台を映さず,無酸素登山でヒマラヤを単独行で登る栗木史多氏について述べている。プロとか個人とかいう問題を 越えていた。画像裏の何でもし放題を批判している。それに乗るマスコミも可笑しい。マスコミを使い,多くのスポンサーを持ち,ルート工作なり, 難問,天気予報等は他人任せ。それでいて単独登頂を唄うのは山でなくとも世の道徳と矛盾に満ちているのではないか。 過ってメスラーは9日間でナンガ・パルバードを単独で登頂した。その後ベースに戻り,この著書のなかで次のよう述べている。次の世代は このような単独登攀を僕よりのもっと楽々と優雅にやってのけるだろう。8000m峰の難しい壁を越え,一日で,しかももっと少ない技術を 使ってね。こういった登攀は色々とこれから実現されるのだ。僕はただ最初のところをやっただけさ。」,「物量を動員することなく,自分自身 の能力で前に進もうとするだろう。酸素マスクなしのエヴェレスト登攀もそうだった。」 それが何処でボタンを替え違えたのか。栗木氏も最初の山への志は同じだっただろう。 どんな方法で登頂する事も,それ自体は構わないが表と裏と異なる偽りの報道と,それでよいと進める周りの人々がいること自体が 不思議でる。山へ登る純真な気持ちは踏みにじられている。マスコミが悪いのか,本人が悪いのか,それは判らぬが如何にみても本人が 一番悪い。個人の問題ではあるがそれを報道すること自体が可笑しく思われた。もう何でも有きの時代は終えるべき時期にきている。 ただまだまだお笑いとして画像を送り視聴率を上げる為,作られているのが現状のようだ。 2011,01,04,三筋にて 諸感Top 山と熊 このところ熊と遭遇する機会が多くなった。山で熊に初めて出偶わしたのは1972年の晩秋,那須大峠でバッタリ遭っている。 同期Oと三斗小屋に下る途中だった。その時の日記を見ると「熊に出偶わす。三本槍ケ岳を越え大峠への尾根の径,潅木混ざりに 被われた小径。秋の明るい陽差しを浴びながらのんびり下っていた。その折眼の前に黒い塊りが現れた。 せいぜい10mか,15m先を熊が横切る。唖然と立ち止まる大川と私,体が硬直し動く事もできず,眼が据わってしまっていた。 ゆっくりした動作で目の前を黒い大物が横切った。私より大きな熊,もう姿を消し大分達っているが,動けずにいる。 目の前が真っ暗になり,何も分からなくなった。熊か? 互いに確認し頷く大川,彼もまだ言葉がでずにいる。 ほっとするも気はまだ焦っていた。言葉もなく,留まる息が激しく鼓動し治まった。先に進むにも悠著する。 暫らく何も言わず,まだ黙っている。まして先頭に出る者はいず,互いに譲る。真近で見え過ぎた熊,又何時現れるか不安が募る。」 そして翌年の夏には北海道でヒグマが遠く幌尻岳南カールを横切るのを見下ろしている。遠くからでも小熊がピョンピョン跳ねるよう 歩き回り,傍に親熊がいた。この当時は入山に営林署の許可が必要で,熊出現に対し不安を訴えると所員に笑われたものである。 その2年後,1974年夏にはヒグマに襲われ多くの犠牲者がでて,日高連峰は全山入山禁止の処置が取られ, 2年度に渡る合宿も変更せざる得なかった。それからは話題性からか,時折ニースに乗るようなる。 私はその後7,8年,山行を重ねてきたが山とも離れ,熊騒動は新聞ざたで知るだけになっていた。それが最近再び山に登り始め, 熊との遭遇も多くなる。一昨年の師走,大菩薩小路沢ノ頭北尾根のツメで,目は遇わせなかったが,ツキノワグマが尻を向け熊笹の中へ 消えていった。ガサガサ笹が揺れるのが聞こえるような近さだった。15mほどだろうか。 又熊の糞は6年前の7月,妻と尾瀬ケ原を散策し,竜宮からの帰路,木道で往きにはなかったものが盛り上がるよう積まれていた。 脇の立木に新しい爪痕も残されていた。そう云えば今年の6月,白砂山では八間山に回り込む折,真新しい真黒な山のような糞に 出偶わしている。艶のある盛り上がりだった。糞の数では古いものを入れ今年の正月,大菩薩セイメイバン南東尾根で暫し山径を塞ぐ 熊の糞を見る。どれも山道の中央にデンとあり,古く固まるものもある。又熊棚をも幾度となく見上げ見付けている。 里に下る野猿,鹿と共に熊が最近山里のあっちこっちに出現しニースを賑わしている。続く温暖化と開発の手が自然界に深く侵入し, その境が薄れてきたのが原因と云われるようなった。今年の8月立山連峰,折立を下る折,小径で熊に追い掛けられている。 当時の言葉では「次はコーヒータイムと再び三角点台地から急坂を下る。狭い窪地のような径,両側は樹林の枝々が被い山道を埋めていた。 300m程下った所で前を歩いていたハイカーから「熊だ!」との声が飛び散る。そして戻り返してきた。4人,5人が駆け上がってくる。 熊の体格は大人ほどの大きさ。黒い塊が四ッ足で肩を揺すりながら山径を登ってきた。 我々も急ぎ戻る。つい先ほどまで熊防御用スプレーの話で持ちきりだったがそれが現実のものにとなる。笛を取だし命一杯吹く。 そして三角点台地の降り口に立ち,更に腹から吹いた。熊は前方15m程の所で止まることなく,径を塞ぎ更に体を揺るがし向ってきた。 後がない。もう一度大きく息を吸い笛を吹く。すると右に被さる樹葉に熊は方向を変え,藪の中に飛び込んだ。私のいる場所から 距離にして10mもなかった。何故か心は落ち付いていた。私1人が降り口に戻り,熊を閉ざすよう自然と笛を吹いていた。 今まで藪に入る折は一度か二度, 熊が出そうな鞍部に立つ前に笛を吹くか,大声を上げていた。3年前だったと思う大菩薩の藪尾根で イノシシと思ったら大きな熊に驚かされている。目線やや下,右側前方で笹薮がそこだけを大揺れに笹葉を動かしていた。最初は小笛から 大きく笛を吹き,それが耳に入ったのか? 谷間の方に向きを変え下って行く。熊と向い遭い笛を吹きで立ち向かったのは今度で2度目になる。 今回は逃れる場所がなかった。後が人の壁になっている。 ホッと尻もちを着き,熊は右に逸れたと,そこに留まっていた10数人の登山者に伝えた。何故,そんなにも落着き,自分だけが 逃げなかったかは判らない。ただ三角点台地に熊が乗ったら大変なことになっただろう。小熊もまだ親離れしたばかりと思われる。 好奇心に大勢でいたのが助かったと思う。改めてここでコーヒータイムを取る。暫くして,今下ってきた小径に熊が現れ,登り去るのを見ている。 ここ三角点標の東側の藪に獣道が既にあるのだろう。再び折立へ下り始めた時,熊が横切った所には獣道の口が臨まれた。 熊をかえって誘導しているとの声も聞く。良いのか悪いのか定かではない。ただ自然とでた動作だった。」 そして年も迫った今年の12月,笹子隧道の天井崩壊事故の朝, 御坂山塊の雲母山へ登る途中,日陰雁ケ腹摺山手前の尾根で再び ツキノワグマに出偶している。「ルートは踏み跡もなかった。藪尾根は覚悟していたが尾根上に立つと,尾根はすっきりした藪絡まぬ尾根になる。 最初の急登で汗を掻き,羽毛からチョッキ,ジャンバーに着替えてた。程よいペースで落葉松林の幾らか緩い傾斜になる。 ほっとするものの見上げる尾根の前方に何か黒い塊が蠢いている。咄嗟に熊と判った。下を向いていた熊が首を捩じるよう頭をもたげた。 それと同時,大きな顎口から「ヴァォー」と声が飛ぶ。威圧的な叫び声だ。目が遭い向い合わせの熊がゆっくり前進し近づいてきた。 私は立ち止った間々,迫る大熊に両手を広げ,「ウォー」と大声で叫び返していた。 黒い背が見え,四つん這いでゆっくり肩をうならせ突進してくると思われた。それが右に避けてくれていた。 動けぬ私は熊が見えなくなっても動けず,谷間を見詰めていた。ポケットから笛をだし,ひと笛,小さく,大きく笛を吹く。 今年は夏にも北アルプス薬師岳で熊に追い掛けられていた。今回は晩秋と云う一番悪い時期,如何にか最悪な事態は免れた。 妻は登山道を外れた尾根を歩む私に出掛ける都度,熊に気を付けてと必ず言葉を付け加えて掛けてくれている。 熊の出現する条件は整っていた。藪の切れ目,緩やかな鞍部,日当たりのよい見通しよい所に熊は多い。人も熊も気持は同じである。 寒く暖かさを求め攀じれば,目指す所には必ずと云ってよいほど獣はいる。如何に注意するか,まだ対処する方法は見えないでいる。 2012,12,09,三筋にて 藪山の本・・4冊 先日信越国境,四阿山を尋ね,帰路北軽に寄った折,K先輩から私好みの本があると「花の旅,湯の旅,縦横」田中隆二著を譲る受ける。 山行は計画にあたって人気や流行にとらわれず,自分の関心のある所を自力で情報を収集し,できるだけオリジナルなプランに仕上げている。 又実際の山行では車などに頼らず,自分の足でより多くを見聞するよう努めた内容になっていた。 帰宅して師走に入り,より広く甲斐の山々知ろうと少し奮発して「甲斐の山山」h4年出版,小林経典著@1800を¥3600で購入。 峠,山の由来や山域を細かく分け,分からぬ低い山々をも紹介している。 これに合わせて購入したのが「中央線の山を歩く」藤井俊夫著,@1600を新書同様な古本を¥800の安値で手に入れた。 この本は朝発ち日帰りの日の当たらぬ山,取り上げられるチャンスの少ない山の紀行ガイド。それを含めた登山道と藪尾根を紹介している。 そして今日は「バリエイションハイキング100コース」松浦隆康著@1995が届いた。「静かな尾根歩き」同著の続番の形態になっている。 一昨年の5月に手に入れた同書は私が事前に調べ登っていたルートと重複するルートが多く,又充実した内容で確りしていた。 大菩薩重川左岸尾根を下る積りで準備していた前日に同書が届き,コースタイムの不安が解消し,恩若ノ峰南西尾根まで下った覚えがある。 購入したこれらの本はどれもが新ハイキング社の出版,普通のガイドブックとは少し異にしていた。好奇心を掻き立て貪欲で結果的には 藪山になり,人寂しい山なり尾根になる。関東周辺だからこそ,このような本を求め人が多いのかも知れない。1冊の本が急に4冊の増え, 街に居ながら山を想い嬉しい本が手元に集まった。 2012,12,16,三筋にて 諸感Top 続,山径…諸感U,2013年〜15年 |